第九話。追走疾駆。
ザクロの足取りは、東三番駅までは掴めた。
ジャックとエリュシカの二人組、どうやら逃げも隠れもしないらしい。
来るなら来い、ということだ。
ザクロ=ゼタジュールがよほど珍しい服を着ているため、目撃者は数えきれないほどいた。
アベルは伝手をフル動員して、街を駆け巡った。
ザクロの手がかりは東二番駅では拾うことはできなかった。
路線を変えていなければ、東三番駅の周辺にいるはずだ。空を飛ばずに国の外へ出るためには、各三番駅で一度降り、国門と呼ばれる壁の穴に向かう汽車に乗らなければならない。
さすがにミドルカッスルが気球船で派手にイルファーレに入ることは無いはずだ。アベルはそう踏んで、国門線の駅に走った。
近道を抜け袋小路の壁を煙突伝いに駆け上がり、壁を超えると駅の前の広場に着いた。
ここも飛行船の発着場になっている。
出発前の汽車が見えた。
走りながら駅員の手に適当な額の金を叩き付け、改札ゲートを飛び越えた。釣りを渡そうとする駅員を完全に無視して、汽笛を上げる蒸気機関車に飛び込んだ。
が、乗車口で、待ち伏せされていた。
黒いシルクハットを被った銀髪……切り裂きジャックだ。
「ははは! 来ると思ってたんだよなァ!」
突き出されたナイフをぎりぎりで躱したが、ジャックはアベルの胸ぐらを掴み上げて蹴り飛ばした。
アベルもただではやられない。蹴られた直後にジャックの袖を掴んだ。ぐいと引っぱり、共に蒸気機関車から転げ落ちる。
しかし汽車の出発は中止されなかった。
「畜生、あのエロ女か!」
騒ぎを見た構内の駅員が必死に出発を止めるよう指示を出していると言うのに、ボイラーの圧力が下がらないということは、脅迫でもされているのだろう。こうなると遂に外交問題にもつながってくるはずだが、ミドルカッスルはもはやなりふり構わずというわけだ。
蒸気機関車に食らいつこうと駆け出すアベルを、切り裂きジャックが邪魔をする。ナイフを構えて立ちはだかって、近づけさせない。
「クソ、どけ!」
「おいおい、つれないな、遊ぼうぜ! 探しものは時間がかかった上に見つからなかったし、バイクビークルが盗まれて散々だったんだ! せめて楽しませてくれよ!」
「邪魔だぁ!」
切り裂きジャックは背中の蒸気機関車のスピードが上がるまでここを防衛できれば良い。
それを理解した上で、アベルは飛び出し切り裂きジャックに肉迫した。
速い。
右のストレートの下に潜り込む。
ナイフを振り上げようとしたが、顔面の右側からの殺気。
鋼鉄の左腕が、こちらを向いていた。手首の下に、噴射口が見えた。
想定外だった。体を引き戻す。途端に、熱湯のような温度の何かが横っ面に降り掛かる。右腕は頭上。左腕は構えたまま。防ぎようが無い。
熱蒸気!
体勢を崩して転がりながら思考する。
あの噴射口は熱くなった蒸気の排出孔……ナイフ使いにとっては、銃弾よりもタチが悪いかもしれない。
放射状に拡散する空気の塊は、鉛玉よりも有効範囲が大きい。あの攻撃自体に殺傷能力は無いだろうが、しかし蒸気機関の熱蒸気というのはなかなかシャレにならない。
「良いねェ……そうじゃなくっちゃ、なァ!」
切り裂きジャックが走り出す。
アベルのリーチに入ると同時に、切り裂きジャックのリーチにもなった。ひゅひゅ、と耳元をナイフが掠める。
全て避けている。なんという動体視力。戦闘能力はかなり高い。
ただ、人間は目の構造上……目蓋の物理的距離により……左右の動きには強いが、比べて上下の動きにはめっぽう弱い。大きく上下に揺れるものを見るためには、
ジャックは右のナイフを下から振り上げた後、膝下に残した左腕を突き出した。避けられない。膝は伸び切っている。跳べない。
取った……笑ったのは、アベル=バルトネクのほうだった。
熱蒸気を地面に向かって炸裂させる。白い蒸気が手首から吹き出した。
少しの力をかければそれで良かった。膝は伸びきっているが、まだ足首は動く。足首で上方向への力を加えた。
ナイフが空を切る。熱蒸気の逆噴射。蒸気の勢いで宙返りをして切り裂きジャックを飛び越え背中を取った。
まさか、こんなことがと目を剥いた。
完全に背後を取られた。右腕はナイフを掲げたままで、左腕は空振りのエネルギーをまだ引き戻せない。
アベルは着地後すぐさま跳ね上がる。背中から服を鷲掴みにして前に押し、バランスを崩したところで後ろに思い切り引く。
体を揺さぶられて完全にがら空きになった切り裂きジャックの腹に、左の拳を突き出した。
ゼロ距離で熱蒸気が炸裂する。アベルが浮いたのと同じ原理で、切り裂きジャックの足がふわりと浮いた。
体重を乗せたアベルの足が、切り裂きジャックの腹に突き刺さる。
やがてホームから姿を消そうとした蒸気機関車の最後車両のドアに叩き付けられた。ごろごろと車両に転がり込んで視界が安定する頃には、アベルが飛び込んできていた。
全身全霊の跳び膝蹴りが鼻をへし折る。
吹っ飛びそうになる意識を必死に押しとどめる切り裂きジャックは、ひとまず逃げようと跳ね起きるが、またしても背中を掴まれアベルに引き戻される。
出鱈目に振ったナイフは当たらない。脳震盪だ。視界が歪んでいる。足元が定まらない。
なんとかアベルの大振りを躱すが、まぐれだと自分で分かっていた。次はよけきれない。
悲鳴を上げる乗客たちの間を、切り裂きジャックはつんのめりながら走る。やがて車両と車両の間の連絡通路に達した切り裂きジャックは、追いかけてくるアベルを見て笑った。
「まさか! やめろ!」
がちゃん、と無理矢理に連結を外された。アベルが乗った最後車両を残して汽車が離れていく。恐らくザクロが乗っているであろう車両が、ゆっくり遠ざかる……
焦って飛び込もうとするが、ジャックがまたしても邪魔をする。
「邪魔だ!」
焦るアベルの拳をかいくぐり、ナイフを突き出す。アベルはそのナイフを左手で弾き飛ばして、そのまま鋼鉄の義手で殴りつけた。切り裂きジャックは車両から投げ出され、吹き飛ぶように消えてしまう。
勝ち誇ったような笑い声だけが、最後まで聞こえてきた。
アベルは唇を噛んだ。
「あーやべ、どうすっかな……」
革袋を傾けて水を飲んだ。
キャプテン・オーランドはハンドルが反り返った真鍮色の蒸気機関二輪車に乗っている。
後ろにはカレン。オーランドの革袋を受け取ってコルクを詰めた。酒がまだ残っているのか、少し頬が赤い。眠そうだ。
二人は酒場を出た後、近くに頃合いの良さそうなバイクビークルがあったから乗り回して遊んでいた。
飽きたし高そうなバイクビークルだったため、もう返してやろうと国門線に立ち寄ったところ、赤毛の少年とシルクハットの男の取っ組み合いが始まっていたのだ。
赤毛の少年がシルクハットの男を吹き飛ばして、もつれ合うように汽車に乗ったところ、これは面白そうだとバイクビークルでそのまま駅に侵入し、線路沿いを走って追いかけていた。
すると汽車からシルクハットの男が投げ出され、もの凄い勢いで後方へと吹っ飛んでいった。
オーランドとカレンは見えなくなるまで男を見送って、
「汽車から落ちて笑ってたぜ……きちがいか?」
「きちがいだよ、こわ……」
まずいものを見てしまった……というふうな顔で視線を戻すと、連結を外された最後車両が眼前に迫っていた。
慌ててハンドルを切って躱す。するとどうだ、追い越しつつ見えてきた車両間の連絡通路で、歯痒そうに赤毛の少年が前の車両を睨みつけているではないか。
「よう少年、お見事!」
いきなり声を掛けてみたが、少年は冷静にオーランドたちを見つめる。
「おい、すいません、あんたたち! あちらに追いつけるか?」
赤毛の少年はめちゃくちゃな丁寧語で前方の車両を指差す。どんどんスピードが上がっているように見えるが……
「あと五分以内ならなあ! それより長引いたら加速に追いつけない! あと無理して丁寧な言葉を使うなよ、ワッハッハ!」
「頼む!」
「金は払うか?」
「払う!」
「幾らだ!」
「幾らなら良い?」
「そうだな……」
オーランドが顎に手を当てて、水屋の試算を思い出す。
「五万ドルほどもらおうか。イルファーレドルで良いぞ! 共通通貨にはこっちで替えてやるから」
「四万ならあるんだけど!」
「ハハハ! 本当かあ? 気に入った! 四万で手を打ってやるよ! 乗りやがれ、少年!」
オーランドがバイクビークルを蒸気機関車に近づける。
アベルはタイミングを合わせて飛び乗った。後ろに乗ったカレンの更に後ろ。踏み台に立つ形で安定する。
「俺はオーランド! オーランド=ギャッツビーだ! 後ろのはカレン=アップルヤード!」
「ありがとう! 俺はアベル=バルトネク! 助かった!」
オーランドが上げた左の拳を、アベルが軽く叩いて感謝を言う。
捕まってろよ、と叫んでアクセルを目一杯ひき絞る。
二つのエンジンのコンビネーションで凄まじいトルクを生み出す。
乗員が二人だろうが三人だろうが、関係無い。
加速を続ける蒸気機関車に、寸でのところで食らいつく。
「なんであの汽車を追ってんだ?」
「捕まってるんだ! ザクロっていう女の子が!」
「へえ! 女の子! 恋人か?」
「違う。でも、取り返さなきゃいけない」
「聞いたかよ、カレン! こいつは力になってやらないけねえ! なあもしかしてお前、駆逐艦に追われてたか? ミドルカッスルの」
「なんだ、知ってるのか?」
「ああ、見えたんだよ。んじゃ、敵はミドルカッスルか。こいつはのっぴきならねえな、わはは」
オーランドはアベルの左手を掴んだ。
「ん、義手か」
「そうだった!」
今の今までこの状況にも拘わらず眠りそうだったカレンの目がばっちり開かれる。
左側に伸びるアベルの義手に飛びついた。
「さっき蒸気を吐き出してたの、スロットルが別にあるわけじゃなくて制御するための圧力を使ってたの……とんでもないことする! でもあれだけ排出しても残量があるってことは、よっぽど優秀なタンクが詰まってるんだ……見たところ大きなボイラーがセットされている場所は無いみたいだし、チャージだけであれだけ溜め込めるなんて……神経との接続は? え、人工神経基盤! アベル少年だっけ、きみ本当にお金持ちか!」
「うるせえぞ、カレン! おい、離してやれ! アベル! 手ぇ届くか!?」
バイクビークルは唸りを上げて加速を続け、遂に蒸気機関車に追いついた。じわじわと近づいて、幅を寄せていく。
「線路近くは砂利でスピードが落ちる! タイミングは一瞬だぜ!」
「任せろ!」
バイクビークルが線路沿いの砂利を掴んだ。
ハンドルが乱暴に揺れる。アベルは蒸気機関車に最も接近した一瞬を見逃さない。
踏み台を蹴った。左手を精一杯伸ばし、客車の手すりを固く掴んだ。
「よし、やったぜ!」
「ありがとう、オーランド! さん!」
「良いって良いって、あとで金を受け取りにいくからな!」
大きな声で笑い声を上げるオーランドが少しずつ遠ざかっていく。
本当にぎりぎりだった。あと一息でも遅ければ、汽車の加速に追いつけずバイクビークルは徐々に離されていっただろう。
アベルはドアを蹴破って客車に飛び込む。怯えた様子の乗客たちの間を駆け抜けた。
きっとザクロは先頭車両にいる。
一緒にいる女が機関士に銃でも突きつけているはずだ。
「待ってろザクロ、もうすぐだ!」
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