第6話『幼馴染と先輩と常連客』

 3月25日、水曜日。

 目を覚ますと、部屋の中がうっすらと明るくなっている。

 枕の近くに置いてあるスマホで時刻を確認すると……今は午前7時前か。昨日はなかなか眠れなかったけど、ベッドに入るのが早かったこともあり、結構スッキリと起きられた。7時にセットしていた目覚ましを解除した。

 洗顔と歯磨きをするために洗面所に向かうと、そこには歯を磨こうとしている文香が。起きてすぐに文香を見られるなんて。幸せだなぁ。寝間着姿も可愛いし。

 鏡越しで目が合うと、文香は目を見開き、こちらに振り返る。


「おはよう、大輝」

「おはよう、文香。昨日はよく眠れたか?」


 以前はよく家に泊まっていたけど、ここの住人として過ごす夜は昨日が初めて。俺はなかなか眠れなかったし、文香の就寝事情が気になったのだ。

 文香はゆっくりと頷く。


「よく眠れた。寝具は今までと同じだから。ベッドに入って10分もしないうちに寝たよ。それに、小学生の頃を中心に、和奏ちゃんの部屋でたくさんお泊まりしたから」

「そうか。よく眠れたなら良かったよ」


 寝具が今までと同じなのは大きいか。ぐっすりと眠れたようで安心した。

 文香は壁側に動く。


「どうぞ。顔を洗ったり、歯を磨いたりしたいんでしょう?」

「ああ。……ありがとう」


 俺は文香の隣に立ち、顔を洗い始める。そんな中で、横から歯を磨く音が聞こえてくる。

 毎朝やっていることなのに、やけに緊張してしまう。だからか、普段よりも念入りに顔を洗ってしまった。

 顔を洗い終わり、今度は歯を磨くことに。

 こうして寝間着姿で一緒に歯を磨いていると、小学生のときに文香がうちに泊まりに来たときのことを思い出す。たまに、和奏姉さんと3人で並んで歯を磨いたこともあったな。


「ねえ、大輝。今日ってバイトはあるの?」

「あるよ。朝の9時から夕方まで。まかないがあるから、昼ご飯はバイト先で食べるよ」

「……そうなんだ」


 鏡越しで俺を見る文香はちょっと寂しそうに見えた。


「ごめんな。ダンボールの片付けとか、引っ越し関連の作業がまだ残っているのに」

「ううん、気にしないで。一昨日の夕方まで引っ越しのことを言えなかったし。それに、大輝が手伝ってくれたおかげで、昨日のうちに荷解きはほとんど終わったから。疲れも全然残っていないし。あと……今日のバイト、頑張って」


 俺と直接目を合わせて、微笑みながらそう言ってくれる文香。それだけで、今日のバイトを頑張れそうだ。


「ありがとう、文香。文香も残りの作業を頑張れ」

「……うん。ありがと」


 歯を磨き終わった文香は、桃色のコップに入っている水で口をゆすいだ。もちろん、そのコップは文香が自分の家から持ってきたものだ。

 コップも歯ブラシも、今着ている寝間着も桃色だし、桃色が相当好きなんだな。浴室にあったボディータオルも桃色だったっけ。昔から暖色系の色が好きだよなぁ、文香は。それだけでなく、青や水色も好きだった気がする。


「……あっ、そうだ。俺のバイトの予定は、リビングにあるカレンダーに書いてあるから。家族で予定を把握しやすくするために、カレンダーに書くようにしているんだ。俺以外にも父さんが呑み会で帰りが遅くなるとか、母さんのパートの予定とか。文香も何か決まっている予定があるなら、カレンダーに書くようにしてくれると嬉しい。手芸部みたいに、定期的に入る予定だったら、俺も分かってるし書かなくてもいいけど」

「分かった。もし、急な予定が入ったときはどうすればいい?」

「そういうときは、うちの誰かに電話したり、LIMEで一言メッセージを送ったりしてくれればいいよ」

「了解」


 うちでの習慣を伝えると、文香がここに住み始めたのだと実感する。


「それにしても、こうして寝間着姿で一緒に洗面所に立っていると……ど、同棲しているみたいだよね」

「ぶっ!」


 まさか、文香から同棲という言葉が出てくるとは思わなかったので、驚いて咳き込んでしまった。


「だ、大丈夫?」


 と言って、文香は心配そうな様子で俺の背中を擦ってくれる。背中から伝わる文香の温もりが心地いい。


「ご、ごめんね。変なことを言っちゃって」

「……いや、気にするな。ただ、その……まさか同棲みたいだって言われるとは思わなかったからさ。俺達が小学生くらいまでの間はたくさんお泊まりをしたから、こうしているのが懐かしいって言うのかと」

「な、なるほど。ここ何年かはお泊まりしてなかったものね。昨日からここに住み始めたし、私達は兄妹でも親戚でもないし、もう高校生だから……同棲っぽいなって思ったの。た、他意はないから」


 と、頬を赤くして言う文香。普段はクールで落ち着いているからこそ、今の文香はとても可愛らしく思える。

 同棲なんて言うから、俺のことを恋愛的な意味で意識しているのかなと思ってしまった。他意はないですか、そうですか。ちなみに、俺の方は文香の同棲発言で、より意識するようになったけど。


「一緒に住み始めたから、これからはこれが普通になるかもしれないんだ……」


 そっか……と文香は呟き、口角を少し上げる。

 文香と一緒に住み始めることで、これから文香絡みの「普通」がたくさんできるかもしれないのか。それがとても嬉しく思えるのであった。




「大輝君! 今日は一緒だね!」

「はい。よろしくお願いします」


 午前9時。

 俺はマスバーガー四鷹駅南口店に行き、バイトの準備をする。今日は合田百花あいだももかさんと一緒にバイトをする。

 百花さんは近所にある日本美術大学造形学部油絵学科に通う1年生。彼女は俺の少し前に四鷹駅南口店でバイトを始めたが、高校時代に地元のマスバーガーで3年間ホールのバイトを経験済み。なので、俺は百花さんから仕事を教わった。優しく教えてくれたので、初めてのバイトによる不安もすぐに取れたな。

 マスバーガーでのバイト歴は俺よりも3年長いし、俺に仕事を教えてくれたので、出会った直後は「先輩」と呼んでいた。しかし、「ここでのバイトはほぼ同じだから」と先輩呼びを嫌がられたので「百花さん」と呼ぶようになった。

 また、百花さんはかなりの美人さんなので、特に男性のお客さんから人気が高い。フロアの掃除をしていると、何度も「あの店員さん美人だよな」といった話を小耳に挟む。あと、「サイドアップの黒髪が揺れるのが最高に可愛い」とマニアックな感想を言うお客さんもいたな。


「午前中にシフトを入れたってことは、大輝君の通う高校は春休みに入ったんだね」

「はい。来月の5日までなので短いですが。大学の春休みって結構長いんですよね。姉が2月の初め頃に『休みになった~』とメッセージを送ってきたので」

「入試もあるから、大抵の大学は2月の頭から春休みに入るね。うちもそうだった。春休みは家で絵を描いたり、百合研のみんなと旅行に行ったり、ここでバイトしたりと、好きなことをたくさんしたからあっという間だったな」

「いいですねぇ」


 俺も大学生になって、長期休暇に入ったら、好きなことをたくさんして過ごしたいものだ。できれば、文香と一緒に。

 ちなみに、百合研というのは百合作品研究会のこと。女の子同士の恋愛を扱った作品について語り合ったり、文化祭で冊子を作ったりするサークルらしい。

 百花さんは大の百合好きで、これまでに何度か百花さんオススメの作品を貸してもらった。彼女のおかげで好きになった百合作品もある。


「じゃあ、一緒に頑張ろうね!」

「ええ、頑張りましょう」


 百花さんと俺はカウンターに到着し、バイトを始める。今日は普段よりも長い時間のバイトだけど、家には文香がいるんだ。頑張ろう。

 マスバーガーはファーストフード店だけれど、コーヒーや紅茶、洋菓子などのラインナップも豊富であり、喫茶店としても人気のあるお店だ。

 春休みになった学校も多いからか、午前中から若い方中心に多く来店してくる。1人でゆっくりとするお客さんもいれば、グループで来店し楽しく喋るお客さん達も多い。

 バイトを始めてから1年近く経ったので仕事にも慣れ、絶えず接客しているから時間の進みが早い。あっという間に正午近くになる。そんな中、


「チーズバーガーセットをお願いしまーす。飲み物はアイスコーヒーで。シロップとミルクはいりません」


 金髪のショートボブが特徴的で、可愛らしい雰囲気の女の子が、明るい笑みを浮かべながらそんな注文をしてきた。幼さも感じられるので、中学生くらいだろうか。彼女は常連客で、俺も両手では数え切れないくらいに接客した。


「かしこまりました。500円になります」

「500円ですね。……はい」

「ちょうどお預かりします。少々お待ちください」


 金髪の女の子が注文したメニューを用意し始める。

 今でこそ明るい雰囲気の女の子だけど、初めて接客したとき、彼女は寂しげな笑みを浮かべながら、


『……アイスコーヒーSサイズを1つ。シロップもミルクもいらないです。ブラックでいいです』


 と注文したので、今でもよく覚えている。あと、彼女は友人らしき女の子達と一緒に来ることも多いけど、今日は1人か。


「お待たせしました。チーズバーガーセットになります」

「ありがとうございまーす。あと、今日もバイト頑張ってくださいね、お兄さん!」

「ありがとうございます」


 妹がいないので、お兄さんと言ってくれるのは嬉しい。文香は俺よりも誕生日が遅いけど、同学年なので「お兄ちゃん」って呼んでくれたことは一度もない。

 金髪の女の子はニッコリと笑うと、カウンター席に向かっていった。

 ショートボブの髪型と可愛らしい雰囲気は昔の文香に重なる。常連客であり、今年になってからは今のように頑張ってと言ってくれることも多い。だから、接客しているとき以外もつい見ちゃうんだよな。

 カウンター席に座った金髪の子はチラッとこちらを見て、再びニッコリ。


「すみません。注文してもいいですか?」

「し、失礼いたしました。ご注文をどうぞ」


 彼女ばかり見て、目の前にいるお客様を見落としてはダメだな。

 それからも、ランチタイムでのピークが落ち着くまで、接客業務を続けるのであった。

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