第七話。守るために。

 アベルの左腕……人工神経基盤の再接続手術が終わった。

 曲がってしまっていた部品を取り替え、神経を繋ぎ直す。筋肉の隙間に入らないよう場所を微調整して、基盤を被せ、そして皮膚を縫い閉じた。保護のためのプロテクターをアベルの体に巻き付けて、処置は終わった。

 施術を終えた医者が帰ったあと、ザクロは寝息をたてるアベルの横に座った。

 体の中身を直接ボルトに圧迫される激痛から解放されたアベルは、昨日までとはうって変わって、安心したように安らかな顔で眠っていた。

 腫れが収まるまで熱は続くが、命に別状は無いとのことだ。

 アベルの部屋には、たくさんの写真と模型、そして本がある。

 そのほとんど全てが、国の外に関するものだった。気球船から始まる飛行装置の歴史や、伝説の蒸気機関技師が設計した世界一速い蒸気機関車……全てこの国の外に通じるもの。


 アベルはこの国で生まれた。他のスラムの大部分の子どもたちと同じく、物心つく頃には親はなく、ただ運よく生き延び続けただけだった。

 それもこれも、兄がいたおかげだと笑っていた。

 ずっと遠いところから来たというジン=バルトネクとサラ=バルトネクは、スラム街の医者をやっていて、アベルが五歳になった頃に出会った。

 アベルが事故で左腕を失ったとき、兄が必死に医者を探したのだ。

 とにかく血を止めた後、ジン=バルトネクは躊躇いもなく自分の左腕の分解を始めた。

 サラに頼んで、自分の肩に埋め込まれた人工神経基盤を切除し、アベルの肩に合うよう加工して取り付けた。

 電気技術を使った義手など、街でもほとんど手に入らない。

 特別緻密で特別精巧な技術の結晶を手に入れた自身の故郷のことを、ジンは決して喋ろうとはしなかった。

 死に目に合うことはできなかった。コワルスキーが言うには、誰かに殺されたらしかった。両親の死と同時に姿を眩ました兄とは、まだ再会できていない。

 もうイルファーレにはいないと思う、アベルはそう言っていた。 

 兄を探すためにも、いつかイルファーレの外に出たいんだ、と続けた。

 ――外の世界を見たいんだ。

 そう言って笑うアベルは、壁に掛かってある金色のメダルの束を指差した。地下闘技大会の優勝メダル。もちろん鋳鉄に真鍮を塗っただけのハリボテだ。

 アベルは外に出るためのお金を、地下闘技大会で稼いでいる。いつか自分専用の飛行艇を買って、大煙突まで行く。それが目下の夢だった。

 あと十回は優勝しなければならないけど、と歯を見せて笑った。

 バルトネク夫妻に助けられた幼いアベルは、今のザクロと同じ気持ちだったのだろうか。


「アベルさん」


 聞こえないように呟く。自然と、生身の方の右手を握っていた。熱が出ているというのに、指先はザクロの手よりも冷たかった。


「私、どうしたら良いのかわからなくって……」


 言葉を紡ぎ出すと、我慢していた涙がぼろぼろこぼれ出す。


「どこの誰かもわからなくって、どこにいれば良いのかもわからなくって、なんて謝ればいいのかもわからなくって……」


 アベルの手に縋る力が強くなる。


「私、もう、ここから出た方が良いですよね……」


 涙を堪えるように、きつく目蓋を閉じた……

 ふと、スラムの外で、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 あの二人がまた来ている。あのときのように、誰かが怪我をしてしまうかもしれない。

 ザクロは深呼吸をして立ち上がる。アベルの手を離した。


 イルファーレ全体が、ある噂に飲み込まれていた。

 ――移動要塞国家ミドルカッスル。八本足の蒸気機関の旗を掲げる危険思想の軍事国家。そのエージェントがイルファーレに潜り込んでいる。この前の東七番駅の騒ぎもそのせいだ……

 根も葉も無い噂だが、東区スラムの人間にはこの上無い心当たりがあった。

 地下格闘技で無双を誇るアベル=バルトネクを討ち倒した二人組。

 そう、いま巨漢のビグルとスラムの人々の目の前にいる男女のことだ。


「剣呑だよなァ……今日は取引に来ただけなんだぜ……」


 シルクハットを深く被った切り裂きジャックは、至極面倒臭そうに提案する。


「あの少女を渡してくれたら、そのまま帰ってやるよ。あの少女を渡してくれないなら、一通り暴れた後に帰ってやる。おっかねえコワルスキーが駆けつけるまでな。それを毎日毎日、嫌がらせみたいに続けてやる」


 巨漢のビグルが真鍮製の膝に力を込めた。

 ピストンが収縮する。いつでも飛びかかれるような体勢を整えた。


「やるかァ? そうか、そうかァ……果たしてお前、何人守れる?」


 切り裂きジャックが腰を落として、ベルトから二振りのナイフを抜く。

 瞳孔が広がり、口が裂けたように吊り上がった。

 ビグルの筋肉が隆起する。義足の中の鉄管で作られた人工腱ピストンが減圧して収縮、きりきりと絞ったシリンダに蒸気を送り込む。

 いざ、というとき――


「行きます!」


 家を飛び出したザクロが叫ぶ。

 後ろにいるコワルスキーの制止を振り切って走り出した。


「嬢ちゃんを捕まえろ! ビグル!」


 駆ける少女の前にビグルが立ち塞がる。ザクロの二倍はあろうかという体で行く手を塞いだ。


「どうして……!」

「自分のせいだと思うなと、言ったろう!」

「違う、違います……!」


 ザクロがコワルスキーに叫んだ。


「違うんです、コワルスキーさん……私は、自分がどこの誰かもわからない、本当にザクロ=ゼタジュールなのかもわからない。それなのに、アベルさんはあんな怪我をして、コワルスキーさんも、ビグルさんも、ここの人たちも、みんな守ってくれた……。ミドルカッスルのひとたち! 私が行けば、一緒にここを出るんですよね? 約束は守りますよね?」

「ええ、約束いたします」

「……コワルスキーさん。アベルさんが怪我をしたのが…………私のせいじゃない、そうだとしても、そうだったとしても……私があのふたりについていけばみんなを守れる。だったら……みんなを守るために、私は行きます。アベルさんや皆さんが、私を守ってくれたみたいに。……優しい人たちが怪我するのを、もう見たくない……」


 アベルが怪我をしたのは自分のせいじゃない。

 それを言うことがどれほど辛いことなのか、理解できないわけがない。

 この数日で見たザクロの優しさと誠実さ。自分を守るためにナイフを突き立てられ、熱に苦しみ続けるアベルを看病してきたザクロが、それを口にするための覚悟の重さ。

 そしてこの状況、コワルスキーが攻撃を繰り出すよりも、ふたりがスラムの人々に攻撃を加えるほうが速そうなのは確かだ。

 せめてもう一人戦える者がいれば違ったかもしれないが、肝心のアベルは臥している。

 ザクロのことを考えて、ここは退くべきか……また少女の目の前で、誰かが重傷を負うことになりかねない。


「……退いてやれ、ビグル」

「…………」


 ビグルはコワルスキーと目を合わせたあと、無言で渋々と頷く。

 切り裂きジャックとエリュシカは真っすぐと歩いてきたザクロ=ゼタジュールを迎え入れた。

 エリュシカはザクロと共に歩いていき、切り裂きジャックはコワルスキーを睨んで笑った。


「切り裂きジャック……なぜお前がミドルカッスルとつるんでおる! お前は元々……」


 ナイフをベルトに収めて、シルクハットを被り直す。答える気は無い。そう言うようにコワルスキーを一瞥した。

 食いしばるスラムの人々に背を向けて歩き去る。

 ザクロ=ゼタジュールが振り返ることは、最後まで無かった。

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