第五話。掛け算も知らない。

 フィリップ=コワルスキーの肩までを覆ってしまう真鍮色のガントレット。

 何枚もの鉄の鱗が重なるような、刺々しいフォルム。それぞれの関節部分には逆噴射口が開いている。地面すれすれにまで達するガントレットの拳は固く握られていた。

 肩側から無数の小さな煙突が突き出し、僅かに蒸気を吹き出している。巨大な拳を固く握りしめ、コワルスキーは、眼力で切り裂きジャックとエリュシカを釘付けにする。


「へぇ……コワルスキー……なんで一等騎士のあいつが、こんなスラムにいるんだよ……どうやら激動の七年だったらしい」


 コワルスキーの青筋がぴくりと動いた。


「切り裂きジャック……まさかお前、切り裂きジャックか! どうして、戻ってきた!」


 コワルスキーは切り裂きジャックを見て目を見開く。

 はっとアベルを気遣ったが、完全にのびていた。


「知り合いなのですか、ジャック・ザ・リッパー」

「知り合いってほどでもねえよ……おい、コワルスキー、ザクロ=ゼタジュールを渡せ」

「その女、スラムにも来たぞ……ミドルカッスルの者らしいが、嬢ちゃんに何の用だ」

「あなたに言う必要はありません」

「そうか、わしがここで嬢ちゃんを渡す必要も無い」


 びりびりと空気が震えている。コワルスキーの背中にはザクロ、足元にはアベル。守るべきものが多過ぎる。

 戦闘になるとコワルスキーの圧倒的な劣勢状態。

 だが、


「勝てないだろうな」


 切り裂きジャックはエリュシカに聞こえるように呟いた。

 エリュシカは表情を変えず黙考している。


「あのご老人、そんなに手練なのですか」

「俺がイルファーレにいた七年前も全盛期はとっくに過ぎていたが、それでも弩級のジジイだった。しかも俺は大して強くない。あのじーさんには間違いなく勝てねえよ。その上お前は本来、近接戦闘型じゃなくて狙撃手だ。いくらなんでもこの状況では戦いたくない」


 切り裂きジャックは、口の中に鉄の味が広がっていることに気がついた。

 唾を吐き捨てると、案の定、真っ赤だ。


「どうやら少年にしてやられたらしい。肋骨が、内臓に刺さってやがる」

「動けない、ということですか」

「動かない方が良い、ということだ。おいおい見ろよあの剣幕、おっかねえっつーの……」

「……退きましょう。事態は深刻なようだ。ご老体、その少女がいったい何者なのか知っていての抵抗でしょうか」

「知らん」


 コワルスキーは依然切り裂きジャックとエリュシカを睨みつけながら、唸るような声で応える。ガントレットから蒸気が吹き出した。


「だが嬢ちゃんは貴様らを見て怯えておるし、なによりわしの可愛い可愛いクソ坊主がこんな有様。わしはこのまま貴様らを相手取っても良いが……その場合、努々、無事で帰れるとは思うなよ」


 逃げるぞ、と切り裂きジャックは踵を返した。とても内臓をやられているとは思えない俊敏な動きで、駅の出口に向かっていった。

 エリュシカはザクロを一瞥し、そしてジャックの後を追った。

 見えなくなったのを確認して、コワルスキーは肩の力を抜いた。筋肉の挙動に呼応して、ガントレットが圧力を逃がす。

 足元で気を失っているアベルを抱き寄せ、そして立ち尽くすザクロも大きなガントレットで引き寄せた。



 家に着いたらすぐにアベルをベッドに寝かせ、治療の準備を始めた。


「熱が引かんのう」


 人工神経基盤は、技術士が来るまでいじれない。

 沸かした湯をタオルに染み込ませ、ナイフが突き立てられた部分を優しく拭く。基盤と肉のちょうど境目に差し込まれたようで、あまり血は出ていない。つまり義肢の弱点を的確に突いた器用な一撃である。

 アベルは悪夢にうなされるように喘いでいた。

 アベルの首筋が、びくびくと痙攣を続けている。左肩の影響で、首の左半分の筋肉が引きつっているのだ。

 傍らで唇を噛み締めるザクロを見て、コワルスキーは口を開いた。


「自分のせいだと思ったらいかん」


 心の中を見透かしたようなコワルスキーの言葉に、顔を上げた。


「こいつは、こんなやつなんじゃ。どれくらい覚えておるのか知らんが、育ての親の真似ばかりしよる」

「育ての……」

「そう。こいつには本当の親がおらん。スラムの子どもの半分くらいがそうじゃ。珍しいことでもないよ。その育ての親というのが、医者のようなことをやっておってな。この坊主の肩に埋まっている人工神経基盤……電気技術エレキクスの賜物も、その父親が自分の義手を壊して取り付けてやったんじゃ」

「すごい人、なんですね……」


 にこりとコワルスキーが笑って振り向く。

 ザクロは心配そうに、呻くアベルを見つめている。


「……今日はもう遅いから眠りなさい。アベルのベッドを使うといい」


 コワルスキーはザクロを部屋へと案内する。

 ザクロは受け取ったぼろ切れのようなローブに着替えた。ベッドの淵に座り込み、溜め息をつく。酷く疲れているはずなのに、全く眠れそうにない。

 コワルスキーはああ言ってくれたが、今朝会ったばかりの自分のためにああなったアベルのことを思うと、とてつもない罪悪感に襲われるのだった……



 コワルスキーはアベルの隣に戻ってきた。

 ランプのツマミを回す。ツマミに合わせてガラスの内側の布が広がり、光が絞られる。


「あの娘の隣にいれば、外に出られるかもしれんのう、くそ坊主」


 ランプの中で火が揺れる。

 うなされるアベルの隣で、コワルスキーはグラスに水を注いだ。


「お前とお前の兄貴を拾って育てたあいつらも、随分と遠くから来たんじゃぞ。長い、長い旅をして。それはもう遠くからの」


 子どもに童話を話して聞かせるように、話を続けた。


「……切り裂きジャック、ミドルカッスル……とんでもないことが起きてしまったの……とりわけ切り裂きジャックは、お前の親の……」


 水を飲んだ。口を湿らす。

 慈しむような表情で、アベルを見た。

 乾いた、分厚く固い手のひらで、アベルの頭を撫でた。


「それにあの娘が着ていたローブの文様、間違いない……。ザクロを守れ、アベル。恐らくお前は、世界を見るべき人間なのだ」


*


 前後のゴムタイヤから伝わる振動を、懸架装置サスペンションが吸収する。

 大きく反り返ったハンドル。城下の街灯をそのまま取り付けたような大袈裟なライトが道を照らしている。マフラーから吐き出される蒸気が土埃と混ざり合う。

 水と微可燃鉱炭で動く二連エンジンは、さながら獣のようなうなり声を上げた。

 イルファーレのスラムから出て、蒸気機関二輪車バイクビークルに乗った切り裂きジャックとエリュシカは、真っすぐと森を突っ切っている。

 エリシュカは風になびく金髪を掻き上げた。耳のピアスが月に煌めく。


「一等騎士とは、何なのです」

「お前はこれから仕事をする国の事情くらい調べないのか」

「興味が、無いもので」


 後ろに座った切り裂きジャックは、帽子を押さえて風に耐えていた。

 エリュシカの無関心ぶりに呆れながらも、説明を始める。


「簡単に言えば強い兵隊だ」

「今回の目的はイルファーレ国王の暗殺ではありません。恐ろしい騎士団とは無縁そうですね」

「そのつもりだったが、早速コワルスキーの野郎に邪魔された!」

「確かに、あの老人は結構怖かった」


 エリュシカ=ルタロは、老人に睨まれて足が竦んだことを正直に話した。

 恐怖心を隠す類いのプライドは持っていないらしい。


「怖いのか」

「あなたも萎縮していたじゃないですか」

「俺は小物だからな。わかるか、俺は小物の悪党だ。俺は強い奴とは戦いたくない。だがお前がそんなことを言ってはいけないだろう、エリュシカ=ルタロ。お前は今回の作戦の指揮官だ」

「作戦というほどの大したものではないですし、指揮官というほど私は頭が良くない。あんまり言いたくないんですが、私、実は掛け算もできないんですよ」


 切り裂きジャックはそれを聞いて大声で笑った。

 内臓に肋骨が突き刺さっているとは思えないほど豪快に。

 エリュシカは悔しがる様子もなく、淡々とバイクビークルの運転を続ける。


「私は、飯を食い、排泄し、睡眠を取ること以外には、標的に照準を合わせて引き金を引く、それだけしか習っていませんから」

「全く狂っているぜ、お前の国は!」


 ドドド、と体を震わす蒸気圧エンジンに負けないように、大きな声で悪態をついた。


「で、どうするんだ」

「一度戻って体勢を整えます。ザクロ=ゼタジュールはあの国からは逃げないはずです。焦ることはないでしょう。例のパイルバンカー……『山穿(やまうが)ち』についての情報も集めなくてはなりませんし」


 森を疾駆するふたりは、体を打ちつける枝も地面から伝わる振動もものともせず、目的地まで真っすぐ進む。


「切り裂きジャック、お願いがあるんですが」

「なんだよ」

「この作戦が終わったら、私に掛け算を教えてください。掛け算ができれば、ものの速さを数字で表すことができると耳にしました」

「そうだな。ついでに割り算も知ってたら便利だぜ。距離と時間がわかれば速さを求められる」

「分数も知りたい」

「割り算のついでに教えるさ」


 ふたりは無表情で話ながら、宵闇を駆け抜けた。

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