第十話。暴走機関車。

 乗客たちは縮み上がっている。

 そうこうしているうちにも汽車の速度が上がっていく。アベルは左腕を捻って手首を天に向けた。

 圧力計を確認する。残量半分。元々あの熱蒸気噴射は攻撃手段ではない。

 大きな衝撃を外から受けてタンクが凹めば損傷個所が弾けて左腕が爆発し、破片で重症を負ってしまう。それを防ぐための排出孔に過ぎない。

 タンクの炸裂を防ぐための蒸気排出孔を、アベルの注文で敵の方向に向けやすいよう改造しただけだ。

 指を動かすだけでも圧力を消費する。もう体を浮かせるような蒸気を吐き出すことはできないだろう。

 もう、あまり時間スチームは残っていない。

 アベルは客車を駆け抜けた。

 蒸気機関車は先頭から、ボイラー、運転室、炭水車、そして客車と繋がっている。

 客車は、切り離された最後車両を合わせて四つだった。アベルの現在地は前から三つ目、三番車両にいる。

 この車両に敵はなかった。怯える乗客を無視してそのまま走り抜け、炭水車に辿り着く。


 炭水車とは、水と石炭を乗せる機関車の貯蔵室のようなものだ。蒸気機関車によってはこの炭水車が無かったりするが、国門線の機関車には全て搭載されている。

 これまでの客車とは違い、乗客ではなく内部には水が満たされており、そして上には石炭がこれでもかと積まれている。

 アベルは客車を通過し連結部分を跨いで、炭水車の梯子に手を掛ける。

 カン、カンと音を立てて上り切ったところで、


「っつ!」


 視界の隅に現れた、固そうな革靴のつま先。

 なんとか反応できた。首を反らして乱暴な蹴り技を躱す。

 左腕に力を込めて、一気に梯子を飛び上がった。

 炭の山にスーツの女が立っていた。

 風が横から体を押している。このスピード、最早、暴走だ。


「ザクロはどこだ!」

「ボイラーに突っ込みました」

「……は?」

「冗句です」


 この状況でとんでもなく笑えない冗句を口にする、この女の気概にさすがのアベルも呆然とした。

 だが女は笑うこともなく、ただただ無表情でアベルを見ている。


「意味わかんねえこと言ってんじゃねえ!」


 女の懐に一気に飛び込む。女はアベルからじっと目を離さない。

 振り上げられた拳を上半身のスウェイで躱し、戦闘態勢に入ろうとした。

 が、足が沈んだ。女は足場を捉え切れていない。がくんとバランスを崩した。膝が曲がる。伸ばしても力は上方向ではなく、崩れる石炭に向かってしまう。底なし沼に足を突っ込んだように、ずぶずぶ沈んでしまう。

 身動きが取れない。

 アベルの右フックが脇腹に入った。

 唾液が飛び散る。

 アベルの拳にも全力は乗らなかった。いくらかの体重が石炭の沈降で中和されてしまう。

 顔が歪んだ女に、


「お前は痛いんだな!」


 切り裂きジャックのような不気味な不屈さは無い。

 殴れば止まる。


「なら、殴る!」


 追い打ちをかける。もう一度、右の拳が顔面を捉える。

 鼻血が吹き出した。左の拳を振り上げたとき、


「まさかこんなに戦い辛いとは」


 いつの間にか脇腹で構えられた小銃。

 銃口と目が合った。

 だが、撃たれたのは女のほうだった。

 急所は外れているが、銃を持っている方の肩を掠った。

 スーツが焼き切れ、血が数滴飛び散った。

 アベルが後ろを振り向くと、バイクビークルが一台、蒸気機関車に引き離されながらも見える範囲で食らいついている。

 いつの間に交代したのか、運転しているのはカレン=アップルヤード。

 そして後ろに座っているオーランド=ギャッツビーが、真鍮で装飾された派手な大口径リボルバーを両手で構えていた。

 オーランドは命中を確認するとのんきに万歳で喜んでいる。

 そして狙いすましてもう一度引き金を引いた。

 鉛玉は螺旋回転で空気を切り裂き、照準の先に迫った。急所を守るように腕を交差した。

 先ほどのかすり傷を更に抉った。


「ぐっ……!」


 アベルはその隙に女の顔面をもう一度殴りつける。完全にバランスを崩したところで力任せに押しのけた。

 踏み外した女は、切り裂きジャックと同じく、吹っ飛ぶように後方に流されていった。


「……無駄にしがみつかないで自分で飛びやがった」


 アベルは女の最後の動きを見逃さなかった。

 体勢を崩したまま炭水車に縋っても結局は落下し、最悪車輪に挽き殺される。

 それを避けるために自分で飛び降りて汽車から距離を取ってみせた。

 素人にできる判断ではない。

 あの状況で慌てず隠すように銃を取り出す冷静さといい、手練であるのは間違いない。

 もしも炭水車に出てこなければ、苦戦は必至だっただろう。


「ちょっと馬鹿でよかった……」


 しかし安心もしていられない。アベルはすぐさま炭水車を飛び降りて機関室に向かった。


「ザクロ!」


 猿ぐつわを嵌められたザクロは、足首と手首を縛られて、機関室の隅で転がっていた。機関士や、石炭をべる火夫も同様だ。

 ザクロはアベルを見て何かを呻き叫び、目をうるうると潤ませ始める。

 とにかくしゃがみ込んで、猿ぐつわを外してやった。


「アベルさん、どうして!」

「無事か、ザクロ!」


 涙を必死に堪えて歪むザクロの頭を、優しく撫でてやった。

 体温のある、右腕で。


「ど、どうして……」

「馬鹿だなザクロ、気球船で言ったろ。あいつらから逃げたいって」


 それを聞いて、ザクロの顔はさらに歪んだ。眉は垂れ落ち鼻は膨らみ、唇をいびつな形にして食いしばる。それを見てアベルが歯を見せる。

 ザクロの手足を縛っていたロープを解いてやると、アベルに飛びついた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、アベルさん……」


 謝るザクロの背中を撫で付ける。

 だが救出劇の息つく間も無く、ピンチは次々と襲いかかる。

 機関士たちが必至に呻いて、アベルを足で小突く。アベルが男たちの猿ぐつわを取ってやると、


「早くブレーキをかけないと駅をぶち抜く! 客車の連結を切り離せ! 二車両なら直通ブレーキで間に合う!」


 アベルが急いで拘束を解いてやると、蜘蛛の子を散らしたように機関士たちが飛び上がった。

 一人は炭水車を越え、一人はボイラーの圧力を抜く作業に取りかかり、そしてもう一人が蒸気分配箱のメーターを次々いじり始める。

 今や暴走蒸気機関車と化したこの汽車を止めなければ、国門駅をぶち抜き、客車の乗客だけでなく駅の中にいる人間も脱線した車両の下敷きになる。


「少年! 悪いが炭水車に上ってくれ! 俺の合図と同時に声を上げて連結部分にいるやつに中継してほしい!」

「わかった!」


 アベルもすぐにピンチを理解した。ザクロをその場に座らせる。梯子を駆け上がり、石炭に足を突っ込む。


「わ、私は! 私は何をすれば!」

「嬢ちゃん……そうだな、嬢ちゃんは、ブレーキレバーを引っ張るのを手伝ってくれ!」

「はい!」


 ザクロは副機関士とともに、ブレーキレバーを握った。


「蒸気ブレーキと同時に連結解除だ! 三! 二! 一……今だ!」

「今だ!」


 蒸気機関車全体が後ろに引っ張られるように揺れた。

 ブレーキ管の中の圧力を抜いた。管の中で張りつめていた蒸気が吹き出す。引っ張られた弁が全て開いた。ブレーキ・シリンダの中に空気が流れ込み、車輪に制動がかかる。

 火花が散った。

 だが一瞬のブレーキの後、すぐに汽車のスピードが上がる。連結が切り離されたのだ。

 後ろに質量を置き去りにしたため、軽くなった前方の物体のスピードが上がる。

 機関士はすかさずブレーキ弁を閉じた。車輪から制動力が消えた。


「お、おい! 大丈夫なのか!」


 アベルは連結を切り離した機関士に急かされながら炭水車を降りて機関室に帰ってきた。


「ずっとブレーキをかけたままだと車輪が滑って一巻の終わりだ!」


 運転手はレバーを操作して小刻みにブレーキを掛ける。

 直通管に蒸気を叩き込み、ブレーキ・シリンダに圧力を送り、抜き、送る。ブレーキの制動力が摩擦で生まれる粘着力を超えないように、見えない数字を観察し、予測し、黒い鉄の塊を操作する。

 副機関士も指示に従いザクロと一緒に減圧と加圧を繰り返す。

 機関士と副機関士のコンビネーションが鉄の竜の手綱を巧みに操る。

 駅が見えた。スピードはまだある。


「止まれ!」


 機関士がブレーキを操作する。圧力弁を開いた。気休めにもならない逆噴射さえにも縋り付く。

 ブレーキシリンダの中の空気圧を操り、限界まで制動を掛けて車輪が滑り始める直前で解放。何度も何度も、繰り返した。


「止まれ!」

「ザクロ、こっちに来い、任せよう!」


 アベルは機関室の手すりに体を固定してザクロを抱きかかえた。体の中で小さくなるザクロを、きつく抱きしめる。


「止まれぇ!」


 運転手が最後のブレーキを掛ける。

 車輪を回すピストン運動が制御され、抵抗が生まれる。食いしばった運転手のこめかみに青筋が浮いている。

 レバーを倒す手は力が籠って真っ白になった。

 駅の中に入る。終点の国門駅にはその次のレールが敷かれていない。火花が大きくなる。

 鼓膜が破れるかと思うほどの大音量と共に、車輪がレールに噛み付いた。

 壁にぶつかるその直前……蒸気機関車は、遂に沈黙した……


「す、すげえ……」


 アベルが顔を上げると、機関士たちが煤けた顔で大きく笑い、白い歯を見せて肩を叩き合っている。

 赤く目を晴らしたザクロは、しゃくり上げながらアベルの胸に縋る。

 ザクロの手を取って、ゆっくり立ち上がった。

 機関士たちに従って、蒸気機関車を降りる。


「ほら、おかえりザクロ」


 アベルが陽気に笑うのは、久しぶりだった。


*


 動かない切り裂きジャックの隣で、エリュシカは途方に暮れている。

 手入れされていない雑草の上に座っていると、尻がちくちくと痒くなってきた。

 日もそろそろ沈みそうだ。雑草を千切って投げて時間を潰すのにも限界がある。


「……ああ、あ?」


 切り裂きジャックは目をぱちりと開いたが、異変に気付いた。


「あれ、足が動かん」

「背骨が折れてますよ」

「そうか。背骨か、ついに背骨が折れたか。内臓も、まだ治っていないんだぜ。あーあ」

「どうするんですか。我々ミドルカッスルはあなたに金を払っているんですよ。私だって掛け算をまだ教えてもらっていない。無痛症のあなたを雇ったとき、動かなくなるまで働くということで契約したそうですが、我々が言う動かなくなるって、そういう意味じゃないんです」

「動かんものは仕方がない。逆立ちでもして戦うか」


 エリュシカは沈み行く夕日を眺める。


「やりますか、手術」

「そうだな。それしかねーだろ」

「作戦変えましょう。もう突撃です、突撃。腹が立ってきました。駆逐艦で行っても撃墜されると思うので、全総力を持って突撃。最悪、ゼタジュールを奪還した後にここを焼き払えば良い。アズマエビス機関はあの程度の熱には耐えられるはずですから、『山穿ち』は全部終わった後に焦土の中から探せば良い。結局どこにあるかわからないですが、あの御神体とかいうのがくさいので、とりあえずあそこを目指します」


 エリュシカは雑草を抜いて、ぱらぱらと切り裂きジャックの顔面に振りかけた。

 ジャックは抵抗しない……できないだけかもしれないが。


「どっちかが死ぬかもしれないし、どっちも死ぬかもしれませんが、そのときはそのときで。運良くどちらも生きていたら掛け算の勉強を始めましょう。まったく、私のような馬鹿な女にアズマエビス機関の奪取なんてミッションを課す上層部の趣向が理解できません。結局こうなってしまった。あのカルロスとかいう若い将軍、私のせいで怒られてしまえばいい。気付いてますか切り裂きジャック、今のところ、全部失敗ですよ。やることなすこと、一切合切」

「だな」

「あと、私たちのバイクビークル、やっぱり盗まれていました。見知らぬチンピラに。やってしまった。鍵をしていなかった。まさか盗まれるなんて」

「盗まれるやつはみんな言うんだよ、そうやって」


 反省しています、とエリュシカは立ち上がって、切り裂きジャックを担ぎ上げた。

 シルクハットが落ちたとぼやくジャックを無視して、歩き始めた。


「軽過ぎる。ちゃんと食べているんですか」

「飯を食うときよく舌を噛み切ってしまうんだよ。痛くないから気付かないが、それからしばらくは鉄の味しかしない」

「それは気の毒。治ると良いですね、無痛症」

「これから『手術』をする奴が、そんなこと言うかァ……」


 切り裂きジャックは愉快そうに笑った。

 痛みを感じる日が来ることは、死ぬまでないだろうと確信しながら。

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