パスハの南(6)
慣れない異国で不自由だろうが、滞在を楽しんでいってくれと、族長ヘンリックは言った。こちらは畏れ入って一礼した。型どおりの挨拶だった。
例の三男の件は、秘密であるわけだから、今ここで話題にするような事ではなかった。お互いに了承済みであろうし、今はただ、族長にこちらの顔を見せておけば礼儀に叶う。
ジェレフはそう判断して、もう引き下がろうかと思った。沈黙がちな彼らを前にしていると、どうも会話の糸口がつかめない気がしたからだ。
また一礼して退がろうと決めた瞬間、族長ヘンリックが広間の一角を指さして示した。ジェレフも他の者も、皆そちらを見た。
そぞろ歩く貴人たちのいる、なにもない開けた場所に、まだ年若いような三人連れが立っていた。ひとりは女性で、金髪だった。いくらか浅黒い肌をしていたが、どう見ても森エルフのようで、どう見ても妊娠している大きな腹を抱えていた。
彼女に寄り添って立っている若い男は、すらりとした体格をしており、遠目に見ても、族長によく似ていた。目の前にいるこの男を、そのまま若くしたようだ。
彼は向き合った少年と笑いながら話していた。頭ひとつぶん背の低い相手の髪をぐしゃぐしゃと乱して厭がられ、彼は笑っていた。
「あれがイルスだ」
族長はそう言ったが、どちらのことかジェレフには分からなかった。それを察したのか、ヘンリックはややあってから付け加えた。
「女(ウエラ)を連れていない方だ」
それは妻を意味する言葉だとジェレフは解釈していた。あの妊娠している娘がそうなのだろう。ヘンリックに似ているほうのが、あの娘の相手だろうから、背の低いほうのがイルス・フォルデスに違いなかった。
「優れた治癒者だそうだな。リューズが手紙に書いていた。我が王朝の奇蹟」
族長リューズの言葉を引用しているのであろう、族長ヘンリックが口にしたそのほめ言葉に、ジェレフは恐縮した。族長は同盟者に恩を売るためにそう書いたのだろうが、分かっていても気恥ずかしかった。同じ治癒者であるエル・サフナールが、微笑みを自分に向けるのが感じられた。
「妻を診てやってくれ。末の息子を産んでから体調が優れない。もう孕めないと本人は思い詰めている」
大して深刻そうでもなく、ヘンリックはジェレフに頼んだ。世間話のような気がした。
「族長。それが今期不発の言い訳で?」
彼の護衛のひとりが、軽い調子でそう話しかけた。ヘンリックが声もなく笑い、その他の者たちは声を上げて笑った。彼らには面白い冗談らしかった。
「それは俺への挑戦か? 使者殿たちには、ちょうどいい余興だ。中央広間(コランドル)で俺と踊るか、カダル」
「まさか」
笑って言うヘンリックに男はやはり笑って答え、両手を挙げて空手を示した。
「そういうのは殿下がたに任せます」
男が顎で示したほうを、ジェレフは見やった。なにもない、がらんとした広間の向こう岸で、ヘンリックに似た若者は、彼の妻らしい娘を抱き寄せて口付けをしていた。その濃厚なことに、ジェレフはたじろいだ。
その横にいるイルス・フォルデスが、なぜか抜刀している。その剣の腹で、接吻する男の尻を叩いて、彼はなにか罵ったようだった。笑って妻を手放し、若者はイルスに笑い返すと、おもむろに腰に帯びていた剣を抜いた。
それはどう見ても真剣だった。親しげになにか言い交わしながら、がらんとした広間の中央に歩いていく二人を、ジェレフは不吉な気分で見守った。
「もうおひと方は、どなたですか」
尋ねなくても、ジェレフには見当がついていた。彼らはふたりとも額冠(ティアラ)をしていたからだ。
「ジン・クラヴィス。イルスの兄だ」
どことなく違和感のある族長の答えに、ジェレフはなぜだろうと考えた。どうしてこの人は、あれは自分の次男だと答えないのだろう。
「ご結婚されたのですか」
そうなら祝辞を述べなければならないと思い、ジェレフは尋ねた。自分たちの旅の間に、情勢が動いたのかもしれない。
「いいや。あれは女(ウエラ)だ。妻ではない」
どこか憮然として答えるヘンリックの背後に、長身で隻眼の男が控えており、たしなめるように言った。
「いいじゃないですか。その女(ウエラ)が孕んだおかげで、殿下もおとなしくなって、こうして海都に戻れたんだから。今期はもう終わりですよ」
ヘンリックはなにも答えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます