第二十話。はじまりの汽笛。

 凄まじい速度でスチームオクタは解体されていくが、しかしまだまだまだ山は崩れない。

 昼間は作業音が轟くイルファーレでも、夜はさすがに工事は止まった。

 全身を包帯に巻かれたアベル=バルトネクが、ぼろぼろの鞄に荷物を詰める。

 宵闇にまぎれて慎重に、音を立てないように細心の注意を払いながら。

 ザクロの鞄にも色んなものを詰めて、とにかく出来るだけのものを持った。

 鞄の口をきゅっと縛り上げて背負う。ずっしりとした予想外の重さに、たたらを踏んだ。

 アベルが部屋から顔だけ突き出し、誰もいないことを確認した。コワルスキーとアベルの住処。今夜はランプのひとつも点いていない。

 ザクロを先に行かせる。おっかなびっくり、ひょこひょこと変な歩き方になりつつも、なんとか部屋を横断させた。そのまま扉を開けて外に出ろと指示を出す。

 ザクロは闇の中で頷いて、玄関の扉を極めてゆっくり、病人の手に触れるかのようにそうっと開いた。


 アベルはもう一度部屋を見渡す。

 写真が乱暴に留められた壁。どれもこれも空の写真や、火の国の外にあると言われている名所の景色ばかり。

 ごみ捨て場で拾った小さい蒸気船の模型や飛行艇のオートマタ。机の上で丸まっている、蒸気機関車の古ぼけた設計図。上から吊り下げられているのは蒸気複葉機のおもちゃだ。

 育ての親であるジンやサラの話を聞くのが大好きだった。遠くから旅をしてきたという二人の話は、いつも刺激的だった。

 蒸気と毒ガスが充満するこの国では、決して味わえないような体験。


 空飛ぶ国や巨人の国。電気技術が圧力技術を凌駕する国や、地面が宝石で出来ている国だってあるらしい。

 アベルはその全てに憧れた。

 イルファーレが良い国であることは理解している。だが人間の好奇心というのは、安心や安全では決して満たされない。

 いつか外に出たい。

 いつか世界を見たい。

 ジンとサラが語ってくれた景色を、この目で見てみたい。

 そして今夜、遂に火の国イルファーレを出る。

 アベルは胸の中に、何かが満ち足りていくのを感じた。


 地下格闘技の試合前の感覚に少し似ているが、同じではない。どちらかというと試合の後、コワルスキーに気球船を飛ばしてもらう直前の気持ちに近い。

 アベルは部屋の扉を閉めて、廊下を突っ切った。玄関から、音を立てないようにそうっと忍び出た。


 ……二人が出たのを確認して、フィリップ=コワルスキーはマッチを擦った。暗闇の中で炎が瞬く。

 たばこの先端に火を付けて、マッチを振り消した。紫煙を吸い込む。肺腑の形を感じた。

 天井に向かって煙を吐き出しながら、椅子に深く沈んでいく。


「行ったか……」


 アベルを拾って七年。今やジンとサラよりも長く、アベルと共に人生を共にしたことになる。

 果たしてアベルにとって自分は必要だったのだろうかと、ふと思った。ジンとサラのような、立派なことをしてやれたのだろうかと。

 コワルスキーは、アベルの人生に、果たして食い込んでいたのだろうか。ジンやサラほどではなくとも、アベルの人生に、影響できたのだろうか……

 あのバルトネク夫妻の気高き誇りをしっかりと受け継いだアベルにとって、この老いぼれは、どれほどの存在だったのだろう。

 ただ、コワルスキーは一日も欠かさずアベルに飯を食わせ、アベルと話をできたことが、とても誇らしかった。


 アベルにとって自分がどれほどの存在かはわからない。だが自分にとってアベルは、半身、いやそれよりも大きい存在であることは間違いない。

 ふふふ、と満足気に笑ってみた。

 アベルがスラムを出て行くことは覚悟していた。四万ドルを渡すためにオーランドたちを連れてきたとき、ああ、こいつらは空族だ、ああ、きっとこいつらと一緒に空へと旅出つのだろう……そのような予感があった。

 あのとき、自分はどんな顔をしていただろう。

 無表情でいれたか、それとも顔をしかめてしまったか。

 自分の感情を、きっと顔に出してしまっていたに違いない。アベルを連れて行く気かと、警戒したかもしれない。

 覚悟はしていても、素直に飲み込むことができないのだ。


 老いた心は鋼ではない。こうして今、悲しみに押しつぶされようとしている。

 ぽっかりと胸に空いた大穴を、たばこを吸って埋めるのだ。滞在していたビグルも、西へと帰ってしまった。

 コワルスキーが酒瓶に手を伸ばした頃に、扉が勢いよく開かれる音がした。

 すかさず出て行ったはずのアベルが飛び込んでくる。

 アベルはそのままコワルスキーに飛びついて、わんわんと泣き喚き始めた。


「じいちゃん、じいちゃん、俺、行ってくるよ……寂しくなるから、泣くかもしれないから、そっと出て行こうと、思ったんだよ、思ったんだけど……思ったんだけど……」


 嗚咽を混じらせるアベルの頭を、コワルスキーが優しく撫でる。

 乾いた、皮膚の分厚い暖かい手。


「オーランドの船に乗せてもらうんだ……あいつら空族で、大煙突に行くって……」

「そうか、じいちゃんは、行ったことないな、大煙突。随分遠い……」


 コワルスキーの声が震え始める。


「じいちゃん、すぐ、俺、すぐに、戻ってくるから……」

「……アベル」


 コワルスキーは、まるで年相応の子どものように涙を流すアベルの頭を引き寄せて、胸に抱いた。きつく、きつく抱いた。


「アベル、駄目じゃ。すぐに戻って来てはならん。良いか、アベル、旅というのは前進じゃ。後ろを振り向いてはならん、後ろに引かれてもならん。見返して良いのは、手元にある思い出だけじゃ。ジンとサラは、何年も、もしかすると十年以上も、ひょっとするとお前が今まで生きてきた年月よりも長く旅をして、遂に故郷には戻らんかった」


 フィリップ=コワルスキーの腕に力が籠められた。


「帰りたい、そう思ったときに帰るのはいかん。きっとお前は弱くなる。良いかアベル、お前は世界を見てくるんだろう。十数万キロメートル離れた大煙突に触れるのだろう。ずっと、ずっと本でしか見ることができなかった国や、ずっと写真でしか見られなかった景色の中に行くのだろう。良いか、アベル……帰って来るときは、お前は今よりずっと大きくなって、この老人よりも大きくなって、ずっとずっと強くなって、堂々とイルファーレの赤い大地を踏むのじゃ。それを……っ! それを我ら一等騎士は、凱旋と言う……! アベル=バルトネクの大凱旋じゃ……!」


 コワルスキーが嗚咽を漏らす。アベルを抱きしめる手に力が籠った。

 抱き返すアベルの首筋を撫でる。この感触を一生忘れることの無いように、大切そうに、そして愛おしそうに。


「飯を食えよ、アベル」

「うん」

「無理するなよ、アベル」

「うん」

「喧嘩するなよ、アベル」

「うん」

「ザクロちゃんと、みんなと仲良くな、アベル」

「うん……」


 アベル=バルトネクの頭を持って、コワルスキーは額にキスをした。

 たくさんの言葉に代わる、たくさんの愛に代わる、たくさんの想いに代わる、たくさんの感謝と、そしてたくさんの激励を込めたキスをした。


「聖なる子の果てしなき旅路に、どうかあらん限りの祝福あれ……行ってこい、アベル=バルトネク!」

「いってきます、いってきます……!」


*


 アベルはザクロの手を取って、スラムを走った。

 アベルの目が腫れていることに気がついたが、ザクロは黙っておくことにした。

 自分にも、こういう瞬間があったのだろうか。記憶は失くしてしまっているが、今やどこかもわからない故郷を離れるとき、親や兄弟が、こうしてくれたのだろうか……

 ふたりは夜のスラムを駆け抜けた。

 やがて二人は気球船の発着場につく。

 ほとんどフィリップ=コワルスキー専用の発着場となっている東スラムの広場の上空で、飛行艇アマノトリフネが錨を錨止めに刺して浮遊している。縄梯子が投げられた。


「ほら、早く」

「え!? こういうのってアベルさんが先なんじゃ!?」


 ザクロが顔を真っ赤にしてローブのお尻辺りをおさえた。


「落ちないように支えてやるよ」

「お、落ちませんから!」


 早く早く、とザクロがアベルの背中を押す。

 荷物を担ぎ直して、アベルは縄梯子に足を掛けた。

 ぎしりと軋む梯子を登っていく。アマノトリフネに近づくと、ぬっとオーランドが腕を伸ばした。

 アベルもザクロも、猫のように首筋を掴まれて、ひょいひょいと甲板に引きずり上げられた。


「おっ?」

「あわわわっ」

「よう、こんばんは、お二人さん」


 びゅう、と風が吹いた。

 彼方の大煙突は闇にまぎれてよく見えない。その代わりに満天の星空が広がっている。

 アベルも深夜の飛行は初めてだ。


「ようこそ、空の世界へ」


 オーランド=ギャッツビーは、興奮で顔を赤くする少年少女の頭をガシリと撫でた。


「飛行艇アマノトリフネ、抜錨!」


 がらがらがらと、鎖が巻き取られる音が聞こえる。甲板がわずかに震えていた。

 高度が上がり始める。

 ザクロは船の縁まで走っていった。

 きれいな世界。美しい夜。たくさんの輝きがザクロの目に映り込む。隣に来たアベルの手を、自然と握っていた。

 暖かいザクロの手を、アベルは優しく握り返す。


「アベルさん……あ、アベル……」

「ん?」

「アベル……たくさん助けてくれて、ありがとう」

「ザクロも、最後に受け止めてくれてありがとう」


 きゅ、とザクロの手に力が籠った。

 もう言葉は必要無い。きらきらと輝く互いの瞳が多くを語っていた。

 アベルは星空を見つめる。

 飛行艇アマノトリフネのボイラーの火力が上がっている。

 アベルが胸を張ってイルファーレの空気を吸い込む。

 振り返りはしない。

 オーランドが声を張り上げた。


「野郎共、出航だ!」


 今、大いなる旅の始まりの汽笛が、火の国イルファーレの夜空に鳴り響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒸気の巨像と救いの聖火 きゃのんたむ @canontom

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ