パスハの南(4)

 イシュテムの館からタンジールに向けて、サウザス到着目前の報を持たせた鷹通信(タヒル)を放った。

 ここまでは、船が難破でもしないかぎりは無事で当然だった。航路沿岸は部族領か、同盟国であるし、どんなとんでもない奴でも船に閉じこめられている限り、できる悪さも限度がある。

 しかしサウザス入港後のことには頭が痛い。

 竜の涙たちは教養として、公用語も外交儀礼も仕込まれている建前だから、本来なら心配することはないのだが、ギリスは本当に大丈夫だろうか。

「ギリス、公用語は話せるんだろうな」

 当然だよなという含みをたっぷり籠めて、頭布(ターバン)と格闘しているギリスに、ジェレフは尋ねた。

 ギリスの嘘に傷ついたらしいエル・サフナールは、もう手伝ってくれなくなったらしい。当然の報いだ。

「話せると思うけど、あんまり自信ないなあ。聞く方はなんとかなるけど」

 いたって正直にギリスは答えた。なぜちゃんと学んでこなかったんだと言いかけて、ジェレフは気付いた。話せないということは、失言もしないということだ。

 そんな素晴らしいことがあるだろうか。

「まあいいさ。謁見の時には、俺が代表で挨拶をするし、お前は黙っていればいいんだからな」

 とりあえず頭布(ターバン)を仕上げて、ギリスは鏡を覗き、むっとした顔をした。格好に構わないようでいて、見栄えが悪いことは理解できるらしい。ほどいて巻いてを永遠に繰り返されそうだったので、あきらめてジェレフはギリスの頭布(ターバン)を巻いてやった。

「謁見て?」

「族長への謁見だ」

「ああ、左利きのヘンリックだ」

 納得したように呟くギリスに、ジェレフはいやな予感がした。

「その名は渾名だから、公用語では口にするなよ。特に正式な場ではな」

「例のあいつには、いつ会うんだ、ジェレフ」

 ギリスの言う例のあいつとは、族長ヘンリック・ウェルンの三男の、イルス・フォルデスのことだ。スィグルの人質時代の友人で、彼の竜の涙の診察が、今回の南行の主目的のひとつだった。

 恩を着せるように、と、うちの族長は念押ししていた。形のうえではスィグルの頼みを受け入れたことになっているが、三男の難病は族長ヘンリックにとっては個人的な秘密の部類で、そこに貸しを作ることには、族長リューズにとって政治的な旨味があったようだ。

 海エルフたちは竜の涙を呪いの一種と考え忌避しており、呪われた息子を持っていることは、族長ヘンリックにとっては醜聞なのだ。

 そこまで思いめぐらせてから、ジェレフははっとした。

「ギリス、例のあいつが竜の涙だということは、秘密なんだからな。船を降りたら、いっさい口にするな。公用語でなくてもだぞ。誰が聞いているか分からない」

「なにが秘密だよ。肝の小さい野郎だよ。隠すようなことじゃないだろ」

「この国では隠すようなことなんだ。おとなしくしてろ」

 ギリスに理解しろというほうが無理かもしれなかった。

 黒エルフ族に生まれついた幸運をジェレフは改めて感じた。そのお陰で、誰に忌み嫌われることもなく、王族にも劣らず敬われ、英雄として晴れがましく生きていくことができる。その一方で、本当に王族に生まれながら、父親の弱みとして、隠れて生きている者もいるのに。

 どんな子なんだろうな、と、ジェレフは思った。あの気むずかしいスィグルが、大切な友達だというのだから、それ相応の器なのだろうが。

「頭、暑っいわ……脳みそ茹だりそう。このまま一日ずっとなのか。やってられない。呪われてると思われてもいいから、頭布(ターバン)はやめたい」

 ギリスが愚痴った。説教したいところだが、ジェレフも同感だった。

 じっとりと湿気を含んだ暑い空気が、船室にも侵入していた。ギリスでなくても王宮が懐かしくなろうというものだ。

 でもまあ、せっかくの異国の旅だ。野蛮さを楽しむくらいの度胸がないと。

「行こうか。英雄の顔をしろギリス」

 返事とも思えない声で、ギリスがあくびをしながら答えた。

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