第7話『帰省の報せ』
ようやく、お昼時のピークが落ち着いてきた。ほぼ絶え間なく接客を続けたので、気付けば午後1時過ぎになっていた。
「百花君に大輝君。客足も落ち着いてきたし、昼からの人も来たから、一旦休みなさい。朝から働き通しだったから、まかないを食べながらゆっくりとね」
「分かりました! 店長!」
「分かりました。一旦、休憩に入ります」
四鷹駅南口店店長の
スタッフルームに戻ると、テーブルにはチキンバーガーとサラダが置かれていた。お腹も空いているし、いい匂いがしてくるので食欲が湧いてくる。
俺は自分の分のアイスコーヒーと百花さんの分のアイスティーを淹れる。百花さんと向かい合う形で座り、まかないを食べ始める。
「チキンバーガー美味しい!」
「美味しいですね。お腹が空いていたので凄く美味しいです」
「そうだね。高校までも春休みに入ったから、午前中からお客様が多かったね」
「来週末あたりまでは今日のような日が続きそうだ。お店として嬉しいことだよ」
気付けば、萩原店長がスタッフルームに来ていた。俺達と目が合うと、店長は落ち着いた笑顔を見せてくれる。
萩原店長はこの四鷹駅南口店で15年以上店長をしている。高身長で整った顔立ち、フサフサで美しい白髪に渋い声。常に紳士的で、たまに気さくな姿を見せる。それもあって、一部の店員の間で「ダンディズムの化身」と呼ばれている。
あるベテラン店員の話だと、そんな彼が四鷹駅南口店の店長になってから、女性中心にリピーターが激増し、売上がかなり好調なのだそうだ。
「ところで、大輝君。前回のシフトまでと比べて気分がいいように見えるねぇ。普段以上にいい表情で仕事をしているから」
「いつも通りのいい表情だと思いましたけど、店長」
「ということは私の気のせいかなぁ。……大輝君。何かいいことがあったかな?」
店長がそう問いかけてくる。文香が引っ越してきたので気分がいいけど、店長が感付くくらいに表情に表れていたのかも。
「実は昨日から幼馴染の文香が俺の家に住み始めまして。親父さんの転勤が理由で。姉が千葉で一人暮らしをしているので、姉の部屋を使うことになったんです」
「そうなのか。文香君が一緒に住むことになるとは。確か、文香君は10年以上前に四鷹に引っ越してきたね。記憶が正しければ、前に住んでいたのは名古屋だったかな」
「そうです。文香の親父さんが4月から名古屋の支社へ戻ることになったんです」
「なるほど。そういうご事情があって……」
そうかぁ……と、萩原店長は静かな表情で言う。
文香と俺が幼稚園に通う頃からこのお店に来たことがあり、俺達が小学生の間はよく来ていた。なので、俺の家族も文香の家族も萩原店長とは顔なじみだ。
「ねえ、大輝君。文香ちゃんって、茶髪の美人な女の子のことだよね?」
「そうです」
俺がバイトを始めてから、文香はここに何度も来ている。確か、去年のゴールデンウィークくらいに、百花さんに文香を紹介したんだったな。
「大輝君」
俺の名前を呼ぶと、店長はゆっくりと俺に顔を近づけ、
「好きな人と一緒に暮らし始めると、心が弾むものだよね。昔、私も同じ経験をしたことがあるから、その気持ちは分かる」
俺の耳元でそう囁いた。低くて渋い声だから体の奥まで響き渡る。
店長には俺が文香を好きなことを気付かれていたか。小さい頃からの文香と俺のことを知っているし、文香と一緒に来ることは多かったからなぁ。あと、同じ経験をしたことがあるというのは、奥様と同棲し始めたことかな。
「このことはもちろん、文香には言わないでくださいね」
俺がそう耳打ちをすると、萩原店長は首肯して俺に微笑みかけた。きっと、店長なら大丈夫だろう。
「あんなに素敵な幼馴染の女の子と一緒に暮らし始めたら、大輝君がいつも以上にご機嫌なのも納得だね」
可愛らしい笑みを浮かべながらそう言い、百花さんは生野菜サラダを食べる。この様子からして、彼女は俺が文香を好きなことに気付いていない……かな?
「休憩が終わってからも、その調子で頑張ってくれ、大輝君。百花君もよろしく頼むよ」
「分かりました」
「頑張りますね!」
今日のバイトはもう半分が過ぎている。まかないを食べ終わったら、バイトが終わるまでホールの仕事を頑張ろう。
店長がスタッフルームを後にしてからは、百花さんと最近読んだガールズラブ作品の話をしながら、まかないを食べるのであった。
午後4時過ぎ。
バイトが終わった俺は一人で帰路に就く。
今日は朝からずっとバイトだったので、さすがに疲れが溜まっている。家からバイト先まで徒歩10分くらいの距離で良かったなと思う。社会人になったときは、職場の近くに住みたい。でも、それが仇となって残業をたっぷりさせられ、使い潰される可能性もありそう。どんなところに住むかはよく考えないといけないな。それに、一人暮らしじゃなくて、誰かと一緒に暮らしているかもしれないし。文香とか。
『おかえり、ダイちゃん』
仕事から帰ってきて玄関を開けたら、エプロン姿の文香が笑顔で出迎えてくれる光景を想像してしまった。
「……確実に、今朝の同棲発言の影響を受けているな」
実際に文香と同棲する関係になるには、まずは以前のように幼馴染として仲良くならないと。
「でも、家に帰ったら文香がいるんだよな……」
ほんと、夢みたいだなと思う。早く家に帰りたくて足取りが軽くなる。
そういえば、昼過ぎの長い休憩を取ってからバイトが終わるまで休憩がなくて、スマホを確認してなかった。近所の四鷹こもれび公園の近くに来ていたので、公園のベンチに座って確認することに。
「……LIMEで2件メッセージが来てるな」
差出人を確認してみると、文香から1件、和奏姉さんから1件来ている。メッセージが来た順で、まずは文香からだな。2時間近く前に来ていたのか。
『和奏ちゃんが明日から2泊3日で泊まりに来るって。あと、今日の夕ご飯は私がハンバーグ作るね。バイト頑張って』
「……どうして、俺はもっと早く確認しなかったんだ」
こんなに素敵なメッセージを受け取っていたのに。休憩はなかったけど、お手洗いには行くことはあった。そのときにスマホを確認しておけば良かった。ハンバーグは俺の大好物なのだ。
あと、和奏姉さんが明日から泊まりに来るのか。今は春休みだし、引っ越して2日経てば少しは落ち着いていると思ったのかな。あとは、今まで住んでいた自分の部屋がどうなっているか見たいという理由もありそう。
『お昼の休憩からずっとバイトしてから、今まで気付かなかったよ。ごめん。さっきバイトが終わって、今帰ってる途中。ハンバーグを楽しみにしてる』
という返信を文香に送った。
次は和奏姉さん。文香のメッセージから数分後に来ている。
『明日、そっちに帰るね。哲也おじさんと美紀さんを見送りたいから、土曜日までいるよ。あと、明後日は晴れる予報だから、こもれび公園でお花見することにしたよ』
「なるほどな……」
哲也おじさんと美紀さんを見送るためでもあるのか。和奏姉さんも2人にはお世話になったから、見送りたいのだろう。
あと、この公園は桜の木がたくさん植えられていて、四鷹市の人気のお花見スポットの一つだ。今もいくつかのグループがお花見をしている。ここで何度か、俺の家族と文香の家族で一緒にお花見をしたな。去年の春も、姉さんが千葉に引っ越すから、その直前にお花見したっけ。
まだ、桜の花びらはあまり散っていないので、明後日も十分に桜の花を楽しめそうだ。
『分かった。明後日はバイトもないし、俺も花見に参加するよ』
という返信を和奏姉さんに送った。
――プルルッ。
もう姉さんから返信が来たのかと思って画面を見ると、送り主は文香か。
『そうだったの。バイトお疲れ様。気を付けて帰ってきてね』
「……気を付けて帰ってきてね、か」
一緒に住み始めたこともあってか、この言葉には凄い力を感じるな。俺を待ってくれているのが伝わってきて嬉しい。帰る場所に好きな人が住んでいるって凄いことだな。
――プルルッ。
今度は……和奏姉さんからか。メッセージを見てみると、
『良かった。文香ちゃんにも話したけど、呼びたい友達がいたら呼んでいいからね。じゃあ、また明日ね』
という内容だった。
呼びたい友達がいたら呼んでいい……か。たくさん呼んだら迷惑がかかりそうだし、羽柴だけ誘うか。去年の夏、和奏姉さんが帰省している間に会ったことがあるし、漫画やアニメの話で盛り上がったから、彼なら大丈夫だろう。
『了解。明日は気を付けて帰ってきて』
そう返信をして、俺は再び家に向かって歩き始めた。
明日から2泊3日で和奏姉さんが帰ってくるのか。姉さんと文香は仲良しだから、文香のベッドで一緒に寝るのかな。ただ、去年の夏、年末年始と帰省したら、少なくとも一度は俺のベッドで一緒に寝るので、今回もそうなる可能性がありそうだ。
「ただいま」
家に帰って玄関を見ると、文香の靴がある。こういった小さな違いでも幸せを感じられる。
「おかえり、大輝。バイトお疲れ様」
キッチンの方から、桃色のエプロンを身につけた文香が姿を現す。俺と目が合うと文香は微笑みかけてくれる。凄く可愛い。スマホで写真を撮りたいけれど、そんなことを言ったら文香に引かれてしまいそうだ。
「た、ただいま、文香。引越しの作業や後片付けはどうだ?」
「終わったよ。ダンボールはお母さん達の引越しに使うから、お母さんと一緒に向こうの家に運んだの。だから、私の引越し関連のことはこれで一段落」
「そっか。文香もお疲れ様。あと、そのエプロン姿……」
「今、優子さんと一緒に夕ご飯のハンバーグの下ごしらえをしているの」
「そうなんだ。ハンバーグは好物だから、凄く楽しみだな。あと……そのエプロン、似合ってるよ」
そう言った瞬間、全身が熱くなっていく。小さい頃はこういうことを言っても大丈夫だったのにな。
ゆっくりと文香の方を見ると、文香の頬が結構赤くなっていた。そんな文香はチラチラと俺を見ている。
「あ、ありがとう。じゃあ、私は下ごしらえの続きをするから」
はにかみながらそう言うと、文香は早足でキッチンへ戻っていった。似合っていると言われて恥ずかしかったのだろうか。そんな彼女も凄く可愛らしかった。
「今日の夕食は文香ちゃんが作ったんだね。楽しみだ。じゃあ、いただきます」
『いただきまーす』
父さんも残業なしで帰ってきたので、今日の夕ご飯は4人一緒に食べることに。夕ご飯のメニューはもちろんハンバーグ。
文香が泊まりに来たときなど、3年前の一件があるまでは、たまに文香の作る食事を食べていた。それでも、文香はとても緊張している様子だ。文香だけは食事に手を付けず、俺達のことをじっと見ている。特に隣の椅子に座っている俺のことを。
ナイフとフォークを使ってハンバーグを一口サイズに切り分け、口の中に。
「……美味しい」
噛む度にハンバーグのジューシーな肉汁が溢れてきて。ハンバーグにかかっているデミグラスソースがよく合っている。
「とても美味しいよ、文香」
文香の方を向いて、改めてハンバーグの感想を伝える。
美味しいと言われたことにほっとしたのだろうか。文香は胸を撫で下ろし、嬉しそうな笑顔を見せる。そんな文香を見ると懐かしい気持ちに。
「良かった。大輝がそう言ってくれて」
まさか、自宅で文香の作ったハンバーグをまた食べられる日が来るとは。嬉しくて涙が出てきそうだ。そんな姿を見せたら恥ずかしいので、頑張って堪えるけど。
「大輝の言う通りだな。凄く美味しい」
「本当ね。明日帰ってくる和奏に申し訳ないくらい」
「美紀さんと徹さんのお口にも合って良かったです。料理は好きなので、これからも食事を作らせてください」
「もちろん! たまには一緒に作りましょうね。さあ、文香ちゃんも冷めないうちにハンバーグを食べなさい」
「はいっ」
文香もハンバーグを一口サイズに切り分けて食べる。そのときに「美味しいっ」と笑顔で呟いたのが可愛かったのであった。
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