第十八話。蒸気の巨像と救いの聖火。

 生温い。皮膚に張り付く粘液の、気味の悪い感触。人肌の温度の、赤い肉ひだ。

 気持ち悪い。分泌される液体が体に浸透してくる。揮発した液体が体に這入り込んでくる。

 皮膚から、口から……

 次第に、頭痛が酷くなる。

 熱い。熱だ。赤い炎が上がる。頭の中の暖炉で、業火が湧いた。

 赤い。真っ赤だ。炎は赤い。赤。奇麗な赤色。

 日の光に照らされる真っ赤な崖と御神体。

 もうきっと動かない、蒸気の巨像。

 そして赤い髪の毛の少年……

 なにかを叫んでいる……手を、手を伸ばせ、そうだ。

 手を伸ばせ。

 そうだ。そうだった。手を、伸ばさないと。

 ザクロ=ゼタジュールは、棺の中で目を開いた。

*

 意識の無い人間で築かれた山に、一人の男が立っていた。

 黒髪を後ろに流し、眼帯を隠そうともしない。筋骨隆々の引き締まった体に刻まれた、無数の弾瘡と剣傷。心臓の位置には体を四散させるような十字傷があった。

 そして左肩から伸びる、グロテスクな肉の煙突。


「なんてこと……」


 エリュシカ=ルタロは棺に手を掛けて立っていた。

 右足から流れ続ける血は、床に大きな染みを作っている。

 煙突を外に突き出してからというもの、オーランド=ギャッツビーの動きは見違えた。


「私とは何度かコンタクトしているはず。どうしてその力を使わなかったのです」

「痛いんだよ。背中からブスーっと煙突が出てくる痛みを想像できるか? そいつはそいつは、すげえもんだ。できれば、やりたくないだろ、そんな痛いのは」

「……痛いのですか、それ。体の一部に見えますが」


 拳の大きさの腫瘍がどくどくと胎動している。腸詰めのような赤いひも状の物体も、もれなくだ。

 見ていて気持ちの良いものではない。まるで背中から内臓が飛び出したようだ。


「今となっては体の一部だが元は違う。俺のとこの優秀な船医が不気味なスサノヲとかいう神話生物の死体から心臓を引っ張り出して俺に移植した。するとあら不思議、煙突まで生えてきやがった」

「心臓を、移植だと……?」

「ああ。あんたらが夢中になってる、アズマエビス製の心臓だぜ」


 オーランドは自分の心臓を指差した。


「随分痛いが、こいつを生やすと体の全部が冴え渡る。悪いが今なら、あらゆる全てであんたより強い」


 早撃ちさえもな、と。

 エリュシカは腰のホルスターに伸ばしかけていた手を止めた。

 空気が張りつめる。

 エリュシカはオーランドの隻眼をじっと見つめた。

 オーランドは撃鉄を下げたリボルバーを片手で構えている。

 エリュシカ=ルタロの右手が動いた。すかさず撃ち抜かれた。だが止まらない。呻きながら左手で別の銃を取ろうとするが、その手まで大口径の餌食になった。


「これで弾切れのはずだ!」

「チッ、この女!」


 この部屋の左右にいる兵士を倒すので二発。エリュシカの太ももを貫くので一発。切り裂きジャックのシリンダを破損させるので一発。そして今の二発。

 エリュシカ=ルタロは弾を冷静に数えていた!

 オーランドが駆け出そうとする。エリュシカは血がだくだくと流れる両手で、棺を思い切り押す――ことは、叶わなかった。

 なぜならば棺の扉が勢いよく開かれるたからだ。

 中から、手が伸びた。

 真っ赤になって溶け落ちる、鉄の手袋。

 液状化した鉄は地面に落ち、たちまち固まる。

 肉ひだを手で引き千切る赤熱した腕。

 熱気が押し寄せた。エリュシカ=ルタロは思わず後ずさる。


「させない……」


 破損箇所を修復しようと、肉ひだから肉ひだが芽を出して、棺の穴を埋めようと蠢く。

 その隙間から覗く、爛々と輝く真っ赤な瞳。

「あなたの好きにはさせない」


 灼熱の腕が棺の外に伸ばされた。


「もう誰も死なせない!」


 叫びながら、肉ひだから足を突き出し、一歩を踏みしめる。

 白磁のような足はしかし、気高き聖獣の如く力強かった。


「この国を燃やすなんて!」


 棺の縁を掴む。

 エリュシカ=ルタロは何かを叫ぼうとするが、襲いかかる熱で口を開けることができない。体の中が、焼け爛れそうだ。


「そんなこと!」


 エリュシカ=ルタロもオーランド=ギャッツビーも、等しくこの熱気に近づけない。


「さ、せ、る、か、ああぁぁぁああ!」


 肉ひだが引き千切られる。赤い液体が飛び散る。肉片が地面に叩き付けられた。

 ザクロが棺から飛び出した。

 同時に、棺が業火に焼き払われる。炎を上げる深紅の棺は、扉を激しく開閉しながらどしんと倒れた。しばらくのたうち回って、そして沈黙した。

 転げるザクロの鼻から血が出ている。熱波は徐々に収まった。

 疲れ切った様子ながらも、なんとか立ち上がる。オーランドが駆け寄ろうとする前に、エリュシカが手を上げた。

 ザクロは喀血しながらその手をかいくぐろうとするが、足がもつれてしまう。


「棺はまだある!」


 エリュシカが遂にたまらず怒号を上げた。

 撃ち抜かれた手のことなどまるで忘れたというように、ザクロを追いかけた。

 まだ動く指で、ザクロの腕を乱暴に捕まえた。


「離して!」

「待て、貧乳女!」

「貴様が待ってろ、チンピラァ!」


 エリュシカ=ルタロは怒り狂った瞳でオーランドを怒鳴りつけた。

 疲弊したザクロを引きずり、投下口からザクロを放り出す。支えはエリュシカ=ルタロの血塗れの腕ひとつ。

 血走った目でオーランドを振り返った。来れば落とす、ということだろう。伝声管で棺の準備を命令した。


「ふざけるなよ……邪魔、邪魔、邪魔ばかり! お前もだ、ゼタジュール! お前のせいでこんなことになった! お前が逃げ出したから私はこんなに失敗した! 見ろ、ゼタジュール! 火の国の有様を! 全部全部、お前が逃げ出したせいだ!」


 違う、とオーランドが叫ぶ必要は無かった。

 ザクロは冷静な目でエリュシカを見上げる。まるで哀れな動物を、慈しむような目で……


「……かわいそうな人」


 ザクロ=ゼタジュールはエリュシカ=ルタロに一矢報いた。

 エリュシカの青筋が切れる音が聞こえるようだ。ザクロの腕を捕まえる手に力が籠る。大口径リボルバーに二本の指が吹き飛ばされたというのに、流れる血などまるで目に入っていない。


「イルファーレを焼くか、ここで落ちるか……選べ、ゼタジュール」


 ザクロは力を籠めて体を振った。

 エリュシカに掴まれている腕を支点に大きく前に足を振り上げ、投下口の縁につま先を掛ける。


「落ちます」


 エリュシカの手を自分で振りほどいて、縁を蹴った。

 放物線を描くように、ザクロは遥か彼方に落下する。


「……もう死ね、くそがき」

「ふぅー、終わったか……じゃ、俺も降りるわ」


 もう終いだ、という風にオーランドは歩き出していた。リボルバーに弾を詰めながら、部屋を出る。役目を終えた肉の煙突は、ずるずると体内に戻っていった。


「……いいのですか、あなたが助けようとした少女が落ちたのですよ」

「残念だったな。またお前は失敗した。忘れたかよ、小さなヒーローが、先に降りて待ってることをよ」


 エリュシカ=ルタロの眼下……

 アベル=バルトネクは当然、既に走り出していた。


*


 アベル=バルトネクは当然ながら走り出していた。

 左腕に取り憑いた赤い物体は、ガントレットの形から普通の腕へと戻っている。

 切り裂きジャックと決着をつけた後、這い出て空を見上げた。ますます勢いを強くする雨の中、ザクロが要塞から吐き出されるのが見えた。

 棺には入っていないようだ。

 何のことは無い。

 前にも同じようなことがあったではないか。あのときは、もっと高くから落ちて来たのだ。こっちも地に足が着かない、不安定な状況だった。今回に限って、捕まえられないはずがない。

 何も考えずに、走っていれば良いのだ。

 頭が痛い。体がだるい。めまいがする。息ができない。打ち身が酷い。頭から血が出ている。血液が目に入った。視界が赤い。重い。足が重過ぎる。自分の足ではないようだ。鉛を引っぱっているような気がする。


「間に合え……」


 それでも、走らなければならない。

 間に合うか。間に合わなければ。間に合うように走らなければならない。間に合わせなければ、ならないのだ。


「間に合え……!」


 アベルが左腕を掲げた。腕は再び変形する。逆巻く竜の鱗の如く。フィリップ=コワルスキーのものよりも一回り大きい。アベルの左半身を覆い隠すほどの、巨大なガントレット。

 拳で地面を打ちつける。

 歯車駆動が一瞬でエネルギーを生み出し、アベルの体が持ち上がった。宙に浮いたアベルは、加速しながら半回転した。

 パンチによる反作用の力で、アベルが前方に向かって吹き飛ぶ。

 御神体の肩に立った。もう一度だ。

 もう一度足場を、御神体を殴った。跳躍する。


「間に合えーッ!」


 ザクロ=ゼタジュールは真っすぐとこちらを見ていた。近づいてくる。長い金髪が暴風に舞う。強ばっていたか細い指がほどける。視線が吸い込まれるような深紅の瞳からは……


「助けて、アベル!」


 ……力強い、生きようとする意思を感じた。


「手を伸ばせ、ザクローッ!」


 ザクロがアベルに向かって手を伸ばす。限界まで、指の先まで力一杯張りつめた。歯を食いしばってアベルが右腕を伸ばす。

 ザクロの指先に、かろうじて触れる。指先から互いをたぐり寄せ……遂に捕まえた。

 落下が始まる。何も支えは無い。足場も無い。地面が迫る。真っ逆さまだ。

 背中を丸めて、ザクロを抱きかかえる。策は無い。ただ衝撃に備えるしかない。

 地に落ちた二人は、ごろごろと石畳の上を転がった。

 ガントレットが守ってくれた。アベルは肋骨に刺すような痛みを感じたが、幸い死んではいない。ザクロも手足をいくらか擦り切っただけのようだ。

 石畳の上で止まると、ザクロがアベルを抱きしめた。


「あ、アベ、ル……」

「もう、大丈夫だ……相変わらず豪快なことするよなあ」


 東七番駅で、蒸気機関となった切り裂きジャックに叩きのめされてザクロを奪われたのが、遥か昔のように感じた。

 雨は一向に止まない、どころか酷くなる一方だ。雨のせいでいまいち気が晴れるような爽快さは無いが、とにかくこれにて一件落着……そういうわけには、もちろんいかなかった。

 頭上に望む巨大な蒸気機関。スチームオクタの動きが止まった。動きだけではない。吐き出し続けていた蒸気が弱まった気がした。

 あれでは満足に動けない。加圧と減圧を繰り返すことで動くピストンは、あれでは動きが鈍ってしまう。

 嫌な予感がする。


「まさか……」

「そのまさかだってなあ!」


 空を旋回して二人の背後へ降りて来たのは、オーランド=ギャッツビーとリーフィ=ナシメント。

 リーフィの予備落下傘に二人で掴まって要塞から降ってきた。


「オーランド! 無事だったか!」

「おいおい、こっちの台詞だぜ!」

「でもオーランド、背中が血まみれだ……」

「ああ、気にすんな、怪我じゃないから」


 オーランドはアベルの左腕に気が付いた。

 そして左腕のおおよその正体についても、勘付いている。


「そのまさかってな、あいつら自爆まがいのことしやがるつもりだ。お前がザクロちゃん助けたのがよほど気に食わなかったらしい。あの女、上で頭掻きむしって発狂してやがる。ひぃ、おっかねえったらありゃしねえ。ザクロちゃん、無事で良かったな! あの貧乳女になんかされなかったか?」

「い、いえっ!」

「さっきから、ヒンニューってなんだよ」

「少年はまだ知らなくて良い」


 リーフィが冷たい顔でオーランドを見ながら言った。

 気まずそうに俯くザクロと、頭を傾げるアベル。

 愉快に笑うオーランドを小突いて、リーフィが八本足の蒸気機関を指差した。


「キャプテン、あれはどうするんだ」

「ああ、どうしよう。どうしたもんかね、いつもならスタコラサッサと逃げっちまうところだが、イルファーレにはこんなに勇敢な小さな戦士がいる。ってーことは、いいやつがたくさんいる。ウーム、助けてやりたいがどうしたものか……なぁところでよ、この雨、変だと思わねえか?」


 降り続ける強い雨。

 普通、こんな勢いの雨がここまで長引くことはない。

 オーランドはそのまま北の方角を指差した。

 北には工業区がある。火の国イルファーレが、火の国であり続けることができる所以。


「なあ、イルファーレではどうして工場が北に密集しているかわかるか、リーフィ?」

「さあ?」

「ちょっとは考えろよ……工場は毒ガスやら蒸気やらをめちゃくちゃ吐き出すからさ」

「それがどうして北区に?」

「風下だから」


 答えたのはアベルだ。オーランドは指を鳴らして正解を告げる。


「そんじゃ、次の質問だ、リーフィ。俺たちはどうやってここまで来た? あれだけ少ない燃料で、どうしてここまで来れた? 大変だったよなあ水足りなくて」

「……風に乗って、だ。おいキャプテン、このテストは一体」

「きりきり答えろ、リーフィ=ナシメント。次で最後だ……俺たちは、風に乗ってどこから来た?」


 オーランドは人差し指を立て、ゆっくりと腕を上げる。

 アベル、ザクロ、そしてリーフィの視線がその指先に導かれた。

 指差されるは虚空……ではない、雨雲だ。この豪雨を降らせている、巨大な分厚い真っ黒な雨雲……


「まさか、キャプテン……」

「冗談だろ、この雨雲は……」


 得意げに笑うオーランド。驚愕するリーフィとアベル。

 立ち上がるザクロ=ゼタジュール。

 蒸気機関車で教えてくれた。アベル=バルトネクが教えてくれた。

 熱した蒸気は溶けて消滅するのではない。空まで立ち上った蒸気は、やがて雨になる。


「つまりこの雨は……水の国アクアドグマ……ということですね」


 アベルは息を飲む。水の国の大蒸発……まさか、こんな形で……

 前に立ち塞がる八本足の蒸気機関。腹に抱えるボイラーの圧力を高め、今にも炸裂の準備を始める仰々しい移動要塞。

 そして背後には、御神体。

 雨が降れば水が貯まる、火の国イルファーレの貯水庫。

 タンクに水が満ち満ちた、あとは聖火の点火を待つだけの巨像が、堂々と鎮座していた。


「まあ正直言って確証は無い。なんせ雨なんてのは世界の気まぐれだ。だがそう考えた方がお洒落ってもんだ。そしてこの世はだいたいお洒落なやつが勝つんだよ。話は見えたな、野郎共」


 お膳立ては、ぞくぞくするほど完璧だ。


「あの馬鹿デカい蜘蛛を、上からぶっ潰す。やれるな、ザクロ」

「はい。やります。やってみせます」


 ザクロ=ゼタジュールは、強い眼差しでミドルカッスルを睨みつける。

 両手は、固く握りしめられていた。


「よっしゃあやるぜ、野郎ども。蒸気の巨像と救いの聖火で、ド派手なフィナーレといこうじゃねえか!」


*


 御神体の巨大なボイラーの中でザクロは立っている。

 目を閉じて、集中する。全ての感覚を研ぎすました。

 記憶はまだ完全には戻っていない。ただアクアドグマを焦土に変えてしまった、あの苦しい光景は、鮮明に覚えている。

 もう二度と、あのようなことが起きてはならない。

 記憶が無いなど、それは言い訳にはならない。ミドルカッスルに使われ、能力を発動し、そして一国の全てを焼き払ってしまった。

 それは、紛れも無い事実。

 逃げてはいけない重い責任。

 小さな背中ではとても背負いきれないような重圧だが、それでも膝を挫いてはいけない。

 恐らくこの御神体を動かすことは、まずひとつ目の償いになるのだろう。アクアドグマが降り注ぎ、御神体のタンクを満たしていく。

 全ての水を蒸発させて、この巨大な御神体を蒸気で満たさなくてはならない。

 急ごう。

 さもなくばイルファーレの真ん中で、八本足の圧力爆弾が炸裂する。

 能力が引きずり出される感覚は覚えている。

 頭痛に襲われ、何もかもが遠くなる。声も出ない。目も開けられない。耳を塞ぎたくなる。あの感覚だ。

 思い出せ、ザクロ=ゼタジュール。

 絶望をべて聖火を上げろ。

 今度は全てを、救うために。

 

 アベルは副操縦席で顔を青くしていた。こめかみを親指で押し、胸をさすっている。

 息も上がり脂汗も滲んで、どう見ても尋常ではない。


「おい、大丈夫かよ」


 オーランドが操縦席から降りてアベルの顔を覗き込んだ。

 アベルは苦笑いして、手を振る。


「苦しいんだ。頭も痛い」

「たぶんその左腕のせいだな。それ、アズマエビスのもんだろ」

「ああ、それ。切り裂きジャックも言ってた……」


 アベルの左腕に取り憑いた、赤錆色の物体。どういう仕組みなのかはわからないが、アベルの戦意に呼応して、ガントレットと通常の腕の型を行ったり来たりできるようだ。

 オーランドが革袋を渡す。中には水が入っていた。アベルが礼を言って飲む。

 いくらかマシだ。少なくとも気分は晴れる。


「ありがとう」

「おう。よく頑張った、アベル。いよいよ大詰めだ。気を抜くなよ!」

「キャプテン、圧力が上がってきた」

「ザクロも、頑張ってる」


 リーフィの声を聞いて、アベルはオーランドを見た。

 オーランドはアベルの頭をくしゃりと撫でて、操縦席に座る。操作系は単純だ。いくつもの蒸気機関を動かしてきたオーランドならば造作も無い。

 圧力計の針が、右に倒れ始める。

 古の巨像に、再び聖火が灯る。心臓が暖まり、蒸気が全身に行き届いた。張り巡らされた鋼鉄が震え始める。赤錆の鎧を振り払いつつ、遂にピストンが動く。

 ボイラー室で、ザクロは片膝をついて胸の前で祈るように手を組んでいる。

 熱された水の底に気泡がついた。沸騰が始まろうとしている。ゆらりと立ちこめる蒸気は既に、ボイラー室に充満していた。

 ザクロの額を汗が伝った。

 一歩間違えば大惨事だ。アベルもオーランドも、そしてリーフィも消えてなくなる。

 水底から駆け上がる泡が多くなる。忙しなく水面が揺れ始める。


 ザクロの皮膚が赤く輝き始めた。

 そして遂に、ボイラー室の水が沸騰した。気泡が水面に殺到する。勢い良く蒸気が吹き出す。回収された蒸気は管を通り、再びボイラー室の再燃管を通過する。

 この再燃管を通るとき、蒸気はザクロの熱で再び加熱され、体積が爆発的に膨張し、そして圧力が各シリンダの中に叩き込まれる。

 蒸気機関の仕組みに則った、原始的な動線だ。

 市民が避難していたイルファーレ城では歓声が上がっていた。

 長年崇め奉ってきた巨大な蒸気機関が、国の危機に動き出したのだ。錆びた歯車が耳をつんざくような大音声を上げるも、避難しているイルファーレの民は両手を上げて応援する。


 あのスチームオクタで何が起きようとしているのか、見るものが見ればわかるのだろう。

 全ての弁が閉まり、微動だにしない様子は、それこそ正に嵐の前の静けさだ。

 最後の一撃を止めるそれだけのために、この御神体を起動する必要があった。ミドルカッスルのボイラーを叩き潰す前に、あの大蜘蛛が危機を感じて逃げ去るか、そうでなくとも足を使わせれば良い。

 動けば蒸気は消費される。蒸気を使わせ続ければ爆発は起こらない。

 御神体の圧力計は震えながら少しずつ右に傾いていた。

 ザクロの体温は既に水の沸点を超えている。

 頭痛で頭が溶け出しそうだった。それでも意識は手放さない。

 役立たずは、もうたくさんだ。

 何度も何度も助けられて、遂に自分は何もできていない。

 それでも笑ってくれるアベルに、これ以上甘えるわけにはいかないのだ。


「せめて最後は……私が、みんなの力に……!」


 圧力計が振り切れた。

 リーフィが大声で報告する。


「キャプテン、メーターが振り切れた!」

「暴走か!?」

「違う!」


 アベルが叫んだ。操縦桿を握る手に力を籠める。


「力をコントロールしてるんだ! 必死に! 行くぞ、オーランド……立ち上がる!」


 御神体のピストンが速度を上げた。全身の煙突から蒸気を吹き出した。

 火の国建国史上最大の汽笛が鳴った。

 地を揺らすほどの音量。蒸気を吹き出す御神体が、錆を撒き散らしながら立ち上がった。雨水を流し込む配水管を尻尾のようにぶら下げて立つさまは、まさしく国の護り神。

 山のような蜘蛛に立ち塞がる、山のような像。人の形を模した石と鉄の塊が、悠久の時を経て復活する。イルファーレ建国前より大地を守って来た御神体は、遂に片足を上げて踏み出した。


 一歩。

 山が崩れ木々が倒れるほどの大地震。そしてもう一歩を踏み出し、遂に直立する。

 天空に届くかと思われるほどの高さまで、腕を振り上げた。

 一本一本が蒸気機関車のような指が小指から順に折り曲げられる。隕石のような握り拳。巨像は八本足の蒸気機関を上から殴り潰そうと、その拳を振り下ろした。

 今度は大蜘蛛が汽笛を上げた。前足の二本を使って、拳を受け止める。数メートルに及ぶサスペンションが沈み込んだ。

 衝撃が嵐となって石畳をめくり上げる。

 巨像は次なる一撃を繰り出そうと試みるが、しかし左腕は全く動かなかった。

 歯車が、そしてピストンが完全に錆び付き砕けている。鼓膜を尖った金属で撫でるような嫌な音が、御神体の内部にこだました。

 さすがに時が経ち過ぎていた。


「くそ!」


 コックピットの中でアベルが副操縦席を叩く。


「ザクロが頑張ってるんだ……それなのに……」


 巨像が動けないと分かったのか、スチームオクタは再び全ての弁を閉じ、圧力を溜め始める。

 こちらの老朽化を看破しているらしい。オーランドもさすがに顔を歪めた。

 必死に方策を考える。アベルも頭を抱えた。

 ザクロ=ゼタジュールが自分の罪悪感と戦っている。

 一国を滅ぼしてしまった罪悪感と、正面を切って対峙している。それなのに自分は、ここで座っているだけで何もできない。

 ――いや、違う。何もしていないだけだ。


「オーランド。ハッチを開けてくれ」

「どうするつもりだ」

「直接、ボイラーに穴を開けてやる」

「あ? んなことできるのか」

「できなきゃそのまま殴り込みだ!」

「言ってくれるぜ」


 オーランドはリーフィに合図する。蒸気分配箱を操作して、コックピットのハッチを開けた。アベルは巨像のうなじ部分から外に出て、突き出た足場を伝って巨像の右肩に降りた。

 風がびゅうびゅう吹いている。雨も降り止まない。

 アベルは足元の伝声管を掴んで叫んだ。


「腕で! 俺を振り上げろ! 飛んで直接叩き付ける!」

「は? 落下傘は!」

「無い! なんとかする!」

「お前……」


 アベルの無茶に、オーランドは思わず苦笑いを浮かべる。言っても、聞かないだろう。

 だがオーランド=ギャッツビーは、そういう無謀さを愛してやまない男だった。


「ったく最高だぜあのガキ……ここで俺が引くわけにはいかねえか。行くぞ、アベル……駆け下りろ!」

「気前よくぶっ飛ばしてくれよ!」


 アベルが指示に従って、肩からほとんど滑り落ちるように駆け出した。

 御神体はスチームオクタと組み合っていた腕を下ろし、アベルの落下を待つ。

 肘の辺りに到達したと同時に、御神体が腕を振り出した。

 スチームオクタは拳槌を警戒して再び前足を構える。ピストンから蒸気が吹き出した。

 巨像が右腕を勢いよく振りぬく。

 半ば投げ出されるように、アベルが雨を切り裂いて弾丸のように飛び上がる。

 歯を食いしばって風圧に耐え、蜘蛛の心臓ボイラーの位置を見据えた。


「届く、いける。あの大蜘蛛の腹に――!」


 ――だが山のように巨大な移動要塞は……たったひとり、たったひとりの子ども……アベル=バルトネクを既にひとつの脅威として警戒していた。

 自爆のために溜め込んだ蒸気を大量に消費してまで、一歩……一歩、退いたのだ。

 ほとんど無策で跳び上がった少年たったひとりを避けるために、後退してみせた。アベル=バルトネクを避けるためだけに、まさか数トンにも及ぶであろう蒸気を消費するとは、誰一人として思わなかった。しかしずっと邪魔をされ続けたエリュシカ=ルタロだけは、この赤毛の悪魔が下す叩きだす未知数の破壊力を理解していたのだ。

 アベルの眼下から、スチームオクタの姿が消える。


「なんてこった、届かない……」

「落ちるぞ……」


 オーランドとリーフィがコックピットの中で絶句する。

 御神体ではアベルを受け止めるような繊細な動きはできない。急いで腕を振り上げても、下から全身を叩き砕いてしまう。

 アベルは落下しながら顔を歪める。畜生、畜生と悪態をついた。

 もう少しだった。火の国を荒らし、ザクロを傷つけたあの憎き大蜘蛛を叩き潰せるはずだった。

 それなのに、叩き潰されるのは、俺の方だと……


「なにを情けない顔をしとるんじゃ、くそ坊主ッ!」


 アベルの落下軌道を突っ切るように、気球船が飛んで来た。

 小型高速駆逐艦ミニデストロイヤーを振り切る速度を誇る、慣れ親しんだ改造カスタム気球船ツェッペリン

 フィリップ=コワルスキーが操る気球船が、アベルの足元を掬い上げた。気嚢の上に落ちたアベルは、何が起きたか理解もできずにごろごろ転がる。

 気嚢からあわや転げ落ちるかというところで、何者かに足首を掴まえられた。

 またしても意味もわからず足元を見ると、そこには勝ち誇った顔の巨漢のビグル。


「まだ諦めんな、アベル!」

「ハァ……お前かよ……」


 アベルは安心したように全身の緊張を解いた。

 ほっとするのもつかの間、すぐに立ち上がる。

 御神体を操縦するオーランドとリーフィも、窓から見える健在のアベルに思わず拳を握った。


「ハッハァ! やりやがる、あのじーさんとデブ! お前ら最高だ!」

「やれ、もう一度だ、少年!」

「っしゃあ、俺たちは俺たちの仕事をするぜ、リーフィ!」


 オーランドは操縦桿を倒す。御神体は一歩踏み出して、右手を大きく開いた。

 アベルとビグルは立って並んで、気球船の気嚢からスチームオクタを見上げた。


「高度が足りねえよ……ここから飛んでもあの蜘蛛の腹に届かない」


 しかしビグルは空を指差す。

 その先に見えるのは、飛行艇アマノトリフネ。どうやら、打ち合わせ通りに一番派手な場所に来たらしい。

 カレンが甲板から顔を出し、大きく手を振った。縄梯子を落とす。

 ビグルはアベルを担いで足を下から握った。


「やってこい、アベル」

「任せとけ!」


 ビグルがアベルを思い切り放り投げた。空中で縄梯子を掴んで、這い上がる。


「アベル少年、やることはわかっているね」

「ああ! 助かった、ありがとう!」


 アベルは縄梯子を登り切ってそのまま甲板を駆け抜ける。反対の舷側から何の躊躇いも無く飛び上がった。

 眼下では、御神体がスチームオクタの前足をガッチリと掴んでいた。これでもう逃げられない。

 今度こそ死神を叩き潰してやる……


「こいつで、終わりだぁ!」


 空中で左腕を引き絞った。

 赤錆色のガントレットが展開される。腕が割れ、プレートがめくれ上がる。段階的に拡がる鱗が、アベルの左半身を覆う。あっという間にガントレットが完成した。

 スチームオクタへの帰還が遅れた小型駆逐艦たちが、アベルに向けて遠慮も無しに発砲を始める。

 飛び交う銃弾の雨あられをガントレットで弾き飛ばしながら狙いを定めた。

 落下に任せて拳を振り下ろす。

 スロットが回った。ガントレットの肘から、釘頭が伸びた。逆巻く鉄糸が無限の高さまで伸びていく。さながら天を衝くかのように。

 駆逐艦と弾幕をかいくぐり、スチームオクタの中心、巨大な瘤の頂上に拳が触れる。

 衝撃がガントレットに伝わる。

 肩の鱗の裏で歯車が高速回転するのがわかった。サスペンションで吸収した力を分散し、たくさんの方向に拡がり増幅された。歯車は歯車を回し、更に大きな力となる。

 駆動音が一瞬で膨れ上がり、そして瞬きするほどの間の静寂……


 天を衝き山穿つ赤錆色の大釘が、稲妻のように射出された。

 大釘は瘤の皮を破り鉄を砕き空洞を駆け抜け、心臓部分のボイラーを紙のように貫いた。破壊音はひとつになって嵐の空に轟いた。

 心臓を破られたスチームオクタから、盛大な蒸気が吹き出した。

 蒸気の柱は天空まで迸った。

 大蜘蛛の八本足が順番に崩れ落ちる。球形関節がひび割れ弾け、巨大な蜘蛛は腹這いで沈んでいく。

 鉄が摩擦する音はまるで気味の悪い断末魔。死に際の雄たけびを上げて大蜘蛛の体が砕け散る。

 後ろ足が地に屈し、スチームオクタは天空を見上げた。

 やがて前足も折れ、移動要塞国家ミドルカッスル……八本足の蒸気機関スチームオクタは息絶えた。

 歓声が上がるイルファーレ城。

 御神体の中、そして飛行艇の上で喜び踊り狂う空族。

 巨漢のビグルとフィリップ=コワルスキーは何度も頷きながら互いの肩を抱き合った。

 ザクロ=ゼタジュールだけは既にボイラーを飛び出していて、崩れるる蒸気機関に向かって全力で走っていた。

 目的は、言わずともわかる。

 倒壊する鉄の塊は、ザクロを避けるようにして地面に叩き付けられる。

 ザクロが走りながら両手を広げた。


「アベルさん! 手を!」


 空から降ってくるアベルを全身で受け止めた。

 当然ながら二人はもつれるように転がって、アベルもザクロも傷だらけになる。

 それでもアベルの下敷きになったザクロは、満面の笑みを浮かべていた。


「もうっ、豪快なことするんだから!」

「ザクロが、言うかぁ……」


 崩壊する移動要塞の足元。

 ザクロ=ゼタジュールは、弾けるような笑顔でアベル=バルトネクを抱きしめた。

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