パスハの南(10)

 廊下に猫がいた。

 真っ黒い夜のような毛並みをしており、闇の中に灯っているような二つの瞳は、金色をしていた。

 取り次ぎの者が、室内にいるイルス・フォルデスに来客の到着を告げている間、ジェレフたちは廊下で少々待たされた。

 そこへふらりと猫は現れた。

「にゃあにゃあだ」

 嬉しいのか、ギリスがふざけた調子で猫に呼びかけた。

 しっ、とジェレフは黙るようにギリスを叱りつけたが、そんなことを意に介する奴ではない。

 自分たちの足元まで偵察にやってきたらしい黒猫に屈み込んで、ギリスは猫の鳴き真似をしている。しかし黒猫はつんと澄ましていて、ギリスに取り合わなかった。

「ジェレフ、こいつ海辺の猫だから、こっちの言葉が通じないみたいだ。海エルフ語でにゃあにゃあは何て言うか知らないか」

「知るわけないだろ、そんなこと。猫に言葉の壁なんかあるのか」

 呆れた小声で、ジェレフは答えた。これが、やるときはやる男の姿と言えるのか。

 居室の扉が開かれ、取り次ぎの者が入室していいと伝えに来た。

 しゃがみこんでいたギリスを慌てて立たせ、ジェレフたちは控えの間を抜けて、中に入った。

 王族の居室ということで、無意識に、目のくらむようなのを想像していたが、それに反して中はあっけないほど質素だった。白漆喰の壁に、庭を望むテラスがあり、そこでは王宮にあったのと良く似た紙製の行燈(ランタン)が燃えている。夜風の入る室内は、床が暗い色合いの陶板で敷かれており、何台かの長椅子と、簡単な食事を盛りつけた低い食卓があった。

 椅子に腰掛けていたらしい少年は、こちらが入ってくるのを見て、立ち上がったところだった。確かに彼は、広間で彼の兄と手合わせをしていた少年だ。

 浅黒い肌と、青い目をしており、褐色の髪を束髪にしていた。王宮の夜会から戻った、そのままの格好だった。王族の礼服なのだろうが、黒エルフの王族が身に纏うものと比べると、あまりにも実際的で、まるで普段着のようだった。

「イルス・フォルデス・マルドゥーク殿下」

 挨拶をして、深く一礼しようとしたこちらに、彼は右手を指しだした。握手をしようという意味だと思えたが、ジェレフは虚を突かれて、ただ彼の顔を見つめただけだった。

 うっかり凝視しても、イルス・フォルデスは真っ直ぐこちらを見つめ返した。彼は父親には少しも似ておらず、人を拒まない、淡い微笑のような表情をしていた。

「英雄(エル)・ジェレフ」

 正式な名で呼ばれ、ジェレフは微笑を返した。彼はこちらの部族の作法を知っているらしかった。誰がそれを彼に教えたか、見当がついて、ジェレフは笑ったのだった。

 まだ大人とは言えない少年の手を握り返して、ジェレフは目礼した。

「族長リューズ・スィノニムの命を受けて参りました。スィグル・レイラス殿下がご体調を心配しておいでです」

「わざわざ来てくれて、ありがとう。俺はあいつの二倍は元気だよ」

 そう言って笑う彼は、確かに健康そのものに見えた。額冠(ティアラ)の下は計り知れないが、それ以外のところに竜の涙らしきものは見あたらず、魔法を使うようにも到底見えなかった。今でもまだ帯剣したままでいる彼は、どう見ても剣士だったからだ。

 さっそく診察を、とジェレフは考えた。

 それより先に、まずは根本的なところから説明したほうが良いのかもしれなかった。

 頭の中にある石が何をもたらし、その石を持つ者がどのように振る舞うべきか。

「英雄(エル)・ギリス」

 イルスが視線をそらして、半歩後ろにいたギリスを呼んだので、ジェレフは内心ぎょっとした。

 そうだった。彼はなぜか、ギリスに用があるのだった。

 イルス・フォルデスは気さくに、ギリスにも右手を差しだした。ギリスにその意味が分からないはずはなかったが、彼は相手の手を見つめ、凍り付いたように動かなくなった。

 挨拶に応えないまま、ギリスは視線をあげて、じっとイルスの青い目に見入った。

 お前、なにか言えよと、ジェレフは焦った。

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