第十七話。天ヲ衝キ山穿ツ赤錆色ノ大釘。
「聖火……」
ザクロは生気の光を失った目で呟いた。
約一ヶ月前の記憶が蘇る。目の前にある赤い棺。それが引き金だった。
ミドルカッスルの牢屋にいたザクロはわけもわかないまま引きずり出され、この女の前に立たされた。
ザクロは作戦を告げられた。
聖火を上げろ?
何の事を言われているのかわからなかった。
『自分の理由も知らないのですか』、そういう風に罵られて、無理矢理、棺の中に押し込まれた。
ザクロの声などまるで聞こえていないように、まるで暖炉に薪でも
棺のフタが無慈悲に閉まる。棺の内側の肉ひだが、ザクロの肌にまとわりつく。叫ぶザクロの声など聞こえていなかった。
それから、頭が割れるような痛みに襲われた。
棺は何かに乗せられて、そして……落とされた。たぶん、蹴り落とされた。
真っすぐ真っすぐ落ちる中、頭痛はどんどん激しくなった。声も出ない。目も開けられない。
次に覚えているのは、女の満足そうな顔と、そして焦土。
ザクロを吐き出した棺は、黒焦げの大地の真ん中に立っていた。
この蒸気はなんだろう。この黒焦げの地面はなんだろう。
わかっている。
ザクロ=ゼタジュール。全て、自分が招いた惨劇だ。
また、同じことが起きてしまう。
ザクロは女を睨み上げた。女は無表情だ。
「させない……」
「なに、を……!?」
ザクロが大きく口を開いた瞬間に、女は尖った革靴をその小さな口の中に突っ込んだ。
呻き声を上げて、首が跳ね上がる。
「馬鹿め、舌を噛み切ろうとでも思いましたか……だめだ、これでは面白くないシャレになってしまう……舌を……噛み切ろうと、しま、した、か……いや、まただめだ……くそ」
嘔吐くザクロなど見えていないようにぶつぶつと喋っている。
「舌を噛み切って舌根が喉に落ちて窒息、血中の酸素が無くなるまで数分。それから二分後に痙攣が始まり三分後には失禁および脱糞、死ぬまでは十分以上の余裕があります。その間にあなたを棺に詰めて能力を力づくで発動させる……まあ、間に合うでしょう」
冷たいエリュシカの目がザクロを射抜く。
靴を口から引き抜くと、ザクロが思い切り咳き込んだ。
「焦土と化したイルファーレであなたは死体のまま目を覚まさない。その代わりに恐らく私も焼け死にますが……いいのですか、今度は懺悔すらできなくなりますよ」
「う、うう……!」
あまりの無力感。
何もできないのか。頭を石の床に叩き付ける。何度も何度も叩き付ける。
エリュシカ=ルタロは溜め息をついて、再びザクロの髪を掴んで引きずった。
「そんなことで死ねるわけがない」
この体勢では舌を噛み切れない。頭を割ることもできない。鉄の手袋を嵌められ拘束された腕では、自分の首も絞められない。
ザクロが引きずられて近づくと、棺がひとりでに開いた。まるで獲物に食らいつく魔物のごとく。
動物の腸を引っくり返したような内壁が、ザクロを迎え入れようと蠢き始める。
棺の中を埋め尽くすおぞましい真っ赤な肉ひだは、風に揺れるように蠕動している。
ぬらぬら光る粘液の量が、次第に増えていった。ザクロ=ゼタジュールの匂いを嗅いで反応しているらしい。
「……助けて」
アベルの名を呼びたかった。
「助けて……」
恐怖に屈しそうな心を、アベルの名前で奮い立たせたかった。
泣き出しそうになるのを耐える。歯が割れそうになるほど食いしばった。
ミドルカッスルの中の構造は単純明快だった。
アベル=バルトネクとオーランド=ギャッツビーは、足元が揺れないことに驚きつつも、奥へ奥へとと走り続ける。
部屋の数もそれほど多くなく、一室ずつ制圧するのに時間もかからない。戦える兵士の半分ほどは外に出張っているようだ。
向かい来る敵をなぎ倒す。オーランドは走りながらも水を飲んだ。水を飲み続けていた。
「あんた、水飲まないと死ぬのか? さっきからずーっとがぶ飲みで、お腹を壊すぞ」
「ほっとけ、いろいろあるんだよ。お、あの部屋が怪しいな」
オーランドが指差した。明らかに他の部屋とは違う、特別頑丈そうな扉。
台詞が終わる前に、オーランドのリボルバーはホルスターから抜かれ、台詞が終わる頃には、扉の左右にいた兵士二人が同時に倒れた。
驚くアベルをよそに、ちょっとした階段を駆け上がった。
息を合わせて、二人で扉を蹴破った。
「ザクロ!」
アベルが叫ぶ。ザクロは真っ赤な棺のような箱に押込められるところだった。抵抗するザクロを、エリュシカ=ルタロがまるで薪でも焼べるように、棒で押し込めている。扉の隙間から、気味の悪い肉ひだがザクロに絡み付いているのが見えた。
ザクロと目が合った。
「アベルさ――」
声は最後まで聞こえなかった。肉ひだがザクロの指先までを棺の中に引きずり込むと、扉は一人でに閉まってしまった。
あからさまに不機嫌な顔で、エリュシカが振り返る。
「……しつこいですね」
「俺もあんたみたいなおかしい女のケツなんて追い回したくねえんだけどな」
「ザクロを返せ、エロ女!」
「え、なに、あのねーちゃんエロいの?」
「俺に聞くな!」
怒り狂うアベルとは裏腹に、オーランドは冷静に右手をホルスターに伸ばしている。
反対の手では、今にも噛み殺してやろうと飛び出す野犬のようなアベルの服をしっかりと掴んでいた。
「あんたら、その嬢ちゃんに何の用があるんだよ。仰々しい要塞まで動かして、さすがにやり過ぎなんじゃねえのか。居直り強盗にしちゃ派手過ぎんだろ」
「だからあなた方にはこの少女を渡せない。価値を知っている人間が持つべき少女です」
「価値! 持つ! それが気に食わねえんだよ! ザクロは道具じゃない! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやるからな!」
「こら、アベル! ステイ!」
「……水の国を蒸発させたのは、この少女ですよ」
エリュシカ=ルタロはもったいぶることなく告げる。
ザクロ=ゼタジュールの本性……
「我々も上から言われただけでして、詳しいことはわかりません。これは
「難しい言葉使ってんじゃねええええ!」
「あ、馬鹿! 本当に馬鹿!」
オーランドの合図も待たずにアベルが突出する。
それとほぼ同時に、オーランドの後ろから鉄の塊が現れた。
オーランドの頭上を飛び越えた鉄塊は、そのままアベルに向かって拳を振り下ろした。
オーランドがすかさず撃鉄を下ろす。切り裂きジャックのアキレス
蒸気が漏れる。
減圧で生じる高音。ホイッスルのような音でアベルが気がついた。ぎりぎりのところで拳を躱せた。
切り裂きジャックは動かない足首など無視して、アベルに出鱈目な体当たりを仕掛ける。
アベルは腕を組んで衝撃に備える。切り裂きジャックはアベルを巻き込み、棺の投下口に飛び込む。
アベルと切り裂きジャックは、その穴からそのまま――要塞から落ちた……
それを皮切りにして、入り口からはドカドカと兵士たちがなだれ込んできた。
一人になってしまった上に四方を塞がれるオーランド=ギャッツビー。
しかし、キャプテン・オーランドはそれでもにやりと笑ってみせた。
「仮にも要塞を名乗るこのスチームオクタに乗り込んで……勝機はあったのですか、チンピラ」
「おねーさん、男ってのをわかっちゃいねえ。勝つか負けるかなんてのは、これっぽっちの些細な問題なんだよ……粋かどうかが問題なんだ」
「武器を降ろしなさい、チンピラ」
「やなこった――」
銃声が轟く。
早撃ち――銃弾を放ったのは女だ。エリュシカ=ルタロがいつの間にか小銃を構え、いつの間にか発砲していた。
目にも止まらぬ早業で放たれた弾丸は、卓越した精度によって吸い寄せられるように……オーランド=ギャッツビーの心臓に着弾した。
オーランドの目が開かれる。
見えなかった。同じく早撃ちを得意とするオーランドの目をもってしても、エリュシカ=ルタロのファーストアクションを捉えきれなかった。
心臓に当たっている。
認めなければならない。惨敗だ。少なくとも、早撃ちでは。
次の発砲音は、あろうことかオーランド=ギャッツビーのリボルバーから鳴った。
エリュシカの太ももから血が飛び出した。
撃たれたエリュシカだけではない。周りを囲む兵士たちも、理解できないという様子で目を剥きオーランドを見ている。
心臓を撃たれたはずのオーランド=ギャッツビーは、あろうことか笑っている……
健在。
心臓からは確かに白煙が伸びている。
当たっているはずだ。白いシャツに血が滲み始めた。服の下に鉄板を敷いているわけではない。肉が裂かれ、出血している。
鉛玉は、心臓に穴を開けているはずだ……
がくんと崩れるエリュシカ=ルタロを見て、オーランド=ギャッツビーはリボルバーをくるくる回してホルスターに仕舞った。そして腰に提げた革袋を取り、水をがぶがぶと飲んでみせる。
極めて、元気そうに。
「おねーさん、良い腕だ。正確無比……あのスピードで心臓に当てやがった。オドロキだぜ。ちっとも見えなかった。だが悪いな、俺の心臓は鉛玉じゃあ貫けねえんだよ」
空っぽになった革袋を中空に放り投げ、大声で笑う。
オーランドが身震いすると左肩の後ろが、ぼこりと盛り上がった。羽でも生えてくるかと思うほど、服が突っ張っている。
オーランドはシャツごと上着を脱ぎ捨てた。
左肩が異常に腫れている。心臓を貫くはずの弾丸は、皮膚に食い込んだところで止まっていた。
ナイフを強く握りしめて肩を回すと、皮膚が割れた。
突き出したのはまるで……形容するならば動物のはらわた……胎動する、グロテスクな煙突だ。
肉腫と赤いひものような物体が纏わりついて、そのひとつひとつがいちいち蠢いている。
オーランドはもう一つの革袋を一気に逆さまにして、口の端からこぼしながら豪快に水を飲み干した。
「もう一回、勝負しようぜ」
蠢く肉の煙突から、蒸気が吹き出す。
オーランド=ギャッツビーは、やたらと水を飲む男だった。
*
切り裂きジャックの服から煙が出ている。
服に染み込んだ雨が、蒸気機関の熱で蒸発しているようだ。
小さなスチームオクタのような有様。纏わりつく蒸気が、大気に螺旋を描いていた。
二人の落下軌道は御神体の足元へと向かっている。移動要塞の進行方向と同じだ。
アベルはダメ押しの熱蒸気噴射で切り裂きジャックから距離を取った。アベルを離してしまったジャックは、蒸気機関の重さによって落下速度が上がる。
アベルが背負った滑空板に縋りついて、なんとか風を捕まえた。おどろおどろしい様子ながらも足場を掴み、バランスを整える。
切り裂きジャックが自重で落ちていくのを見届けて、アベルは雨が降り注ぐ天空を見上げた。
山のような蜘蛛が糸に絡まって地団駄を踏んでいる。
滑空板では高度を上げることができない。あの中にいるはずの、棺の中に詰められたザクロ=ゼタジュールとの距離はどんどん大きくなった。
オーランド=ギャッツビーが何とかしてくれる。あの良い男がいれば大丈夫だ。
そう信じて、アベルは目の前の敵と戦う覚悟を決めた。
どの道片付けなければならない。
仇討ちに興味は無いが、それでも聞きたいことは山ほどあった。口を割らないというのならば割らせるまで。
ぼこぼこにして、どうしてジンとサラを殺したのか聞き出してやる。
腰を下げて落下速度を上げた。
アベルの赤い髪が、風に乗って耳元で暴れる。
左腕の駆動を確認する。
握って、開いて、握って、開く。
手首を回して、肩の可動範囲を確かめた。
地面が迫ってくる。俯いて座る御神体の肩よりも高度が下がった。
御神体の後ろは崖になっている。奈落の底と言ってもいい。足元の四角い岩の祠には、花や酒が供えられていた。
背後には山のような八本足の蒸気機関。前にはそれと同じ程度の大きさの御神体。
あまりのスケールに、自分が落下する葉っぱに捕まる小人になってしまったように感じた。
アベルは落下傘を展開する。十字の木の棒にしがみついて、衝撃に備える。一瞬で重力が反転し、落下のエネルギーは打ち消された。
ふわりと浮いたあとに、緩やかな落下。
切り裂きジャックは先に着陸した。両足で、出鱈目に。
ジャックを中心に、石畳がひび割れたのが見える。
十字の木の棒の片方に力を掛けて、落下傘の角度を変えた。捉える風のレーンを変更し、旋回しながらジャックに近づく。
「畜生、なんだ、あいつ、シルクハットをあごひもで止めてやがった……気味が悪い……」
数メートルの高さまでになると落下傘を手放した。石畳を転がって、そして跳ね上がる。
切り裂きジャックは既に迫っていた。拳の速度が落ちている。足首のシリンダから蒸気が漏れているせいだ。
圧力切れが近いに違いない。
この速度なら十分捉えきれる。パンチをかいくぐって、左の鉄拳を顔面に叩き込んだ。黒い鉄仮面を打ち鳴らす。
重い。鈍痛が走る。肩口の傷を縫い直したとは言っても、完治したわけではない。出血するのを感じた。
だが、こんなもの。
何の話をしているのかよくわからなかったが、水の国を蒸発させるためにザクロ=ゼタジュールは利用されたということだけは伝わった。
一国を消し飛ばすために利用された、そのこころの痛みに比べれば。
見える傷など問題ではない。
アベルは左腕の弁を全て閉じた。
全力で叩きのめす。圧力タンクが炸裂しようと構わない。
ジンの左腕で、この男を半殺しにしてやる。
切り裂きジャックは右手でナイフを扱い、左手で拳を握っていた。あの重過ぎるナイフは、どうやら今のジャックにとっていい塩梅のようだ。
オーランドが撃った足首から鳴るホイッスル音が弱々しくなっている。
あの鉄仮面の下で冷や汗をかいているに違いない。
「お漏らししてるぜ、切り裂きジャック」
「お前と違って歳でなァ……小便の切れが悪いのさ」
足を引きずって猛進する様は、まさしく蒸気機関車だ。白煙を吹き散らしてアベルとの距離を詰める。
半身を引いて目を開いた。ファイトポーズを取って、ジャックの両腕から目を離さない。
筋肉の動きを感じられない分、動きが読み辛い。張り巡らされたピストンの動きで攻撃を予測するには、まだ手合わせの回数が足りていない。
蒸気機関車と戦ったことは、さすがに無かった。
感覚を捨て、目に頼るしか術は残されていない。ひゅ、ひゅ、とナイフが鼻先を掠めて、耳元では拳が空気を砕く音が通過する。
アベルの攻撃手段は、左腕に限られてしまっている。
切り裂きジャックも当然それを理解して、左腕ばかりを警戒していた。
その油断を逆手に取る手段をアベルは持っていない。押される一方だ。
ジャックの圧力が抜ける速度は、当然ながら時間が経てば経つほど小さくなる。
しぼんだ風船から空気は抜けない。
動きが鈍っているのは確実だが、それでも鉄の塊が振り回されているのに変わりは無かった。
一撃一撃が、恐ろしい威力を持っている。
「ああ、畜生、当たらねえなァ! 当たらねえなァ!」
ジャックがナイフを放り投げた。なるべく重さを減らそうという魂胆だ。
ピストンが止まって動かなくなった足で踏み込み、右腕を振り回す。アベルの左側。しつこく、義手の攻撃を封じてくる。
直角に受けてはまたへし折れる。角度を付けて、滑らせるようにやり過ごす。
だが左腕の一本で攻撃を捌くのは無茶があった。鉄拳が髪を掠めた。
すかさず繰り出される第二撃。避ける。鼻先を擦った。次の拳を、まともに受けてしまった。左腕が曲がる。ビークルが衝突した排気管のように、勢いよく圧力が吹き出す。
「ハッハァ! お前も
まずい。
じきに圧力が無くなって左腕が動かなくなる。
鋼鉄の腕が動かなくなれば、確実に次の一撃がとどめになってしまう。
切り裂きジャックの後ろで、八本足の蒸気機関が後退を始めるのが見えた。
母艦の後退にジャックも気付く。だが、戻ろうとはしない。
「良いのかよ、帰っちまうぜ」
「どうやら全員ここで死ぬらしい」
「どういうことだよ」
切り裂きジャックはアベルの左腕を見た。
休憩ではない。話をして、腕の圧力が減るのを待っているだけだ。
アベルもそれは理解しているが、ザクロの話も気になった。
「ゼタジュールの力で焼き尽すんだよ。水の国よりは燃えやすいだろうぜ」
「焼き……?」
「神聖国アズマエビス」
切り裂きジャックはシルクハットを脱いだ。仮面は頭をすっぽりと覆い尽くしていた。肉の部分は、いったいどれだけ残っているのだろうか。
鉄の隙間からはみ出す銀色の髪の毛は、蒸気を吸って濡れていた。
「世界の各地に点在する遺失兵器の出所だ。あの女はどうやらアズマエビスが作った超熱量……『アマテラス』という兵器らしい」
アベルはふと、オーランドの船にいたカンクロウを思い出した。
飛行艇アマノトリフネ。随分とオールドスタイルな形だった。あの船にいた、動けるのみならず意思の疎通までしてみせる鉄の塊、カンクロウ。
もしかするとあれも、そのアズマエビスのオーパーツとやらなのかもしれない。
「アズマエビスの兵器の形は様々だ。人体の一部を模写したものもあるし、ただの歯車装置も存在している。そのとんでもない力を持つ兵器の一つが、救いの聖火……アマテラスってわけだ」
「もし、もしザクロの力を使おうとしても、無理だ」
アベルの言葉に興味を持って、合いの手を入れる。「どうしてだ?」
「お前がここにいる。お前が撤退しないと、さすがに蒸気機関でも死んじまうだろ。いまその……アマ? を使うと、仲間まで焼き殺すことになる」
「……おいおい」
耐えられず、吹き出した。鉄仮面の下から、げらげらと笑い声が響いて来た。
切り裂きジャックは、腹を抱えて大笑いを始めた。
「ハッハッハァ! お前なァ、お前なァ、考え無しでこの大国イルファーレに力づくで乗り込むような馬鹿どもに! たかが一匹の傭兵を助けようなんて知性が、あると思ってんのか! 見ろ! あんなに巨大な蒸気機関が、見るも無残に撤退していくぜ! お散歩しに来たわけでもあるまいし! やっぱり駄目でしたなんて様子でなァ!」
切り裂きジャックは背後を指差した。
八本足の蒸気機関が、地鳴りとともに敗走する。
ただ最後に、イルファーレを焦土に変える算段を立てながら……
「良いなァ、その顔……バルトネクの最期にもってこいだ……あいつらは最後まで、最後まで誇らしげに笑ってたからなァ……」
「バルトネク……どうして、お父さんとお母さんを殺した」
「依頼だったんだよ、国からのなァ……そうだ、このイルファーレからの! 依頼だった! 這入り込んだアズマエビスの人間を殺せと!」
アズマエビスの人間。
それを理解する前に、切り裂きジャックは飛び上がってアベルに鉄拳を振り下ろした。
アベルが自分を破壊する手段を失いつつあることに乗っかり、完全に防御を捨てた隙だらけの攻撃を放ち続ける。
「殺したさ! 殺してやった! その後だ! 口封じだと言って、やつらは俺を殺そうとした! 許せるか? 許せねえ! 正義が俺を裏切った! 俺は! 正義の! 味方だったのにィ!」
壁に追いつめられる。
「チクショー! ふざけんな! なにが正義だ、なにが公務だ!」
アベルは壁を利用して転がり続け、ぎりぎりのところで鉄の塊を躱している。
ガチンとスイッチを入れて、左手首を拳の形に固定した。恐らく次が最後の一撃だ。
「ハハハ! 当たらねえ! 当ったらねえな、こんチクショ! 許せねえ! だから殺してやる! 俺は切り裂きジャックになって! イルファーレに復讐をした! 俺が悪になったのも! 俺が悪に堕ちたのも! 全部、全部全部全部、バルトネクが悪いんだぜ!」
アベルは拳をかいくぐって壁を蹴り出した。
着地と同時に体重全てを両手両足で弾き返す。
飛び上がったアベルは左腕をきりきりと限界まで引いた。持てる力の全てを乗せた一撃。
これが外れれば後は無い。
そして切り裂きジャックは……全てを読み切った切り裂きジャックは……半身を引いて、アベルの一撃を難なく躱した。
通り過ぎるアベルの鉄拳をのんきに眺めている。
切り裂きジャックの拳が何度も何度も衝突してひびの入った壁に、アベルの全身全霊の一撃が突き刺さる。
炸裂。
拳を固定してサスペンション機能も働かなくなった左腕は、圧力タンクの外壁に衝撃をそのまま伝えてしまった。
壁の中で大爆発が起きた。供え物の花や酒瓶が弾け飛ぶ。
アベルの肘から先が砕け散る。破片が頬を斬りつけた。
切り裂きジャックは出鱈目にアベルを殴りつけた。石の壁が粉々に砕け散る。
壁を破って、アベルは中の空洞を滑った。
左腕が無くなった。配管が無様に飛び出している。もう切り裂きジャックの攻撃を受ける事も、反撃することもできない。
体中の神経を、尋常ではない痛みと気怠さが走り回っている。
このままではザクロが悲しい思いをする。
それにスラムはどうなる?
コワルスキーは?
助けてくれたオーランドたちも、果たして逃げ切れるのか?
それを全て許してしまって、ザクロ=ゼタジュールのこころは、無事でいられるのか?
体を起こそうとしても右腕が痙攣して言うことを聞かない。立ち上がることができない。
切り裂きジャックも足を引きずっている。やつをなんとかして討ち倒し、ザクロを迎えにいかないといけない。
焦りだけがアベルにのしかかる。
土煙の中に、台座が見えた。
この殺風景な小さな部屋にある、たった一つの物体。
それに掴まって、体を無理矢理引きずり起こした。雄叫びを上げて喝を入れる。
左腕から突き出した配管が、台座の上にあった物体に触れた。
赤錆色の、四角い箱。
手のひらに乗りそうなサイズのそれは、アベルの左腕から突き出た配管に触れた途端に変形した。
硬そうだった物質が急に軟性を帯び、左腕の配管にこびりつく。アベルは土埃の向こうに見える切り裂きジャックのシルエットから目を離せず、左腕を襲う異変に気付いていない。
四角い箱だった物質は、次々と質量を移動させていた。配管を伝ってアベルの左腕の内部に侵入する。
そこでやっと違和感に気がついた。左腕が台座から離れないのだ。
いつの間にか粘り気のある物体が、台座と左腕を固く繋いでいた。
「なん……」
アベルが声を出した途端に、赤い物質は台座を離れて破壊された義手の中に潜り込んだ。
突如、激痛。神経に触っている。左腕の中を蠕動して肩口に達し、ボルトに触れ、縫合の隙間から体内に侵入していた。殴られ過ぎてべこべこに変形した義手のプレートの隙間から、赤い粘液がしみ出してきた。
尋常じゃない状況だ。混乱している間にも、切り裂きジャックは足を引きずりながらも確実に近づいて来ている。
ずるり……肘から赤色の泥が垂れ落ちた。泥はアベルの体から離れるとすぐに炭化した。
染み出た液体は遂に義手の全てを飲み込んだ。
鼠取りにかかったような音が頭の中で響いた。激痛に全身を捩った。汗が吹き出る。早く立て、来るぞ――
切り裂きジャックが土埃の中から飛び出した。
アベルの頭上から拳を振り下ろす。鉄の塊が蒸気を吹き出しながら殴り掛かってきた。
左腕は鈍い痛みを訴えながらも勝手に動いた。
振り下ろされた切り裂きジャックの腕を、アベルが掴む。
赤錆色の左腕。
切り裂きジャックが驚いた声をあげた。
それもそのはず。ミドルカッスルがイルファーレに来た理由。カルロスという若将軍の指令で探していた物体。
結局この国のどこにあるか突き止めきれなかった。
それこそがアベル=バルトネクの左腕で胎動する、赤錆色のアズマエビス機関。
「アズマエビスの『山穿(やまうが)ち』……!?」
力任せに投げ飛ばされた。小部屋の壁に衝突する。
アベルは既に飛びかかっていた。引き絞った左腕が変形する。無限の歯車が噛み合って、瞬きの間に一つの兵器を組み上げた。
アベルの半身を覆うほどの、赤錆色のガントレット。
逆巻く竜の鱗。まだアベルの腕に取り憑いたばかりで成熟が完了していない未完成の機関でも、その禍々しさは伝わってくる。
切り裂きジャックは笑っていた。笑い声はアベルにも聞こえた。
こういうとき、口角を上げて微妙に『敵』は笑う。
きっと、自分は大丈夫だという意思表示だ。そうしていないと、負けるかもしれないという思いに押しつぶされてしまうから。
切り裂きジャックはもう動けない。
はりつけになった体を、貫いてやる。
突っ張った左足から伝わる前進のエネルギーを、踏み込んだ右足で上半身に伝える。
全ての筋肉を総動員した、渾身の左ストレート。
切り裂きジャックの蒸気機関を粉砕する。鉄が砕ける音を初めて聞いた。
衝撃と共にガントレットの中で駆動が始まる。アベルの全身から力が吸い取られるような、奇妙な感覚。
多重の懸架装置(サスペンション)が吸収した衝撃を歯車駆動が回収する。無数のギアが噛み合って、歯車の音は瞬く間に膨れ上がった。
一瞬間の静寂の後……凶悪な大釘が、撃ち放たれた。
零距離で突き刺さる。拳を跳ね返す鉄骨を、銃弾に耐える装甲を……
小部屋の壁は叩き壊され、粉々になって落ちていく。空の赤い薬莢が、ガントレットから弾き出された。
役目を終えた大釘は、螺旋に回転しながらガントレットの中に戻っていった。
発動機が砕け散った切り裂きジャックは、一瞬の浮遊のあとに重力に従った。崖の下、奈落の底へ落ちていく。
暗闇に吸い込まれる……その瀬戸際で、赤錆色の腕が蒸気機関の末端を掴んだ。
落下が止まったジャックは、舌打ちしてアベルを見上げた。
「……なんのつもりだ」
「まだ話が終わって、ないんだよ……」
壁を捕まえる右腕が悲鳴を上げている。身体中が限界だ。
「畜生、上がって来い、切り裂きジャック!」
「無茶言うな。蒸気機関は全滅だ。何も動かん」
圧力タンクは破壊され、貯水タンクからは水がだらだらとこぼれている。当然、ボイラーは役に立たない。
骨であるロッドはほとんど折れ、血液である蒸気はあらゆる場所から漏れ出し、筋肉であるピストンは動く様子が無い。
「アズマエビスって何なんだよ……殺されなくっちゃいけないのかよ……」
「知るか。バルトネクを殺せと言われたから殺した。ただそれだけだ。お前のその左腕も、くそったれ……アズマエビスの兵器だ……」
「ハァ……早く、早く上がって来い、頭が痛い……苦しいんだ……頭が、割れそうで……」
「離せ」
「まだ聞きたいことがある……兄ちゃんは、シャルル=バルトネクはどこにいる……殺したのか……お前は、兄ちゃんも、殺したのか……」
「……は」
切り裂きジャックは仮面の下で目を点にした。
絶望したように、乾いた笑い声を漏らした。
「知るか……誰だ、それは……傑作だぜ、四人もいたのか……俺は半分しか、殺してなかったのか……あの二人の勝ち誇った顔……そういうことか……全く、最高だ……こいつは……最高だ……」
腕のシリンダをパージした。
へし折れた機構が、ぎりぎりとねじ曲がっていく。
まだ終わっていないと叫ぶアベルの手に一本のピストンだけを残して、蒸気機関式切り裂きジャックは、奈落の底に飲み込まれた……
「畜生……」
アベルは歯痒そうに舌打ちして、ピストンを奈落へと投げつける。
これで終わりではない。
ザクロの元へ、急がないと。
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