第十三話。雲纏う八本足の絶望。
ミドルカッスル接近の噂と連日の切った張ったの大騒ぎで、イルファーレは完全に混沌に落ちていた。
オーランド=ギャッツビーが先日訪れた水屋に行くと、水の価格は大暴落していた。
イルファーレ城からのお達しだそうだ。
御神体とは別に、城の地下に巨大な貯蔵庫を持つイルファーレは、防衛機関に必要な水と燃料を確保した上で、その余剰分を大放出。
国民はそれにあやかり、家庭で備えている貯水タンクをストック分も含めて全て満タンにしてしまった。万一のための避難所に行く準備……ビークルの整備や燃料補給……も済ませている。
スチームビークルを使う運送業者など、水屋、燃料屋にとっての大口顧客は、そもそも営業が止まっている。放っておけば蒸発して量が減ってしまう『水』という資源は、食物ほどではないにしても生ものだ。
貯蔵庫の樽から蒸発していく水を『天使の取り分』と称して笑って済ます水屋たちも、これにはさすがにお手上げだった。
オーランドはそんな水屋の前で陽気な顔をしてみせ、
「へい、水屋。今の見積もりはどんなもんだ?」
「あ! おい、まだ逃げてなかったのか、空族! 水は渡しただろ!」
「船は隠してあるよ。まったく。隠すだけじゃ意味ねーだろ。俺は空族、飛ばなきゃ意味無いの。そんで、前の試算、やり直してくれよ、このレートでな」
ぱんぱん、とカウンターに置いてある手書きのレート表を叩く。
先日訪れたときの半分どころか、四分の一にまで下落していた。
だが水屋も文句を言うわけにはいかない。とにかく売り切らなければ水は暴食な天使たちに喰らい尽くされてしまう。今回は儲けるチャンスだと思って大量に入荷しているので、痛手はかなり大きい……
「運送費込みでこれだ」
「はぁん? もうちょっと色付けてくれても良いよなぁ……あの水、俺が買わなきゃどうなるんだ? 天使に飲み干されちまうか、そうだな、八本足の蒸気機関に踏みつぶされるか……」
「こ、この……」
青筋を立ててぷるぷると震える。
売り叩いてやろうと思っていたのが、今や買い叩かれる側になってしまっている。
商売人としてのプライドが、水屋の心を抉っていった。
「こ、これでどうだ!」
「お、良いねえ。これ以上はさすがに可哀想だ」
わっはっは、と陽気に笑って金を払った。
リーフィは呆れた目でオーランドを見ていた。
それから五日が経つ間に、飛行艇の整備が終了。全ての補給物資も船に届き、搬入も済ませた。
イルファーレの国外。外周を囲むスラムのさらに東。鬱蒼と生い茂る森の中で、飛行艇の中に空族たちが乗り込んだ。
今や珍しくなったガレー船型の飛行艇。
舷側に開いた扉からカレン、リーフィ、そしてオーランドが船に乗り込む。
オーランドが乗り込んだのを確認すると、リーフィは巻き取り機を回した。カンカンと逆回転防止の鉄札が歯車にぶつかる。
その間にカレンは早速機関室の中に入っていった。
すると、機関室の中で何やらごそごそと探している人影。
「何探してるの、マルカ?」
カレンがパイプの一本をこんこん叩いて、自分の存在を知らせる。
マルカと呼ばれた女は、突然の来客にびくりと震え、振り返った際に突き出た配管に頭をぶつけた。
「あ痛……ああ、カレン。いや、レンチ無いかと思って」
「レンチ? あるけど、何するの?」
「いやぁ、足を一本失くしちゃったカエルに、また飛べるように羽を生やしてあげようと思ってるんだけどね……」
「レンチはいったい何の役に立つの……?」
マルカ=アウロフは空族団の船医だ。
オーランド=ギャッツビーに言わせてみれば、
一度オーランドがあわや指を切り落とさんやという大怪我をしたとき、「もう一本あれば落ちても大丈夫だよね」と六本目の指を生やす提案をされたことがある。
それに「やったぜ!」と万歳で賛成したオーランドをカレンが止めるという流れだ。
「か、カエルは逃がしなさいよ。羽なんていらないよ……」
えー、そう、渋々、と言った様子で、マルカは渋々と機関室を出て行った。
「や、リーフィ!」
「ああ、マルカ」
リーフィが扉を閉め終え、甲板に上がる。マルカは甲板の先にいるオーランドに挨拶して、船室に引っ込んだ。
「よう、元気か、カンクロウ」
横に倒した樽に手足と小さな煙突、そして
カンクロウと呼ばれた鉄塊は、なんと腕を動かしてオーランドの手を鬱陶しそうに払いのけてみせる。
「元気も病気もあるか」
そしてそれだけでなく喋るのだ。
「俺は
「俺と一緒だなぁ、カンクロウ」
わっはっは! と笑い、水を飲む。
カンクロウの背中にある小さなハッチを開いて、革袋の水をじゃぶじゃぶ注いだ。
ぶるりと体を震わせたカンクロウは、それにしても、と喋り出す。
「やっと出航か。この国では水と燃料と部品をいくつか買うだけだったんだろう。えらく時間がかかったな」
「
「それにしても二、三週間ほどかかったがな」
「ガス抜きも大切だろ、蒸気絡繰」
オーランドは樽のような胴体をノックする。
「抜きすぎると動けんくなるぞ」
「わーかってるよ。さっさと大煙突を目指そうぜ。早く
伝声管を通して機関室に指令を送る。
ボイラーを焚く作業には時間がかかる。巨大なボイラーであれば、暖まるまで丸一日だってかかってしまう。
この飛行艇もかなりの巨大ボイラーを搭載しているはずだが、それにしては凄まじい速度で蒸気が溜まっていく。
スラムで叩き上げられた技術士カレンにとっても、この船には謎が多かった。
ふと、オーランドはカンクロウの背中に描かれている模様を見ながら、顔をしかめた。
どこかで見た。最近この模様をどこかで見たはずだ。
ウーム、と顎を撫でて考え込む。最近ということは、
この不思議な鉄塊の背中に描かれた模様。
中心線を軸に、両側に広がる羽のような、いかにも神聖そうな……
「ザクロだ!」
バン、とカンクロウの頭を叩く。
「ザクロちゃんが確かこの模様のローブを羽織ってたぜ!? 思い出した! ザクロちゃんだ! はーすっきり! うっしこれで心置きなく出航……」
「待て待て待て! いまなんて言った!?」
カンクロウは慌てて振り返る。首が無いので体ごと。
ぴょんと跳ねる様があまりにもコミカルだ。
「この模様がどうのこうのって言ったか!?」
「あ? そうだよ。お前と違って可愛い金髪の嬢ちゃんが羽織ってた白いローブに、紫色で同じ模様が入っていたぜ。お前のは赤いけど。色が違うから思い出すのに時間が掛かったんだなぁ」
「だなぁ、じゃないわ! 何を安心して出航しようとしてる! 止めろ止めろ! 不思議に思わんのか、クソッタレ!」
「いやぁ、お前に不思議って言われてもな……」
歌って踊れる鉄の塊を前にして、オーランドは首を傾げた。
「馬鹿野郎、その嬢ちゃんが、アズマエビスと関係があるってことで間違いないだろ! 捕まえにいくぞ! 俺の記憶の手がかりが……」
「捕まえるぅ? おいおいちょっと待てよ、あの嬢ちゃんの居場所はあそこだ。良い男がついてんだ、それをなんだ、捕まえるぅ? 野暮ってもんだぜ、ぽんこつ!」
ペシィ、とオーランドがカンクロウを叩いたところで、森を震わせる『汽笛』が鳴った。
もちろんこの船のものではない。思わず耳を塞いだオーランドがカンクロウと目を合わせたところで、伝声管の中をリーフィ=ナシメントの大声が駆け巡った。
「キャプテン!
昆虫の複眼のようなカンクロウの
移動要塞国家ミドルカッスルのその形相と徽章を重ね合わせて、そう呼ばれることが多い。
土埃を上げて立ち上がるスチームオクタ。地を鳴らす振動が、まだ浮力を得ていない飛行艇に伝わって来た。
「距離は!」
「距離は……距離はかなり遠い! 遠いはず……十五……二十キロメートルは……違う、三十、四十キロメートルだ! デカい……デカ過ぎる、距離感がわからない……、山が動いてる、想像できるか!? キャプテン! 今にも立ち上がる! あ、ああ……デカーっ!」
「落ち着け、ばか! どこに進むか見ておけ!」
オーランドは握る伝声管を変える。
「おい、カレン! 浮上にあとどれくらいかかる!」
「うーん、一時間は掛かりそうかなあ。水入れ替えたし」
「い、一時間!?」
ボイラーは基本的に最低限の火をずっと残しておくものだ。でなければ蒸気機関車などの大きなものになってくると走行可能になるまで一日弱かかってしまう。今回は待機中に焚いておけるほどの水が無かった。
恐らくスチームオクタも今までずっと身を顰めてボイラーを暖めていたのかもしれない。
八本足を順繰り順繰り大地に突き立てた。鳥の喚き声が森に響いた。スチームオクタはその体に乗せていた擬態用の木々を振り落とす。蜘蛛の腹のような巨大な瘤には、
恐らく瘤には巨体を動かすためのボイラーなどの、中枢となる蒸気機関が詰まっているに違いない。
「ったく、イルファーレも飛行巡艦船でしか見張らねえからこういうことになるんだよ……まあ俺も要塞が地面に潜ってるなんて想像はできねえけど……」
蜘蛛の八本足全てが大地を捉えた。自前の蒸気を纏う不気味な体躯。
幾重にも轟く汽笛はまるで異形の鳴き声だ。
「キャプテン! 進行方向は……ああ、なんて、そんな……進行方向は真っすぐ
「ははは、正面切って、ってわけだ。バカじゃねーの」
南には国門がある。
ぐるりと壁に囲まれたイルファーレの地上を這って入れる唯一の出入り口。
オーランドはアベルのことを思い出した。
アベルとザクロがいるのは確か東のスラム。スチームオクタの闊歩による直接的な被害は無いだろうが……
「あの坊主が黙ってるとは思えねえな……」
燃えやすいアベルの性格上、数多の制止を振り切って街に行って、直接ミドルカッスルに乗り込もうとするかもしれない。
さすがに無理だ。
どれだけ腕っ節が強かろうが、仮にも一国を名乗っている軍事集団に勝てるわけがない。
後手後手に回っているこの状況、イルファーレ軍の対応が間に合わず、被害はかなり出ることだろう。
「おい、カレン! バイクビークルの整備は終わってるな!」
「終わってるよー。ねえ、さっきからこの地鳴りなに?」
「馬鹿野郎、ミドルカッスルが本当にいたんだよ! 遠くの森の中に潜ってやがった! 噂が本当に……や、やっぱり俺様には世界を動かす力が……」
「はあ、なに!?」と声を裏返したカレンの伝声管の隣から、リーフィの怒号が聞こえて来た。
船の上は大騒ぎだ。一方で船医マルカ=アウロフは船医室から出てこないが。カエルに羽でも生やしているのだろうか。
「キャプテン! どうする! 見過ごすのか!」
「行くに決まってんだろ! お前らは船で飛んでこい! 俺はバイクで先に行く!」
「どこへ行けば良い!」
「知るか! ちょっと考えさせろ!」
オーランドは革袋の水をがぶがぶと飲んだ。
口を拭って、カンクロウの頭を叩く。
「船を頼むぜ、カンクロウ!」
「おい、待て、オーランド! やつらの目的はわかるのか!?」
「まあたぶんザクロちゃんだろ。おいおい、なんてこった、出鱈目なことしやがるぜ。うまくいかねえからって突撃かよ、わかってんのか、相手は
まるで戦争だ、オーランドがそう呟いたと同時に、カンクロウが少し浮いてしまうほど地面が揺れた。
スチームオクタが本格的に歩き始めた。八本足を四本ずつ交互に動かす様はまさに蜘蛛だ。背中に背負う要塞と共に元気いっぱいと言った様子で爛々と火の国に向かっている。
イルファーレ城よりも大きい。カンクロウなど比べ物にならないほどの歩く鉄塊。
ミドルカッスルの移動要塞をこんなに近くで目にしたのは、ここにいる全員初めてだった。
どれほどの熱量と、どれほどの水があれば、これほどまでの蒸気機関を動かすことができるというのか。
一つの孤島がまるごと蒸気機関になって、しかも機関車のような車輪ではなく、山も谷も関係無く進むことができる八本足で歩いている。
無数の煙突から積乱雲のような蒸気を吐き出し、けたたましい金属音とともに大地を震わせ、その質量をあらん限りに誇示していた。
振動でまともに立っていられない。
カンクロウに至っては悟ったように引っ繰り返ったまま沈黙していた。
「おい、お前ら! 怪我すんなよ! 飛行が始まり次第、イルファーレ上空に来い! 場所は……そうだな、頃合いになったら俺が信号弾で指示を出す! たぶん東の方からな! 見逃すなよ! ついでに死ぬなよ!」
伝声管で指令を伝えたあと、這いつくばって甲板を降りる。機関室で転がっているカレンに合図して、バイクビークルを引っ張り出した。
カレンは三つの革袋をオーランドに投げた。満タンの水だ。
オーランドは革のフードを被り、眼帯の上からゴーグルを装備する。両手には革手袋。左手でブレーキ・レバーを握りしめながら右手でアクセルを吹かす。圧力計は満タンを示している。
カレンが指を三本立てる、二本、一本……扉を開け放った。
オーランドを乗せたバイクビークルが勢い良く舷側から飛び出した。
先日盗んで乗り回したバイクよりもトルクが大きい。狂気の蒸気機関技師(スチームスミス)カレン=アップルヤード特製の三つの蒸気エンジンと熱回収大容量熱差往復エンジン。例の四連エンジンのモンスターマシンだ。
アクセルを回せば回すほどスピードが出た。
オーランド=ギャッツビーは森を駆け抜け、真っすぐと国門へ向かった。
大混乱の門をくぐり抜け、蒸気機関車を凌駕する速度で東のスラムへと走る。
*
シルクハットにトレンチコート。
季節にそぐわない奇妙な格好。
そして何より、裾から吹き出すその蒸気。
袖から出た白手袋の中で、ナイフをくるくる弄んでいる。
イルファーレの中央駅。なだれ来るミドルカッスルの軍勢の中、一人の男が立っていた。
その服装、ミドルカッスル接近の噂に先だって語られていた切り裂きジャックと瓜二つ。
何度か街やスラムで目撃されていたが、今度ばかりは噂では済まない。
イルファーレの観測台でミドルカッスルの出現が確認された。
そして迅速に出張ったイルファーレ国軍の前に、その真黒い男が立ち塞がっている。
ライフル兵三十人の間に二丁の機銃。そして背後に十五の騎兵。
それに対峙するはシルクハットの男ただひとり。
顔は黒鉄の仮面で隠されている。
誰だ、という声にも応じない。ただただ二振りのナイフを手の内で転がすのみ。
撃ち方用意。騎兵が叫んだ。ライフルを持った兵士たちが照準を合わせる。
シルクハットの男はぴくりとも動じない。黒い鉄仮面は動かない。暗闇となった双眸で、たくさんの銃口を見つめていた。
「最後通告だ! ナイフを降ろせ!」
「まァまァ落ち着けよ。混乱するのもわかるが、こういうときこそ落ち着くもんだぜ」
男は至極冷静に、騎兵隊に挨拶をする。
「素性のわからん俺を通告なしじゃあ撃てないか? こんな状況で随分優しいなァ……頼むよ、折り入って頼みたいことがあるんだ」
途端に、隊に緊張が走った。
男はナイフの腹で自分の心臓をこつこつ叩いてみせる。
「ちょっと試しに、蜂の巣にしてみてくれねえか」
――撃て。
号令と共に無数の発砲音が轟いた。
二十からの鉛玉が飛び出した。スクリュー回転が空気を穿ち、照準の先へと突き刺さる。
火薬の匂いが充満する。
白い蒸気の向こう側。ぴくりとも動かない
膝を折るのを今か今かと見つめる騎兵たち。
……おかしい。立ちつくしている。
よもや直立のまま死んだとでも……
「……おいおい」
蒸気と硝煙の向こうから声がした。
ライフル兵がすかさず銃を構え直す。あり得ない。二十発の弾丸。当たらないわけがない。
声からは痛みを感じている様子も汲み取れない。まるで健在、まるで無傷だ。
立ちこめる蒸気が風に流されていき、シルエットの正体が少しずつ現れる。
破れた服にほとんど血が付いていない。
男は右のナイフで、機銃を指した。
「もう一回チャンスをやるよ。次はきちんと
風になびく穴だらけのコートから見えたのは――鉄の塊。
人の形をした蒸気機関が、立っていた。
「今度はちゃんと殺してみせろよ、ハッ、ハッ、ハァ……」
男は、機銃の弾丸全てを受け止めてみせた。
全くの無傷で哄笑しながら、遂にナイフを掲げた。
……数秒後には、惨殺死体の山がそこに築かれていた。
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