パスハの南(9)
「その子がエル・ギリス?」
壁際から面白そうに様子を見ていた案内役が、ギリスを指さして訊いた。ギリスは十六歳で、その子と呼ばれるほど幼くないはずだが、海辺の者たちの目には、自分たちは年齢より若く見えるらしかった。
「これがエル・ギリスですが何か」
首を絞めたまま、ジェレフは答えた。
「エル・ジェレフ、ギリスが死んでしまいます」
サフナがはらはらしたように忠告したが、ジェレフは大丈夫ですと答えた。死ぬほどは絞めてません。気は遠くなるでしょうけど。それくらいの目に遭わせたいんですから。
「フォルデス殿下がその子を必ず連れてくるようにと」
案内係が、ぐったりしているギリスを指さしたまま言った。
珍獣だからですか。勢いでそう応じかけて、ジェレフは気付いた。
どうしてギリスのことを知っているんだろう。スィグルが鷹通信(タヒル)でも打ってきたのだろうか。出立の時には会わせたくないような口ぶりだったが。
不意に気が済んで、ジェレフはギリスを解放した。
咳き込んでいるギリスを、エル・サフナールが心配そうに見ている。
「ジェレフ、なにかが走馬燈のようによぎって見えて気持ちよかった」
「そうか、それが天国の門だ」
丈夫なやつだとジェレフは思った。ギリスは子供のころからとにかく強靱だった。竜の涙の中には、頭の中にある石のせいで、幼少のころから足元がふらつくような不運な者もいる中で、ギリスはまさに殺しても死なないような奴だ。
エル・イェズラムが言っていたように、笑うと愛嬌があって憎めないやつだが、その打たれ強さが時々猛烈に憎く思える時があった。たとえば今がそうだ。
「殿下は、ここから少し離れたところにあるご自宅でお会いになるそうですから、謁見される方はそろそろ馬車のほうに。もう準備ができているはずです」
誰を連れていこうかと、ジェレフは考えた。
タンジールから伴ってきた透視者は双子の男で、向かいの長椅子に瓜二つの顔で腰掛けている。彼らと自分と、それから、指名されてしまったからには、ギリスを連れていくしかない。
ほかの者は残していくことにした。何か思いも寄らないとばっちりがあると困る。
残った者たちに、この足で早々に滞在先である領事館に戻るよう伝えて、ジェレフは双子とギリスを伴い、用意されていた馬車に乗った。
サウザスの街は夜だった。
王宮の庭には、そこかしこに、紙で火を覆った行燈(ランタン)が飾られていた。ぼんやりと明るく、紙に描かれた様々な文様や絵を浮かび上がらせているその光は、タンジールを照らす光に比べると、いかにも頼りなく野蛮だったが、ジェレフには美しく見えた。
しかし、ここで一生を送りたいとは到底思えない。
石造りの都市は、真新しかったが、単純で、取り柄といえば大らかさだけに思えた。
艶やかに広がるタンジールの目映い商業層が、不意にとても懐かしく思い出され、にわかな里心に苦しめられている自分をジェレフは感じた。
「ギリス、行くからには約束してくれ。向こうのことは、殿下と呼べ。挨拶以外は口にするな。相手の目を凝視するな。この部族では、挑戦していると思われる。それから、相手がお前を指さしても、それには深い意味はない。絶対に魔法は使うな。絶対にだ。わかったか」
「わかってるよ。ジェレフ、苛々すんな。俺はやるときはちゃんとやるから」
馬車の向かいの席で、ギリスはどこかむくれたような顔をしていた。
「ちゃんとしなくていい、何もするな」
苦笑して、ジェレフは念押しした。
「殿下を診たら、俺たちタンジールに帰れるのか?」
ギリスが馬車の窓から異国の街を眺め、そう尋ねてきた。
「いいや。着いたばかりだろ」
長旅をしてここまで来たのだ。やるべき仕事はまだ沢山あったし、これから一ヶ月は滞在する予定だった。
「俺、もう帰りたい。タンジールに」
いつになくひ弱な感のあるギリスのぼやきを聞き、ジェレフはこいつも案外参っているのかなと驚いた。
「そう言うな。嫌なら嫌でいいから、領境の外をよく見ておけよ。いかにタンジールが素晴らしいか、改めて思い知れる」
「そんなの、どこにも行かなくても思い知れる」
切なそうに、ギリスは答えた。
ジェレフは消沈している悪童の横顔を苦笑して眺めた。
双子の透視者が、声をそろえて、麗しの(フラ)タンジールと讃え、ギリスを励ました。
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