パスハの南(8)
「お前はほんとうにな……黙っていろと言われたら、黙っていろ。頼むから」
ジェレフはギリスに頼んだ。もう頼むしかなかった。
あんな微妙な話題で、もし族長ヘンリックの不興を買ったらどうすれば良かったのか。
海辺の王宮では、血なまぐさい継承の話題は禁忌でもなんでもないのかもしれないが、異国人である自分たちが口出しするような話ではない。黙っていれば良かったのだ。
「だってジェレフがびびってたからさ。俺がなんとかしてやろうと思って」
「誰がびびってただって?」
確かにびびってたさと悔やみながら、ジェレフは顔を擦った。
こんな成り行きになってしまって、どうにかならないかと困っていたが、ギリスのあの一言で、族長との会話は終わりだった。
ギリスの言葉に気を削がれたのか、それとも元々あれで終わりだったのか、族長ヘンリックは別れの挨拶をして、さっさと取り巻きを引き連れ、広間のどこか別の場所へと移動していった。
「あの兄貴のほうが次の族長ってこと?」
興味本位なのが丸わかりの口調で、ギリスは尋ねてきた。知ったことかとジェレフは思った。
「どうなってんだっけ。ここの部族の継承って」
「現族長と対戦して勝てば、族長冠を奪える」
「すげえ」
ギリスが驚いている。
「なんでイェズはあいつを殺っちまわなかったんだろう?」
「エル・イェズラムが異民族の族長になれるわけないだろう。治められるのは自分と同種族だけだ」
子供のようなギリスの発想に、脱力しながらジェレフは教えた。
「そうなの?」
あっけらかんと聞き返してくるギリスに、ジェレフは疲れた。
「神聖神殿がそう定めている。一領、一部族、一君主だ。背けば大変なことになる。……というかだな、お前、日に何度も神殿に通っているくせに、なぜ教えを知らないんだ」
「俺は懺悔したいだけなんだもん。いつも罪汚れない身でいたいの」
じゃあ罪を犯すなとジェレフは言いたかった。
居間らしい丁度品のある控えの間で、ジェレフたちは待たされていた。扉を開いて、案内係の海エルフが戻ってきた。
「エル・サフナールが戻られましたよ」
彼が言うように、ちょっと落ち込んだような顔をしたエル・サフナールが部屋に入ってくるところだった。彼女は族長ヘンリックの正妃を診察するために、別行動をとったのだった。
サフナールは今回の使節団の正使ではなく、物見遊山でやってきた志願者のひとりだった。だから仕事をしなければならない謂われはないのだが、女性の診察ということで、どこかしら身構えたジェレフの心情を察して、代役を申し出てくれたのだった。
治癒術は相手の体に触れる必要があり、もしも大量の魔力を投入する場合、ジェレフが相手を抱きしめねばならない事をサフナは知っているからだ。
低い長椅子に居心地悪く腰掛けて待っていた仲間のところへ、エル・サフナールは戻ってきて、ちんまりと椅子の端に腰掛けた。ジェレフの隣だった。
その事実と、人がもうひとり座れるようでいて座れない絶妙な距離のとりかたに、ジェレフはなんだか情けないような気持ちになった。可愛いなと思ったからだ。
「どうでしたか」
「無理でした」
ジェレフが尋ねると、サフナールは小声で答えた。
彼女は案内役の海エルフの耳を憚ってか、部族の言葉で話していた。
「最後のご懐妊のときに胎児の毒にあたられたようで。弱っておいでです。治療はしましたが、一時的にしかご回復されないと思います。次の妊娠は危険なので、族長にはそうお伝えしたほうがいいです」
ほとんど囁くようなサフナの話に耳を傾けながら、ジェレフは顔をしかめた。
「治療したんですか。俺に任せていいんですよ。石のない術医も連れてきているんだし」
竜の涙の魔力を使えば、そのぶん石は成長する。一度や二度であれば僅かなものだが、それでも一歩ずつ死に近づくことは確かだ。
「でも、ずいぶんお嘆きで、お気の毒だったので。私のほうがお役に立ったと思います、その……女の方ですから」
女同士だからという話は、サフナールはできない。それを言われると皆困るからだった。部族のしきたりでは、男女は同席できない。竜の涙でなければ、彼女はこうしてジェレフと対等に口をきくことも出来ないのだ。
「なんでも、この時期に懐妊できないと恥なのだそうです。正妃様もそうですが、族長閣下にとっても。でも本当にいけません。エル・ジェレフから族長閣下にお話ししてください」
彼女の話に、ジェレフは黙って頷いた。
下手に回復させない方が良かったのではないか。世継ぎの男子の頭数に不足があるとして、健康になったように見える妻がそれを望めば、他人から、やめろと言われてやめる男がいるだろうか。
そう思えたが、今さらの話であるし、なによりサフナの気持ちは分かる。今ここで彼女に言っても詮無いことだ。
「それから、正妃様のご長男の診察もしました」
ジェレフはサフナの話に今度は心底ぎょっとした。そんな依頼は聞いていない。
「正妃様に治癒の施術をしましたら、大変感激なさって、ご子息も診てほしいと、お部屋に呼ばれたのです」
「治したのですか」
思わず、まさかという口調で尋ねると、サフナは決まり悪そうな顔をした。
治したのだ。
遠目に見ただけだが、あの長男が病身なのは分かった。どんな病か知らないが、長患いのようだった。そういう患者を治療するのは果てしないことだ。竜の涙の治癒者にとっては、こちらの血を吸わせているようなもので、長く続けるといずれ共倒れになる。
「生まれつき心臓がお悪いようです。隠しておいでです。継承に差し支えるからと」
ひそめていた声を、さらに小さくして、サフナはこちらに身をかがめ、ほとんど耳打ちするように話していた。
まずい話だとジェレフは思った。
魔法で劇的に回復した姿を見て、そのあとまた不調に陥ったとして、正妃母子は再び竜の涙の治癒者を求めはしないだろうか。
だいたいの患者は、最初に治療した治癒者を強く信頼するものであるし、正妃はエル・サフナールを求めるだろう。しかし竜の涙は黒エルフ族に仕える者で、それを留め置くのは無理な話だった。
治癒者が欲しければ、正妃は族長リューズに情けをかけてくれるよう申し入れなければならない。族長は喜んでサフナを貸すにちがいない。同盟者に負債を与えるには好都合だからだ。
そうしたら、エル・サフナールは一生タンジールに戻れなくなるだろう。
こう思うのは自惚れかもしれないが、自分についてきたいばっかりに、南行を志願し、それきり故郷に戻れなくなるとは、この気の弱い人にとってはあまりに悲劇的ではないのか。
ジェレフは切なくなって、エル・サフナールの小作りな顔を見つめた。
早々に身を退いて、あとは自分に任せてくれと、ジェレフはサフナに言おうとした。
その瞬間だった。ギリスがふたりの間に無理矢理割り込んで腰を下ろしてきたのは。
恨みがましい氷の目で、ギリスは鼻が触れそうな間近でジェレフを睨み付け、そして低く脅しの聞いた声で言った。
「ジェレフ。口説いてないで仕事しろ」
ジェレフは一瞬沸いた怒りで気絶しそうになった。目を閉じ、それから開いて、ジェレフはギリスの首をつかんだ。
「仕事なら、今してる。お前はな、もう、帰れ。エル・ギリス」
「ジェレフ、絞めてる」
ギリスは首を絞められて藻掻いていた。お前も息はしてるんだなとジェレフは感心した。
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