パスハの南(12)
探さなければギリスは見つからなかった。
廊下の角を曲がったところで、ギリスがしゃがんで、さっきの黒猫と対峙しているのを、ジェレフは見つけた。
「ギリス、せめて退出の挨拶くらいしないとだめだ」
頭ごなしに叱責する気がせず、ジェレフは控えた声でギリスをたしなめた。
しかしギリスはいつものように、全く聞いていないふうな背中をこちらに向けており、自分の前に座っている猫に、みゃうみゃうと鳴いてみせている。
猫は逃げはしなかったが、冷たいほどにギリスを無視していた。
「お前、そっくりだな。あいつに」
背後に立っても、ギリスはジェレフを振り返らず、猫に話しかけた。
「そう思わない? こいつスィグルにそっくりだろ、見た目も性格もさ」
ギリスが罵るように言うと、猫はにゃあと鳴いた。名前に反応したように聞こえた。
「……スィグル?」
ギリスが訝しげに呼びかけると、猫はやはり、にゃあと鳴いた。いや、ミャウと鳴いたのかもしれなかった。海辺の猫なのだから。
「お、お前、まさかスィグルって名前なのか」
それが驚天動地の出来事であるかのように問うて、ギリスは猫を捕まえようとした。しかし黒猫はするりとギリスの手から逃れ、薄暗い廊下を何歩か先まで逃げた。
「そんな馬鹿な、逃げるなこら。どうして逃げるんだよ」
ギリスは困ったふうに、床を這って猫を追いかけた。しかし猫は知らん顔をしている。まるで聞こえないかのようだった。
「……スィグル」
泣きつくように、ギリスは猫に呼びかけた。すると猫はまたミャウと答えた。
「お前、部族の言葉がわかんないのかよ。恥ずかしいと思わないのか」
「ギリス、ただの猫だから」
可哀想になって、ジェレフはギリスをたしなめた。
どんな顔をしているのだろうと思ったが、見たくないような気もした。まさか泣いているのではなかろうかと恐ろしかった。ギリスがそういう感情を顕すことは、幼い子供のころですら無かった。少なくともジェレフの知る限りではそうだ。
「なあジェレフ、イェズは死ぬとき俺と話したんだろ。あいつとじゃないんだよな」
ギリスはぼんやりとした声で、そんなことを言った。
お前、泣いてないよな。ジェレフは内心でそう呼びかけた。頼み込むような気分だった。
「なんでだろ、ジェレフ……」
エル・イェズラムの死を受け入れられずに苦しんでいるのだ。この場に居合わせたのが運の尽きだ。慰めてやらなければ。
そう思って、ジェレフはギリスのそばに屈み込もうとした。
「なんか俺……ゲロ吐きそうなんだけど」
きっぱりとそう言って振り向いたギリスの顔色は蒼白だった。嘘と思えなかった。
「よせ、せめて泣け。ここで吐くな」
とっさになだめようと、ジェレフはギリスの丸めた背に手を置いた。この際、魔法でもなんでも使って治させなければと思ったが、吐き気を止める方法をジェレフは知らなかった。知っていればとっくに使っていた。自分か、エル・サフナールに。
「なんで泣くの」
なにかを堪えているのが明らかな声色で、ギリスは呟いた。
「悲しいからだよ。お前いま悲しいんだよ。普通は悲しいところなんだ、こういう時は!」
「俺、泣いたことないから……わかんな……」
げふっ、とギリスの喉が鳴った。思わず悲鳴をあげて、ジェレフは彼の口を覆った。
しばらくお互いに息をとめて、必死で堪えているふうなギリスの背中をさすった。
「あー……治ってきた。やばかったな、でも」
じっとこちらを見上げて、ギリスはにやりと面白そうに笑った。
「ここでジェレフの礼服にゲロ吐いてやったら、イェズがどんなに喜んだか」
「英霊がそんなもんに喜ぶか!」
「喜ぶって。絶対そうだよ。やっぱ、もいっぺん吐いてみようか」
そう言って自分の口に手を突っ込もうとするギリスの腕を、ジェレフは必死で引き抜こうとした。目眩のする話だが、ギリスに吐き方を教えたのはジェレフだった。以前、派閥の部屋(サロン)の宴会でギリスが大量の酒を飲んだときに、昏倒しかけたので、あわてて吐き戻させたのだ。
「勘弁してくれギリス!」
「俺はほんとに情けない、あいつが俺より大切だというやつが、あいつと同じ名前をつけた猫まで飼ってるなんて、ものすごく情けない。そいつがイェズの遺言まで知ってて、イェズを看取ったなんて。しかもなんか良い奴っぽいし……俺は誰に当たればいいんだよ、お前しかいないんだジェレフ」
「あとで飲むのに付き合うから! ここの酒はうまいらしいぞギリス!」
ギリスの両腕を掴んだまま、ジェレフは説得した。剣呑な半眼で、ギリスはじっとこちらを見た。
「ほんとか」
ジェレフは頷いて請け合った。ひどく酒精の強いものらしいが、味はいいと聞いている。
ギリスは年に似合わず酒豪だった。飲ませると酔っぱらうので、誰もギリスに付き合いたがらなかった。しかし一人で飲む質ではないらしく、宴会から追い払われると、いつもつまらなそうにしていた。
今は無理でも、飲ませれば大人しく泣くのではないかという期待が、ジェレフの中にはあった。
「戻ろう、ギリス。仕事なんだから」
「嫌だ、俺はここにいる」
立ち上がらせようとするジェレフの手を拒んで、ギリスは廊下の先に座っている澄ました黒猫を指さした。この上なく挑戦的な態度だった。
「あいつに、思い知らせてやる。俺のほうが大切だということを」
恨んでるんだな、出立のときの仕打ちを。ジェレフはどこか呆然としながら、そう思った。
猫は金色の眼でじっとこちらを見返し、馬鹿にしたように、ミャウと一声鳴いてみせた。
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