第十九話。英雄。

 重篤な貧血。

 それが、騒ぎの後にアベルを看た医者の下した診断だった。他にも、打ち身や打撲では済まず、肋骨の損傷、膝の亀裂、体中至るところの裂傷等々……縫合が必要な傷から骨折まで枚挙にいとまが無いが、とにかく一等重いのが、あろうことかただの貧血だった。

 こんなに重い症状の貧血は見たことがないと、医者が溜め息まで漏らしてみせる。人間の体が、ここまでの症状を許すとは思えないと。

 こうなる前に気絶して動けなくなるか、あるいは死ぬか……とにかくここまで血が減るなど、無理矢理に外部に引き抜かれる以外には起き得ないということらしい。

 こんなに血が薄くなってしまって、呼吸もまともにできなかったろうと眉をひそめた。


「左腕のせいだ……解体しなきゃ……解体して調べなきゃ……まずい、これはまずいっ……ひ、非常に!」


 飛行艇アマノトリフネの船医、動悸が激しいマルカ=アウロフは垂涎の思いでアベルの診断書を読んでいた。


「一番まずいのはお前の頭だ」


 オーランドが診断書を取り上げる。そのままコワルスキーに返した。

 数日が経って街の病院に集まった面々は、先ほどやっと目を覚ましたアベルを囲んで談笑している。


「その左腕、どこで見つけたんだ?」


 オーランドがアベルの左腕を指差して尋ねた。

 左腕はあの後、ガントレットの型が解除され、そして歯車が剥き出しの機械義手となっていた。動きは、はっきり言って以前までの義手よりも遥かにいい。

 ずっと繊細な動きができるのだ。


「御神体の下で切り裂きジャックと戦っていたら、みんながお供えものしてる四角い岩に穴が空いて、その中にあったんだよ」


 握って、開いて、握って、開く。

 蒸気を差すところも油を差すところもない。メンテナンスはこれっぽっちもしていないが、今のところ止まる様子は無かった。

 アベルの体の成長によるひずみが一番の心配だが、それに関しては経過観察以外にできることはない。


「御神体、ね」


 オーランドは病室の外を見た。

 膝を立てた格好で動かなくなった御神体と、そしてその前で屈服する蒸気蜘蛛の亡骸。

 驚いたことに、あのスチームオクタは、ミドルカッスルの本土ではなかった。

 あれはただの超弩級戦艦。

 ミドルカッスルという動く大地から放たれた蜘蛛の一匹に過ぎないらしい。

 乗っていた兵士たちも半数近くはその場凌ぎの傭兵もどきで、とてもではないがミドルカッスルと戦い勝利をもぎ取ったとは言えないほどに。

 これから国王を含む政治家たちは、しばらく頭を抱えることになるだろう。

 山が収まる山……移動要塞国家ミドルカッスルは、思っていた以上に手強そうだ。

 今回の件の指導者の姿は見えず、死んだか逃げたかもわからないらしい。

 イルファーレはスチームオクタの政治的利用価値を考慮しつつ、今後の対応を考えなければならない。


 アベルは切り裂きジャックのことをコワルスキーから聞いた。

 ジンとサラを殺した時点ではまだ切り裂きジャックという名ではなかったようだ。言葉を濁されたが、このイルファーレがかつて抱えていた闇、その深奥に関係する事件だったらしい。

 それ以上は聞かなかった。切り裂きジャックはもう死んだ。どれだけ謎を追求しても、ジンとサラが帰って来るわけではないのだ。


「切り裂きジャックが、この腕を見て『アズマエビス』って言ったんだ。あと、お父さんとお母さんのことも、アズマエビスの人間だって」

「わしも詳しくは知らんのだ。お前の親も頑なに喋りたがらなかった。ただ世界の至るところに、アズマエビス機関と呼ばれる遺失兵器オーパーツがある。この国には、いまお前さんの左腕になっとるそいつがあったというわけだ。その辺りは、先代国王が王権を縮小したことと関係があるのかもしれん。わしはその件については詳しくは知らんのう。騎士団は政治から切り離されておったのだ」

「アズマエビス機関か……」


 アベルは自分の左腕を見た。

 赤錆色の歯車機関。アベルの戦意に呼応して、大釘を射出する巨大なガントレットへと変貌する遺失兵器。


「ザクロの力は、なんなんだろうな?」

「私のは……わかりません。記憶がまだ完全に戻っていなくて……このローブの文様も、空族さんたちの船にいたカンクロウさんの背中のものと同じでしたし……あの方も記憶が無いと言ってましたが、きっと親戚なんだと思います」

「親戚は、ないんじゃないかなぁ……」


 一同が唸る。さすがに可愛いザクロと鉄の塊に血縁があるとは思いたくない。


「でも、一刻も早く記憶を取り戻さないと……もしかするとまた水の国のように……」


 オーランドは水の国の惨状を思い出した。

 飛行艇で降り立った、かつて湖だった焦土。

 木も鉄も全て炭へと姿を変えて、充満する焦げ臭さに呆然とした。

 人影ひとつも、ありはしない……

 ザクロが苦しそうに胸の前で手を組むと同時に、病室のドアが叩かれた。

 看護婦は病室の中からコワルスキーを呼び出す。


「なんじゃ」

「フィッツジェラルド内務大臣から、お手紙が」

「フィッツジェラルドから?」


 一等騎士の時分から交流があった大臣から、急ぎの手紙が届いているという。

 病院にいるということまで探し当てて送りつけるということは、よっぽどのことなのだろう。

 コワルスキーは病室を出て一人で手紙を読んだ。

 手紙の内容は、冒頭にはアベル=バルトネクとその一味に礼を言いたいという旨が記されている。

 本題は恐らくその後……大量の『難民』がイルファーレに流れ込んで来たという報告だ。


『門を叩いた難民の数は、最早小国の民がまるごと、と言っていほどだった……どころでなく、まさしく一国の全てだったのだ。いま、必死に受け入れるための態勢を整えている。

 驚け、コワルスキー。

 なんと難民は、水の国アクアドグマの民だった。先日の大蒸発では赤ん坊から老人まで、一切の犠牲者無く逃げ延びたらしい。

 あの壮絶な熱量が見てとれる焦土からどうやって逃げたのかと尋ねると、ミドルカッスルの軍服を着た男が、どういうわけか深夜遅くにアクアドグマに這入り込み、事前に情報を伝えたらしい。

 救いの聖火ゼタジュールの発動試験が、この湖で行われる旨を。

 自分の立場ではこの実験を止めることができないから、どうか逃げてほしいと。

 アクアドグマの民は、毎日少しずつの人間を森へと紛らせ、ひっそりと国から離れたという。男が教えてくれた、救いの聖火の有効射程範囲外へ。

 礼をしたい、何かできることは無いかというアクアドグマ国民に、赤毛の男はこう言ったそうだ。』


 曰く、イルファーレのフィリップ=コワルスキーが生きていたら伝えて欲しい。今は理由があってまだ会えないが、この私、シャルル=バルトネクは生きていると。


「なんと……」


 コワルスキーの手は震えていた。

 シャルル=バルトネクが生きていた上に、一国を救う……それこそ英雄まがいのことをやっていたなんて。

 ミドルカッスルの軍服を着ていたのには理由があるのだろう。そんなことは些細な問題だ。

 とにかく生きている。アベル=バルトネクの兄は、健在だ!


「フフ、いかんな」


 熱くなった目頭を押さえた。

 こんなに簡単に涙を落としそうになってしまうとは……歳のせいだ。そういうことにしよう。

 早速アベルに伝えよう、そう思って振り返った足を止めた。

 シャルルはどうして、アベルではなくコワルスキーに伝えろと言ったのだろう。

 わかっている。シャルルはアベルの兄だ。アベルのことについては、きっとコワルスキーよりも深く理解している。

 シャルルがミドルカッスルにいると分かれば、アベルはきっとシャルルを追って無茶をする。それを避けるためかもしれない。

 大丈夫。きっと、ふたりはまた会える。あの思慮深いシャルルのことだ、何か考えがあるはずだ。

 手紙の末尾にはこう続いていた。

『難民の対応についての公式発表もすぐに行う。復興支援でこれから忙しくなる。乗り越えた暁には、我がイルファーレも潤沢な水資源を享受できるようになるだろう。

 すぐにすべてがよくなる。可哀想な少女を責めている者は一人もいないと、どうか伝えて欲しい。

 そして最後に私、ロンドーラ=フィッツジェラルドから……御神体が動く様をこの目で見る日が来るとは思わなかった。ザクロ=ゼタジュール、きみは、そしてきみたちは、火の国イルファーレを救った英雄だ。本当にありがとう』

 優しく頷いたコワルスキーは、手紙をポケットに仕舞い込んだ。

 手紙を届けてくれた看護婦に深く礼を言って、ドアノブを回して病室に入った。


「なんだよ、じいちゃん、目を真っ赤にして」


 からかったアベルに悪態をつくこともなく、コワルスキーはアベルに、そしてザクロに優しく笑いかけた。


「喜べ、ザクロ。たった今、大臣から手紙が届いた。あー、大臣というのは、あー……エラい人じゃ。この国の。曰く、アクアドグマの民は、ひとりも死んでおらんらしい。事前に逃げて、今はイルファーレが難民として受け入れる態勢を作っているようじゃ。イルファーレ自身がこの有様である以上、時間はかかるだろうがの」

「うそ……」

「アクアドグマの民、全て、嬢ちゃんの事情を理解しておるらしい。手紙にはこう書いておる……『可哀想な少女を責めている者は一人もいないと、どうか伝えて欲しい……』」


 ザクロが信じられないという顔でコワルスキーを見た。

 空族たちは万歳で歓声を上げて、ビグルは笑って大きく手を叩いた。

 アベルは泣き出しそうなザクロ=ゼタジュールの頭を右腕で抱えて、優しく笑って額を合わせた。


*


 瓦礫の山に女が立っていた。

 短い金髪の、スーツを着た女。両手は包帯で固められ、足には鉄の補助具が装備されている。

 満身創痍のエリュシカ=ルタロ。

 頭上に聳える崖を見上げて、溜め息をついた。


「随分遠回りしましたよ」


 足元の鉄くずに話しかけているようだ。

 イルファーレの奈落の底。御神体の後ろにあった大国の臍のどん底で、エリュシカ=ルタロは目当てのものを見つけたらしい。

 蒸気機関式切り裂きジャック。

 生命維持蒸気箱が無事だった。脳活動だけを最低限維持させるための、狂気の機関。

 虚ろな目でエリュシカを眺める、胸から上だけの切り裂きジャックは、皮肉っぽく笑ってみせた。


「なんてこった、俺はまだ生きていたか……いや、違うな……まだ死んでいなかったのか、俺は。コックローチになった気分だ」

「ええ、そのようです。さあ、帰りましょうか。まだ動くなら、働いてもらわねば。既に上には報告しているので、帰った途端に射殺されそうですけれど。とにかく今は、撤退します。完全に敗走です。壮絶な力でしたね……アズマエビス機関『山穿(やまうが)ち』……機関名タケミカヅチ。まさに稲妻でした。まさかスチームオクタを上から下まで貫くとは」


 エリュシカ=ルタロは切り裂きジャックを背負って、鉄くずの道を進んだ。

 頑丈な鉄板を中敷きに入れた革靴で、危険なごみの山を踏み分け、イルファーレの外へと向かう。


「ジャック。死ぬ前にちゃんと掛け算教えてくださいよ」

「ああ、そうだったなァ……」

「死刑のときの最期の言葉は、九の段にする」

「お前、変だよなァ……」


*


 狭い部屋の中で、手紙を開いた男がいた。


「早く無線機とやらの量産を始めてほしいものだ……」


 男は部屋に鍵を掛けて、秘書以外に誰もいないことを確認する。蝋引きされた封を開けると、羊皮紙が一枚。みみずがのたくったような字で『報告』と書かれている。

 男はその内容を読んで、ほくそ笑んだ。


「汚い字だなぁ……まあしかし、エリュシカ=ルタロと、切り裂きジャック……やっぱり、あの二人を選んで正解だった。はは、華麗に失敗してくれたようだ」


 男は目を上げる。

 スーツを着た銀髪の女が、部屋の隅でコーヒーを淹れていた。髪を丸めて耳の後ろ辺りで留めている。白いうなじが見えた。

 サーブする女に男が礼を言って、手紙を見せる。


「失敗だ」

「つまり計画通り、ということですか、カルロス将軍」

「それ以上だ。ほら、見ろ。イルファーレの元一等騎士フィリップ=コワルスキーの庇護下にあった赤毛の少年が、アズマエビス機関『山穿ち』を取得、および複数人の私兵とそして逃亡した『聖火』と共に戦艦を撃墜。非常にドラマチックだ。まるで小説みたい。導入はやっぱりボーイ・ミーツ・ガールかな?」

「まさか、赤毛の少年とは……」

「そのまさか、だろうな」


 男はコーヒーを啜った。

 軍帽を脱いで机に置いた。耳の後ろを掻いた。帽子の中で縮こまっていた赤毛がほどける。


「この手紙を改ざんしてミドルカッスル本部に上げてくれ」

「どのように」

「そうだな……しかしまあエリュシカ=ルタロは少しばかり性格が後ろ向きだよな。あいつちょっと根暗か」

「かなり根暗です」

「かなりか。そうか。気の毒に。改ざんは……『ゼタジュール』の試験運用後の帰還中、『山穿ち』を所持していた男が戦艦を襲撃、圧倒的な破壊力の前に屈し轟沈、その後死闘の末に聖火を奪われた……そんな感じで頼む。今後の追跡任務に立候補させてほしい、そう添えて。ちょっと……じゃなくてかなり根暗っぽいニュアンスでな」

「カルロス将軍の推薦文も考えましょうか」

「頼りになるよ、カッツェ=アイヒヘルン」


 男は微笑みながら二本指を立てた。


「アベルの足取りは、しばらくあの二人に追わせることにしよう。それなら安心だ。よろしく頼むぞ、カッツェ。本部はエリュシカのような馬鹿ばかりではないからな。うまく立ち回らないと。あと、俺が逃がしたアクアドグマの人たちが無事かどうか、できるならば調べてほしい。ザクロ=ゼタジュールはあの後ちゃんと着陸して逃げ切ったみたいだが、この文面ではアクアドグマ国民の安否が確認できない」

「やってみます。ですがもうあんな危険な真似はよしてください。小国とは言え異国に忍び込むだけでなく、秘密裏にザクロ=ゼタジュールを連れ出すなど……言われれば、私が行くというのに」

「カッツェがもし見つかったら殺されちゃうだろ」

「そういう問題ではないのです、全く。めちゃくちゃですよ……」


 カッツェはガラスのコーヒー・サーバーから、残りのコーヒーを男のマグに注いだ。


「いつか、弟さんに会えると良いですね、カルロス将軍……いえ、シャルル=バルトネク様」

「ああ、そうだな。いつか……また会える」


 シャルル=バルトネクは、暖かいコーヒーを啜った。

 手紙をなぞる。『元一等騎士フィリップ=コワルスキーの庇護下にあった赤毛の少年』の部分を、優しく撫でた。


「会えるさ。アベルの物語も、ようやく始まったんだから」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る