第十二話。ザクロの恩返し。

「わしとアベルへの恩返し?」


 フィリップ=コワルスキーがコーヒーの入ったマグを傾けながら聞き返した。

 ザクロ=ゼタジュールが、先日の件についてお礼がしたいという。

 自分を助けるために気球船を飛ばしてくれたコワルスキーや、自分のために怪我をしたアベルに、何かできることはないかとコワルスキーに聞いて来た。


「わしは良いから、アベルにしてやりなさい」

「で、でも……」

「良い、良い。この老骨には、お嬢ちゃんの笑顔で十分だ」


 コワルスキーの笑顔に、ザクロは照れながらも笑い返した。よしよしと撫でられた。コワルスキーの硬く分厚い手で撫でられるのは、体全体を包み込まれるようで安心する。


「じゃ、じゃあ、アベルさんが好きなもの、何か知りませんか?」

「あいつはシチューが好きじゃの。この前の分の材料が余っておる。作ってみるか」

「はい! あの、一度一緒に作ってもらったあと、今度は私一人で作ってみても良いですか?」

「ああ、良いぞ。材料も鶏肉を買い足すだけで済むじゃろ。早速取りかかろうかの」


*


「アベルに恩返し?」


 巨漢のビグルは受け取ったシチューを食いつつザクロの質問について考えを巡らせた。

 しかしこのシチュー美味いな、とザクロを褒めるが、それに対しては苦笑いをするだけだった。

 ビグルはウームと唸ってみせる。


「何か、そうだな……ほら……」


 体重九十キログラム。

 筋骨隆々の肉体に脂肪の鎧。槍でも貫けそうにないような巨漢のビグルが、頬を掻きつつザクロから目を離す。


「その、そういう想いだけで……嬉しい、と思う……ザクロが一生懸命頑張ってくれたら、それであいつは良いんじゃない、かな……」


 その様子にザクロまでが何故か頬を染めた。

 ビグルはちらちらとザクロを見てお伺いを立てている。「どう?」と怯え腰で聞いているようだ。


「い、意外と、ロマンチストなんですね、ビグルさんっ!」


 ありがとうございました、と早口で礼を告げて、飛び出していく。

 二十代半ば、体重九十キログラムの巨漢のビグルは、照れたように後頭部を掻きむしり、俯いていた。


「ろ、ロマンチストか……」


 へへへと笑い、もじもじしながら顔を赤くする。


 誰が見ても気持ち悪かった。


*


「アベル兄ちゃんにお礼がしたい?」


 ザクロ=ゼタジュールは、膝を抱えるように座り、教えを乞う。

 スラム街のくそがき……もとい子どもたちに。

 ザクロがコワルスキーに手伝ってもらいながら作った……ほとんどコワルスキーが作った……シチューをみんなに配って、勇敢に立ち向かってくれた子どもたちにもお礼を忘れない。


「はい! 怪我をしてまで助けてくれたので、そのお礼をしたいんです。アベルさんが好きなもの、知ってますか?」

「アベル兄ちゃんが好きなものかぁー……まあシチューと……これは美味いから合格点だな……うーん、あとは……」


 歯も生え揃っていない少年少女が、ウーンと唸って考え込んでみせる。

 木の実を食む小動物が集まっているようで、なんとも可愛らしかった。ザクロの頬が自然と緩む。


「あとは女だな」

「オ、オンナ!」


 ゴブリン……もとい子どもたちの口から出る響きではないように思えた。

 栗鼠と思っていたものが急に獰猛な牙を剥いた。

 獲物を横取りしようとする小賢しい肉食獣のように、ぎらりと笑っている。

 少年の一人が右手であるポーズを取ってみせる。

 握りこぶしを作って、親指を人差し指と中指の間から覗かせた。

 一人の少年がそのポーズを取ると、小動物の集団が次々と同じポーズを作り、そして邪悪に笑い始める。

 目を扇の形にして、ザクロを見上げた。


「教えてやろうか……アベル兄ちゃんを、悦ばせる方法を……」


 ただならぬ形相で見上げてくる悪魔の化身たちに気圧されて、生唾を飲み込んだ。

 間違いない。この子たちなら、教えてくれる。

 アベル=バルトネクへの、最高の恩返しの方法を……


*


 何も知らないアベル=バルトネクは、街の病院から帰るところだった。

 蒸気機関車は東六番駅を過ぎ、七番駅へと向かっている。肩の抜糸を済ませたところだ。左腕は装着されておらず、肩は革のプロテクターですっぽり覆われている。プロテクターを止めるために、ベルトが背中に巻かれていた。

 窓から見える御神体は、夕日に照らされている。

 汽笛が聞こえた。

 そろそろ駅に着くのだろう。

 汽車の動輪から伝わる振動が、アベルの体を揺らす。がしゅ、がしゅ、とピストンが往復する音は心地よかった。

 アベルがあくびをしながら東七番駅に降りると、いつもの二人に出くわした。

 フィリップ=コワルスキーと、巨漢のビグルだ。


「あれ、どうしたの」

「警察にこの前の騒ぎの顛末について聞かれておっての。ついでに飲みにでも行こうと思っておる。東五番駅の近くに。日付が変わる頃の帰りになる。ゆっくりせい」

「ゆっくり? っつーか、ビグルはなんでまだ東にいるんだよ。帰らねーのかよ。お前の家は西の七番駅だろ」

「帰らん。楽しいからな」

「なんでちょっとエラそうなんだよこいつ……」


 なんだこいつ、とアベルが呆れる。

 にやつきつつ意味ありげにアベルの肩を叩いた二人は、蒸気機関車の中に消えていった。

 二人の様子に首を傾げつつもアベルは帰路につく。

 道行く人々と目が合うが、みな等しく気味の悪い邪悪な顔で笑っている気がする。

 遂にスラムが悪魔の手に落ちたのだろうかと思いながらもなんとかアベルは家の扉に手を掛けた。

 木製の四角いドアノブを回して、中の歯車仕掛けの歯を合わせる。ドアを引いて中に入ると、


「お帰りなさい、アベルさん」


 キッチンの方からザクロの声が聞こえて来た。

 ただいまー、と靴を脱ぐ。スラムの道は舗装されていないところが多いため靴が汚れてしまう。家の中で靴を脱ぐのは、このコワルスキー邸だけではない。

 給仕を雇って掃除させるわけにもいかないので、元から汚すなということだ。

 しかし今宵のキッチンには、いるはずのない給仕がいた。

 真っ黒で地味な生地で編まれたロングワンピースに、白い詰め襟、そして白いエプロンを上から着ている。白いカチューシャも長い金髪によく似合っていた。

 瀟洒な佇まいで鍋を混ぜるザクロ=ゼタジュールの背中を見て、アベルは、


「シチューの匂いだ!」


 何も突っ込まなかった!

 ただぐつぐつと弾けるシチューの泡が振りまく芳醇な香りに、嬉しそうに目を輝かせるばかり……

 あれ……何か違う……

 ザクロは鍋をかき混ぜながら顔を赤くしていた。

 子どもたちの言う通りにしているはずだ。うまくやっているはずだ。

 手筈通りでは、ここでアベルが飛びついて来るはずだった。

 そして周りに美しい薔薇が咲き乱れる感じの雰囲気でザクロがお礼を言い、アベルが幸せそうな笑顔になる。

 そうなるはずだった。

 それなのにアベルは飛びつくどころか、


「なあ、シチュー、もう少しかかりそう?」

「は、はい、もうちょっと……」


 ザクロの服装への言及も無い。気付いてすらいないかもしれない。

 木べらで鍋をかき混ぜる。最早じゃがいもは消えてしまった。そもそもシチューなんてとっくに完成している。

 一体いつまで反応を待てば良いんだろう。

 というかアベルはいまどんな顔を……


「って、いない!」


 振り返って見るとそこには空っぽのテーブル……

 あまりの衝撃に足を滑らせそうになる。

 ザクロを放り出して部屋に行ってしまったようだ。どうして私はひとりでこんな格好をしているんだろう?

 虚しくなりながらも鍋を移して、アベルの部屋に声をかける。

 待ってましたと飛び出して来たアベルが、鍋を見て歓声を上げた。

 ひとまず、シチューは喜んでくれたようだ。

 木のスプーンでシチューを掬う。乳白色の液体の中に赤い人参やとろける玉ねぎ、良い色になった小さな鶏肉が入っている。


「これ、ザクロが作ったのか?」

「は、はい、コワルスキーさんに、習ってですけど……」

「すげー!」

「助けてくれた、お礼で……」

「そんなん気にしなくて良いのに! いただきまーす!」


 ランプの輝きに照らされるシチューを冷まして、口に運んだ。

 ザクロはどきどきと胸を鳴らしながら、お盆で口元を隠してアベルの反応を伺う。

 アベルが目を閉じて咀嚼する。ザクロが待っているのがわかっているようだ。片目だけうっすら開けてザクロを見ている。

 弱火でじっくりと煮込んだ時間をかけた丁寧な料理だ。


「美味い!」

「わー!」


 かなり焦らされたザクロは、両手を上げ、ぴょんと弾けて喜んだ。

 だが指先のたくさんの絆創膏を思い出し、咳払いをしつつ慌てて手を背中に隠す。

 記憶が無いザクロ=ゼタジュールにとって初めての料理。昼間にほぼコワルスキーに手伝ってもらい、そのときに書いたメモを参考にして、今度は火起こし以外は全て自分でやってみた。

 自分が作った料理が褒められるのが、こんなに嬉しいことだとは思いもしなかった。

 胸のどきどきも収まって、代わりに心臓にはなんだか幸せな香りのする空気が詰まっているような気がした。

 ふわふわする気分に浸っていると、子どもたちの顔を思い出した。あの邪悪な邪悪な笑い声……

 悪魔に魂を売ったザクロが手にした次の作戦、それは子どもたちが言うには『アーンシテ』というものだった。

 男を落とす女の一撃。

 街には尻から尻尾が生えた淑女が大勢いるらしく、その者たちが男のハートを射抜く際に使う妙技テクニック……それがアーンシテ。アベルは左腕を装備していないから、それはそれは食べ辛いことだろう。

 ザクロは意を決して口を開こうとする。

 だが、その後の光景がふと浮かんで顔が真っ赤になった。ザクロがスプーンでシチューを掬い、ゆっくりとアベルの口へと運ぶ。

 なんだか恥ずかしい。もの凄く恥ずかしい。

 この胸の苦しさはなんなんだとザクロが困惑する。

 お盆を抱きしめた。勇気を出さなければ……そう、勇気。

 アベル=バルトネクが暴走機関車に乗り込んで自分を助けてくれたように……!


「アベルさん、スプーン貸してください」

「なんで?」

「わ、私が、私が食べさせてあげますっ! ほら、あ、あーんって……」

「大丈夫だよ。利き腕は動くからさ。ありがとな。ザクロも冷める前に自分の食べちゃえよ」

「やさしい!」


 ザクロは膝から崩れ落ちた。


*


 フィリップ=コワルスキーの部屋の扉が少しだけ開いている。

 その隙間から覗くは無数の目。

 スラム街の悪魔……もとい子どもたちが、アベルとザクロのやり取りを見て青ざめていた。


「やばい、アベル兄ちゃんも相当の『駄目』だ……。恩返しついでにアベル兄ちゃんとザクロお姉ちゃんをくっつけようと思ったのに、に……にっ……」

「にっちもさっちも?」

「そう、それ。にっちもさっちも上手くいかない……」

「アベル兄ちゃん、殴り合いのときの方が活き活きしてるよね……」

「こうなったらアレしかない」

「アレしかないな……」


 部屋に詰められた悪魔たちは、次なる策を託すべく、地獄のように笑っていた……

 


 アベルがシチューを食い終わり、風呂に向かったところで、ザクロは駆け込むようにコワルスキーの部屋に雪崩込んだ。

 子どもたちは互いに人差し指を口に当て、アベルに気付かれないようにザクロを部屋に招き入れる。


「私、ちゃんとできてますよね!? なんか、なんか思ってたのと違うんですけど!」


 子どもたちのうち二人はザクロのメイド姿にやられて、あらゆる苦しみと全ての悲しみを克服した聖人のような顔で動かなくなっていた。

 そんな中、リーダー格は神妙な面持ちで話し始める。


「ザクロお姉ちゃん、たぶんアベル兄ちゃんはさっきのシチューで、満足してる。恩返しになってる。俺たちが食べても美味しかったからな」


 今回はちゃんと全部自分で作ったんだよと思いつつも、もちろん口には出さない。

 歯が無い少年少女が真剣な顔をしているのが面白くって、ザクロの口角がぷるぷると上がった。


「でも、それで良いのか?」

「!?」

「それだけで良いのか? アベル兄ちゃんの恩返し……ただシチューを食べさせただけ……俺たちやビグルと一緒で、良いのか!?」

「それは……」

「アベル兄ちゃんは、暴走機関車に乗り込んだんだろ!?」

「そう……!」


 身を乗り出して問いかけてくる少年少女に、ザクロの顔も真剣なそれに戻った。

 真面目なザクロは律儀に返事をしてしまうのだ。


「足りません……こんなものでは、恩返しにはなりませんっ……!」

「そうだ! それで良い! 自分を、自分の力を解放するんだ、ザクロお姉ちゃん!」

「自分の、力……!」


 ザクロは体の内側から力が湧いてくるのを感じた。

 熱いエネルギーが迸る。手先まで、満ち満ちるようだ。

 決起したザクロを見て、少年少女が立ち上がった。


「ザクロお姉ちゃん! 最後の作戦を伝えよう……!」


*


「オセナカ、ナガシマショーカ!」


 ばーんっ、と浴室の扉が豪快に開け放たれる。

 アベルの背中がびくりと震えた。硬化石灰と石を組み合わせて作られた入浴所は、コワルスキー邸の自慢だった。アベルの育て親であるジンとサラが作らせた入浴所を真似たのだ。コワルスキー自身も気に入っている。

 熟練の石工によって作られた浴槽は、そのまま外付けのボイラーに繋がっており、石炭を使って水を沸かしている。

 石鹸の泡を流そうと桶の水を頭から被っていたアベルが、目を丸くして開け放たれた入り口を見た。

 扉を開いた犯人は、ザクロ=ゼタジュールだった。

 もはや正気の目をしていない。顔の色はまるで熱した石炭。メイド服を脱ぎ捨てタオルを巻いただけのザクロが、手に垢擦り用の布切れを持って風呂場にズンズン入ってくる。

 オセナカ、ナガシマショーカ。

 背中を洗ってあげますかという意味だろう。アベルはまだ驚いた表情だが、それを見てザクロが心の中で拳を握った。

 アベルが驚いている。これで恩返しも成功――


「あー、左手無いから助かるわ、ありがと」

「…………はい」


 いや、間違いではない。

 元より左腕を装着していないアベルを鑑みての行動。

 洗えないはずの背中を洗ってやるのは本望……だが、何かが違う。これではいけないはずだと自分に言い聞かせるが、ザクロは垢擦りでアベルの背中を素直に擦り始めた。

 いったい何故自分は黙ってほとんど裸でアベルの背中を擦っているのだろう。

 考えてはいけない気がするので極力頭から追い出そうとはしているが、この状況のシュールさは冷静になればなるほど浮き彫りになる。


「ザクロがここに来て、スラムが明るくなったよ」

「……え?」

「前はもっとこう、殺伐としてたな。最近はあんまり人殺しも起きないし。子どもがザクロに懐いてるのは良い事だ。でもあいつら、いらんことばっか覚えるから、変なこと吹き込まれないように気をつけろよ」

「良い子たちだと思いますけど……アベルさんが言うなら、はい、気をつけます」


 しかしザクロは既にあらん限りに変なことを吹き込まれているのだった。

 アベルの背中は傷だらけだ。

 左肩は言わずもがな、たくさんの方向から縫われた後があったし、そうでなくとも肩甲骨の辺りや脇腹にも、刺し傷や切り傷の跡が残っている。

 このたくさんの戦いの跡が、アベルの強さを証明しているようだった。

 左肩から突き出す六本のボルト。そのボルトの根元にある基盤が、この皮膚の下に埋め込まれているとは信じがたい。

 抜糸の跡はまだ生々しく、柑橘の小さな果肉が傷口から吹き出ているようだ。


「よし、もう良いんじゃないか」


 アベルは桶のお湯を被って、石鹸を洗い流した。

 そのままザクロに背中を向けつつ、浴槽に入った。

 浴槽につかるアベルは、ひひひと笑ってザクロを見た。


「さすがに股間を見られるのは恥ずかしいからな」

「あっそこは恥ずかしいんですね」


 思わず普通に答えてしまった。

 一応は、異性として認識されているようだ……


「でもザクロが裸で風呂に入ってくる変態だとは思わなかったなあ」

「変態!?」

「ザクロも入れよ。風邪ひいちゃうぞ。背中向いててやるからさ」


 えっえっと混乱するザクロの手を掴んだ。そのまま引き入れて、ざぷんと、浴槽に飛び込ませる。

 薬湯の中でタオルがほどける。ザクロはもっと顔を赤くして急いで胸を隠すが、アベルは既に背中を向けていた。


「あ、あの、アベルさん……」

「んー? あったかいだろー、これ」

「え、あ、はい、あの……はい、あったかいです」


 言葉を紡いでも意味は無いと思った。アベルはのらりくらりと自分のペースを乱さない。驚かせてやろうと思っていたのに、何をやっても無駄らしい。

 二人で入っても十分に足を伸ばせる浴槽で、アベルとザクロは背中合わせで体を暖めた。


「なんか、今日の湯は熱いなぁ……たまにいたずらされるんだよ。ボイラーがおかしいのかな……」

「え?……へへ、そうですか?」


 恥ずかしいのか、とザクロがにやりと笑った。

 壮絶な空気の読めない具合を披露されたが、さすがに女と二人で風呂に入るのは意識してしまうらしい。

 自分も他人のことは言えないが、どうやらアベルは体が火照って……


「……いや、熱い、熱い熱い! やば! 熱っ!」

「え、大丈夫ですか、アベルさ――」


 アベルは辛抱溜まらず浴槽を飛び出した。半宙返りのような有様で飛び出した。

 慌てて振り返ったザクロの瞳に、信じられない光景が飛び込んだ。

 じゃがいもだ。じゃがいもが横っ面に迫っていた。今朝シチューを作る際に切った、長く巨大なじゃがいもの如き肉塊が、ザクロの眼前に迫っていた。まさしく肉迫である。

 世界の全てがスローモーションになった気がした。とにかく避けねば……ザクロは考えるのではなく感じた。

 これに触れてはならない。これは恐らく……恐らくアベルの体で一番触れてはいけない場所かもしれない。

 首を思い切りそらす。目と鼻の先、ザクロの長いまつげに触れるかという距離を、じゃがいもが駆け抜けていった。

 アベルは自分のじゃがいもがうら若き少女の頬をあわや打ち鳴らすところだったなど気付きもせずにのたうち回り、目にも止まらぬ速さでボイラー室に駆け込んでいってしまった。


「オラァてめえら熱いって、あれ、逃げられたかチクショー!」

「……あ……アベルさんの……じゃ、じゃが、いも……」


 ザクロは浴槽の淵を掴んで、呆然と固まっていた。


*


 そうこうしているうちに、夜も随分更けてしまった。夜空では星がまたたき、月は帰路についている。

 コワルスキーが赤ら顔で帰って来た。

 酒臭い息を振りまき散らし、しゃっくり混じりで呼吸する。


「帰ったぞー…………」


 アベルもザクロも返事をしない。

 いったいどこへ行ってしまったのかと、アベルの部屋の扉をそうっと開けた。


「んー……フム。さぞ楽しかったんじゃろうの……」


 半開きの目で納得したように頷いた。

 アベルは今までザクロにベッドを譲っていたが、今日はどちらもベッドで寝ていない。

 ベッドにもたれかかり座って眠るザクロと、その膝の上で寝息を立てるアベル。周りにはたくさんの本と写真が散乱していた。ザクロの手はアベルの頭の上に優しく添えられている。

 アベルの幸せそうな顔を見ていると、コワルスキーも自然と笑みがこぼれた。

 苦しそうな姿勢で寝てはいるが、ここで起こすのも野暮というものだろう。点けっぱなしのランプを注意するのも明日の朝だ。コワルスキーはランプを消して、ゆっくりと扉を閉めた。


「まったく、幸せ者め……」


 ザクロの恩返しは、どうやらうまくいったらしい。

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