パスハの南(11)
「なぜギリスをご存じなのでしょうか。レイラス殿下から何かお聞きなのですか」
ギリスの静止のあまりの心苦しさに、ジェレフは押し出されるように口をはさんだ。それを切っ掛けに諦めたのか、イルスはギリスに差しだしていた右手を引っ込め、こちらに目を戻した。気を悪くしたふうもなく、彼はただ苦笑していた。
「スィグルが? 知り合いなのか」
何も知らないらしかった。しまったと思って、ジェレフはただ曖昧に首を横に振った。
「では、誰が殿下にギリスのことをお伝えしたのでしょうか」
「エル・イェズラムだ」
ギリスがぽかんとしたように、こちらを見た。
まさか知らないのだろうかとジェレフは思った。
確かに、エル・イェズラムの最後の英雄譚(ダージ)に、この異民族の少年の名は出てこない。だがイェズラムは、彼ら同盟の子供達を守るために戦ったのだ。停戦を維持するために。そしてそれが英雄の最後の戦だった。
ギリスにとっては、エル・イェズラムがなんのために戦ったかは、どうでも良かったのだろう。とにかく英雄はタンジールを去り、戻った時は石だけになっていた。養い親の最期を語る英雄譚(ダージ)を詩人達が奏でても、ギリスにはそれが現実のことと思えないのかもしれない。
幾多の歴史的な合戦場での、華々しい戦歴を誇る英雄の最期にしては、それは韻文で語るまでもないような、あっけないものだった。
エル・イェズラムはひとりで出ていき、ひとりで死んだ。鼓舞される大軍団も、率いるべき魔法戦士もいなかった。
彼の私闘だったのだ。
「遺言のようなものを預かっている。伝えるようなものかどうか判らないんだが」
言葉のとおりの困った顔で言い、イルスは押し黙っているギリスの固い表情と見つめ合った。
「イェズラムはよく、俺をお前と間違えて呼んで、最期のときにも話しかけてきた。公用語じゃなかったから、俺には意味がわからなかったけど、一緒にいたシェルが黒エルフ語がわかったんだ。それで、あとで意味を尋ねたら、教えてくれた」
言ってよいかと尋ねるように、イルスはギリスの顔を首をかしげて眺めたが、ギリスはやはり、微動だにしなかった。氷のような色の薄い目を見開いて、ギリスはじっと相手を凝視するだけだ。
「ギリス、今日はどんな悪戯をしたのだ、とイェズラムは言った」
教えられても、ギリスはまったく反応しなかった。まさか聞いていないのではないかと、ジェレフは危ぶんだ。だが、しばしの沈黙ののち、ギリスはやっと小声で応えた。
「それだけか」
イルスはそれに頷いてみせた。
「それだけだ」
そして死んだ、とは彼は言わなかったが、それがイェズラムの最期の言葉なのではないかとジェレフには思えた。
あの人は、たぶん見かけよりずっと、ギリスを可愛がっていた。重い病苦と闘うなかで、この痛みを感じないという能天気な子供を傍近くに置く感覚が、ジェレフには分からないこともあったが、エル・イェズラムは他の者には絶対に看病を任せなかった。自分など病床のある部屋に近寄ることさえ許されなかったのだ。
気楽だったのだろうか。
ギリスが話す、どこか外れたような話を、エル・イェズラムはいつも笑って聞いていた。ギリスが悪戯をして、皆を困らせ腹立たしくさせるのも、晩年の英雄には、このうえなく可笑しいらしかった。
長老会の実質の首長であった彼が許したので、ギリスはいつまでも悪童のままでいられたのだ。
「殿下」
唐突に、ギリスはまた言葉を発した。どこかのんびりした口調だった。
「イェズラムは強かったか」
「強かった。守護生物(トゥラシェ)をひとりで倒せる男がいるとは、俺はそのとき初めて知った」
憧憬を隠すこともしないイルスの言葉に、ギリスは淡く微笑んだ。
「イェズの得意技だよ。あれには、こつがあるのさ」
そう言うギリスはどこか誇らしげだった。
彼もたった一人で守護生物(トゥラシェ)を屠ることができた。しかし彼が自分の強大な魔力や、華々しい英雄譚(ダージ)を誇るのを、ジェレフは未だかつて聞いたことがなかった。
たぶん、天真爛漫なギリスにとって、それは、実際どうでもいいものだったのだろう。
初陣で、ギリスは突撃する隊に押し迫る見上げるような巨大さの守護生物(トゥラシェ)を、いちどきにまとめて二十八体も倒した。突進する先に待ちかまえるものを、彼は全て凍らせたのだ。
凍り付いた彫像のような敵を縫って、竜の涙たちは敵陣深くに無傷のまま突き進むことができた。
一気に魔力を使い切ったギリスが失神して落馬するのを、ジェレフは目の前で見た。騎手を失った目隠しされた馬は、恐慌しており、ギリスを蹄にかけた。仲間を追うべきところを、ジェレフはとっさにギリスを救いに走っていた。
そうしなければ後続の馬に踏み殺されていたのではないかと思える。今や、この戦場随一となった小さい英雄の、最初の英雄譚(ダージ)が、最後の英雄譚(ダージ)にもなるというのでは、彼にとっても皆にとっても、あまりにも惨いとジェレフは思ったのだ。
傷を治してやると、ギリスは怖がる様子もなく、戦いに戻ろうとした。
そこまで大量の魔力を一気に消費する者を、ジェレフは知らなかった。一戦きりで命が尽きるのではないかと心配になり、なんとかギリスを陣に帰らせようとしたが、彼はこちらの言うことなど全く聞いていなかった。
初陣に興奮して、英雄譚(ダージ)を得ようと焦っているのかと思った。
軍は勝利し、最大の功労を果たしたギリスを、族長は言葉を極めて誉めたたえた。
それをぼけっと聞き、褒美はなにがよいか尋ねる族長に、ギリスは迷う様子もなく応えた。
鷹通信(タヒル)を送りたいと。
族長はそれを聞き入れ、ギリスは詩人たちが戦陣で書き上げた彼の英雄譚(ダージ)の一節を書き写したものを鷹に持たせて、タンジールに向けて放った。長老会の首長に宛てて。
それで満足なようだった。
後に、正式に奏でられた無痛のエル・ギリスの英雄譚(ダージ)を、エル・イェズラムは何が面白いのか、ほとんど爆笑しながら聞いていた。ギリスの手ひどい悪戯の話を聞くときと、それは何ら変わらない上機嫌さだった。
たぶん、ギリスにとっては、宮廷で悪戯をするのも、戦場で守護生物(トゥラシェ)を倒すのも、根っこのところは同じなのだ。それをすれば、エル・イェズラムが笑う。
そういうことなのか、と、ジェレフはまた黙り込んでいるギリスの横顔を眺めた。
何を考えているのやら見当もつかない沈黙のあと、ギリスは突然に右手をのばして、向き合って立っているイルス・フォルデスの手を奪うように握った。皆ぎょっとしたが、それは握手のようだった。
唖然としたようなイルスに、握り合わせた手を振りながら、ギリスは真顔で尋ねた。
「殿下、海エルフ語でにゃあにゃあは何というのですか」
「ね……猫の鳴き声か?」
氷結の魔導師が握る自分の右手を見下ろし、イルスは少し仰け反っていた。
「ミャウミャウ」
頷くギリスに頷き返しながら、イルスは律儀に答えた。
「みゃうみゃうか」
最後に両手で相手の手を握ってから離し、ギリスは踵をかえして部屋を出ようとしていた。
ジェレフはあんぐりとした。挨拶もしないで出ていこうとしている。まずいのだが、引き留める言葉を思いつく間もない。
「殿下……少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
ジェレフが焦って頼むと、イルスは小さく何度か頷いて許した。
もう扉を開けて出ていったギリスを、ジェレフは彼の名を呼びながら追った。
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