第四話。切り裂きジャック現る。
たらふく飯を食ったふたりは、日も沈みかける頃に東五番駅に戻ってきた。
今にも汽笛を上げた蒸気機関車に飛び込んで、満腹の腹をなで下ろす。
その汽車の中で、ナイフの手入れをしている男がいた。
席は半分ほど埋まっている。アベルがあずかり知らぬ最後車両の一番後ろ。かりり、かりりと、金属を擦る音が僅かに響いていた。
シルクハットを目深に被り、白髪の間から刃を見つめている。夕日に照らされた光の雫が一筋、切っ先から根元へと走った。
満足そうに革のホルダーに収めると、二本目のナイフを取り出す。
黒い砥石で丁寧に刃を研いだ。
かりり、かりり、他の席に聞こえるかどうかの瀬戸際で、慎重に刃に力を与える。
「近頃物騒だなぁ……」
最後車両の別の席で、服を汚した
蒸気機関車は蒸気を撒いてスピードに乗り始める。
切り裂きジャックが戻ってきた。
ここ三日間ほどで流行っているうわさ話だ。七年前にイルファーレを混沌の渦に落とし入れた切り裂きジャック。
ある日を境にぱったり人が死ななくなって、報復でも受けて死んだか国を追われたのだろうという話に落ち着いていた。しかし昨今、その男が七年ぶりに帰ってきたと言うのだ。
「イルファーレの人間は、相変わらずうわさ話が好きだなァ……七年前から変わらない……」
ナイフを研ぐ男は、病的にやつれた頬を歪ませた。
何が可笑しいのか、口を押さえて笑いを堪える。それでも、くふふと噛み殺した声が漏れてしまう。
何やら不穏な空気が漂う車両とは別の車両で、ザクロは興奮して手をぶんぶん振っていた。
「アベルさん、アベルさん! 御神体が見えるほうに座りましょう!」
「じゃ、あっちだな」
アベルはお菓子とビンに入ったジュースを抱えて、席を移動する。向かい合う配置の椅子で、ザクロは窓に張り付いた。
「すごい、夕焼け! 奇麗ですね……牢屋の中では見えなくて……あっ、あれはなに?」
ぱたぱた手を振るザクロが指差すのは、大煙突だ。
黒い鉄の棒……この距離では糸のように見える……が、まるで天空を突き刺すように伸びている。遥か彼方、ここから十数万キロメートル先にある世界の中心。
「あれは『大煙突』だな。世界の中心にあるって言われてる」
「大煙突……何のためにあるんでしょう?」
「みんなわからない。きっと御神体よりも古いものかも」
「……行ってみたい」
ザクロはぼうと大煙突を見つめていた。
沈み行く夕日が作る大煙突の影は、どれくらい長いのだろう。どこまで至るのだろう。
「いつ頃、ミドルカッスルで目が覚めたんだ?」
「うーん……十日前くらいでしょうか」
「最近だな!」
思ったよりも最近だった。
「十日分の記憶しかないのか?」
「はっきり覚えてるのは、そうですね……でも、もっと前のことも、朧げながらは、覚えてます。ずっと代わり映えしない、石の壁に囲まれていました」
ザクロの顔が夕陽を受けてオレンジ色に染まった。
遂に日が沈もうとしている。
「こんな色は、無かった……奇麗な……赤、いろ――」
後方の車両から、女の絶叫が聞こえた。
ばっと振り向いたザクロと、既に反応しているアベル。アベルはザクロの顔に手のひらを向け、動くなと合図を送っていた。
「伏せて、隠れて」
アベルの目が、気球船に乗っていたときと同じものになった。
一瞬たりとも目をそらさないと言わんばかりに、車両間の連絡通路を見つめていた。絶叫がいくつも上がり、そして次々に途絶える。
左手の駆動を確認した。
握って、開いて、握って、開く。手首を回して、肩の可動範囲を確かめる。
「ザクロ、ここにいて」
言い残し、アベルが駆け出した。
ザクロは言われた通りに、椅子にしがみつくように隠れた。
連絡通路に繋がるドア。その横に張り付いたアベルは、そうっと扉の窓を覗く。
見えたのはシルクハットの男。武器を持っている。二振りのナイフだ。真黒いロングローブに、そしてシルクハット。
気味の悪い格好だ。
……目が合った。
「……!」
素人の目ではない!
隠れるのは無理だ。完全に出遅れた。準備をしているヒマはない。アベルはドアを蹴破った。
椅子にもたれかかる婦人。床は血に濡れていた。
シルクハットの男はナイフを構える。
「切り裂きジャックだ!」
車両の隅にいた髭の中年が叫んでもたつきつつもピストルを構える。しかし切り裂きジャックと呼ばれた男が振り返ることもなくナイフを投擲すると、どかん、と冗談のような音を立てて中年の額を裂いて頭蓋を貫いた。
見ないで投げた。
アベルが目を剥く。牽制をしながらジャックは身を翻し、頭を突いたナイフを回収した。
強い。とんでもなく強い。
アベルはその直感を素直に肯定した。ただ者では無い雰囲気は見ただけでわかったが、いざ対峙するとその殺気の禍々しさたるや。
リングの上で向けられる類いのものではない。
「なんだ、お前」
「……いま黙らせた男の言う通りさ」
「切り裂きジャック……確か十年くらい前のやつだろ。だとして、今さらどうしたんだよ」
「ちょっとヤボ用があってなァ……。少年、ザクロ=ゼタジュールという少女を知らないか」
その名前が出てくるとは思わなかった。
「知っている顔だなァ……良いぞ、少年。嘘をつけないことは良い事だ。その愚直さは誇れるものだ」
「……ザクロをどうするつもりだ」
「生きたまま持ってこいと、頼まれているんだよ」
「ミドルカッスルか?」
「ご名答!」
『切り裂きジャック』がナイフを構えた。アベルは警戒する。
瞬きはできない。ナイフは一瞬でアベルの心臓に迫るはずだ。
見落としてはいけない。全ての動きを捉えてみせる。
ひゅ、と空気が切り裂かれる音がした。
首を反らして避ける。狙いはいきなりの急所。だが決して大振りではない。
ジャブを打つように、トドメを狙ってくる。心臓、腹、頭、首。人間を一撃で沈めるための攻撃を、出し惜しみなく繰り出してきた。
息が詰まる。呼吸などしているヒマが無い。軽いフットワークにも限界がある。
違う。リングとは違う。
いつまで経っても、自分の攻勢機会が訪れない。
巨漢のビグルを沈めるどころの話ではない。
「ハァッ!」
肺に貯まった古い空気を吐き出した。刺突の間をかいくぐり、ブーツで切り裂きジャックの腹を蹴り押した。
その反動を利用して、アベルは後ろ向きに宙返りをして距離を取った。すかさずザクロに駆け寄り、手を引いた。
何も言わずに走り出す。殺気を感じた。振り向き様に左手を掲げる。アベルの顔面を狙った投げナイフを、義手でなんとか弾き飛ばした。ドカン、とまたしても大きな音を立てて壁に突き刺さった。左腕を弾かれてつんのめりながらも、体勢を立て直す。
男の額を貫いたときもそうだった。
このナイフ、とんでもなく重いのだ。
しびれる左手の感覚を無視して、アベルとザクロは客車を飛び出す。
貴族用の一番車両には誰もいなかった。
「ザクロ! この先に運転席がある! そこに行って状況を説明して!」
「じょ、状況!?」
「中に殺人鬼がいるって!」
アベルはまくし立てるように言って、駆け出した。
「凄いな少年、足は竦まないのか」
ナイフを拾った切り裂きジャックが口角を上げた。
アベルの背中で鳥肌が立つ。
だが、食いしばって恐怖をねじ伏せた。この後ろにはザクロがいる。
一歩も退けない。一歩でも前へ。
左足を浅く踏み込む。右は深く踏み込む。歩幅を急激に変えて、ナイフの振りに迷いを誘う。
右手の刺突がぴくりと止まった。アベルは左側からかいくぐる。絨毯を強く踏みつける。地面を掴む感覚。右足首の腱に凄まじい負荷がかかった。体重を乗せた拳を、打ち抜く。
切り裂きジャックの肋骨に拳がめり込んだ。そのタイミングで汽笛が鳴った。駅に警報を伝えている。
打ち抜いた拳には確かな感触があった。あばら骨を折れば、動きは鈍くなる――はずだった。
しかし切り裂きジャックは全くもって気にしていない。この男、まるで痛みを感じていないとでも言うように。
刃が煌めく。
素早いステップで距離を取ろうとしたアベルへのダメ押し。切っ先は真っすぐアベルの心臓に向かう。
身を捻って、左腕を滑り込ませた。
鉄が鳴り合う。火花が散った。
蒸気機関車は最終ホーム、東七番駅に差し掛かった。車輪に急制動がかかる。
バランスを崩したアベルが呻き声を上げながらナイフを振り払った。
ちょうど鉄の継ぎ目に突き刺さった。感圧機が故障した。無いはずの左腕から、鈍い痛みが伝わってくる。冷や汗が伝う。
肋骨は折った。確実にへし折った。
なのになぜ、どうして、切り裂きジャックは笑っている?
完全に汽車が止まった。ホームに人はいない。警報が届いて、避難したようだ。警察が来るまでは、もう少し時間がかかる。
アベルが踵を返して走り出した。客車のドアを勢い良く開いて、怯えているザクロの手を取り飛び降りる。機関士たちが何か声を上げていたが、聞こえない。
反対側のホームにいた女と目が合った。
黒いスーツに黒い手袋、短く切った金髪。鋭い目が見開かれる。直感した……敵だ。
「走れ、ザクロ!」
「まぁ待てよ」
いつの間にか、先回りされている。
シルクハットの切り裂きジャック。やつれた銀髪、窪んだ眼窩。
左手のナイフが振り下ろされた。アベルは義手で受け止める。
しかし横から襲いかかった唐突な鉄拳までは防ぐことができなかった。先ほどのスーツの女だ。この女も随分と速い。アベルは思い切り頬に拳を喰らい、三、四歩分ほど吹き飛んだ。女の手袋に薄い鉄板が仕込んであるらしい。
「アベルさん!」
アベルの手を離れてしまったザクロが声を裏返して叫ぶ。
切り裂きジャックがザクロの頭を掴もうと手を伸ばした。
「させるかぁ!」
アベルが跳ね起き、義手のエネルギーを全開にして切り裂きジャックの腕を殴りつける。ぎりぎりのところでザクロから手を引いた。
切り裂きジャックは驚いた風に、アベルを見た。
「そういえば義手での攻撃は今のが初めてだ。てっきりそいつでは殴れないのかと思ってたぜ」
ザクロを奪還されながらも、切り裂きジャックは呑気に呟く。
「へェ……少年、本気を出していなかったというわけか」
アベルは何も言わなかった。鼻の穴から鼻血が垂れ落ちるのを感じた。先ほどのパンチのせいだ。
切り裂きジャックとスーツの女はどうやら知り合いのようで、加えてどうやら仲間のようだ。
故障した左腕の痛みを無視して、戦闘態勢に入る。ザクロを庇うようにして拳を構えた。
「ここで捕まえるのか、エリュシカ」
「当たり前のことを聞かないでください、ジャック・ザ・リッパー。今の我々の任務は、ザクロ=ゼタジュールの奪還」
アベルは女を指差した。
「ザクロはそっちに行きたくないんだってよ、エロシカ!」
「道具に、意思など、求めていません。そして私の名前はエリュシカ。エロではない」
女が走り出す。もう二度とあの拳は喰らいたくない。アベルも腰を落とした。エリュシカのパンチは風を切るようなスピードだ。
どいつもこいつもただ者じゃない。歯を食いしばった。
ジャブの真下に潜り込み、懐を捕捉する。攻撃を放とうと踏み込むが――駄目だ、切り裂きジャックが待ち構えていた。
身をよじったエリュシカの後ろから、間髪入れずにナイフが飛び出す。フットワークで左に躱すが、エリュシカの懐を逃してしまった。
舌打ちしたアベルに、今度は切り裂きジャックが肉迫した。
下から突き上げられたナイフは、顎の裏を狙ってきた。首を思い切り反り返し、なんとか避ける。ナイフが顎先を掠めて虚空を掻っ切った。
「うまく避けるなァ!」
右のナイフは天空を向いている。この好機を見逃す訳にはいかない。
さっき折ったあばら骨で殺してやる!
思い切り突き出した拳が再び脇腹を抉る。先ほどへし折ったあばら骨の砕けた先端を、内臓に突き刺してやった。
これで絶対動けないはず、だった。そう思ってしまったのが、アベル=バルトネクの敗因となった。
あろうことか切り裂きジャックは健在。重たいナイフがアベルの左肩に突き立てられる。
義手と肉体の繋ぎ目、いまアベルの体で脳の次に精密な場所、人工神経基盤と神経の接合面に、無作法な刃が侵入した。
視界が弾けた。
喉が震える。全身が引きつった。膝から崩れ落ちた。痛みではなく衝撃だ。
やっと、叫ぶことを許された。
「ぎゃ、ああああああああああ!」
右手で左肩を抱きしめる。動けない。わからない。状況が飲み込めない。よだれが散るのは知覚した。
脳みそを直接掘り出されるような出鱈目な痛み。
耳元でザクロの声がした。アベルさん、アベルさん! 聞こえても、反応などできるはずがない。
逃げろザクロ。
駄目だ、言葉が出ない。のど元で待ち伏せしている悲鳴に上書きされてしまう。
ザクロ、ザクロ、ここから離れろ。それを言いたいだけなのに。まだ意識があるうちに……
だが、ふたりの足は途中で止まった。
何かを見ているようだ。
アベルの、滲み薄れ行く視界にもそれは見えた。
白い髪に白い髭。
そこにいたのは真鍮色の大きなガントレットを両腕に装備した、鬼の形相のフィリップ=コワルスキー……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます