第二話。ボーイ・メット・ガール。

「豪快なことするなあ、いったいどこから飛び降りた?」


 アベルはゴンドラ型の操舵室から身を乗り出して遠くを見渡す。

 地面に何らかの飛行船の影が張り付いていないか探してみるが、背の高い木々が生い茂る森が広がっているせいで、影を見つけるのは至難の業である。

 遥か彼方に大地から聳え立つ『大煙突』は視界に入るが、アベルの位置より高い高度にあるものはそれ以外なにも見つからない。

 フゥン? と首を傾げていると、


「あの、本当に、ありが、ありがどうございまじだぁぁ」


 アベルの足元で少女が崩れ落ちている。

 長い金髪が風でのたうち回る。この少女、先ほどからお礼しか言っていない。


「落ち、落ち、落ちてっ、落ちて死ぬところでしたぁぁ」

「そうだなぁ」


 落ちて死ぬという生温い表現では済まないほどのダイナミックな自由落下である。

 おーいおい、と絵に描いた号泣の様相を呈している少女の目線に合わせて、ニカリと笑った。

 少女はしゃくり上げながら、鼻水もずるずるの顔できょとんとアベルを見る。


「良かったなぁ、生きてて」

「ざ、ざ、ザクロです……ザクロ=ゼタジュール……です……ザクロと言います……ありがとうございました、本当に……」


 地獄を見てきたとでも言わん限りの憔悴ぶりだ。


「ザクロ!」


 真っ赤な瞳によく似合う名前だ、とアベルがザクロの顔を覗き込んだ。


「俺はアベル=バルトネク。あっちのじいちゃんは、フィリップ=コワルスキー」

「バルトネクさんに、コワルスキーさん……」


 アベルで良いよと手を振りながら、ザクロが置いた革袋をひょいと取り上げる。

 先ほどの集中で、喉が乾いていた。甘いぶどうで口を潤し、ゴンドラの床にぺたりと座った。

 気球船の高度を安定させたフィリップ=コワルスキーが振り向いて、


「無事で良かったなあ、お嬢ちゃん」

「は、はい! ありがとうございます、コワルスキーさん!」


 ぺこぺことお礼をするザクロに微笑みかける。

 白髪と白髭。恰幅のある体型や目尻に刻まれた皺、柔らかい形の眉毛が、とても優しそうな好々爺らしい印象を与えていた……が、その眉がみるみる吊り上がり、皺が影を落として目が開かれる。

 フィリップは、ひぃぃと後ずさるザクロではなく、呑気に単眼鏡で空を眺めるアベルを睨んだ。


「アベル! お前はもうちょっと命を大事にせんかい!」

「大事にって、別に俺は死のうとしてたわけじゃないって」

「無茶をするなと言っておるんじゃ、馬鹿たれが……」

「……ん? おいじいちゃん、何か来た。こっちに向かってるぞ!」


 単眼鏡を伸ばして倍率を上げる。

 コワルスキーも渋々と双眼鏡を取り出して、アベルが見る方向に合わせた。


「じいちゃん、あれは落ちてないし、女の子じゃない」

「よし、逃げるぞ!」


 コワルスキーはまたしてもエンジンのレバーを倒した。先ほどの稼働で、まだボイラーに熱が籠っている。火力計が右に振り切れるのは早かった。ボイラーの灼熱で水蒸気を圧力炉に叩き込んでいく。圧力計がぐんぐん上がる。ハッチを解放し、急発進の準備に取りかかる。

 気づけばスラムからかなり離れてしまっていた。


「備えろ! 二! 一! 全開!」


 コワルスキーが圧力炉を開いた。爆発寸前まで溜まっていた水蒸気が、気圧が低い方向に一気に吹き出す。二基の噴射口から推進力が炸裂し、気球船は凄まじい速度で前進した。

 襲いかかる暴風に目を開けられなくなったザクロは、それでも前を見ようとしているのか、唇はめくれ上がるわ白目を剥くわでせっかくの可愛い顔が酷い有様だ。

 アベルが単眼鏡で謎の飛影を追う。爆発的な加速力ではこちらが上のようだが、連続的な速度では劣るようだ。グッと引き離したものの、だんだんと距離が拮抗してきた。


「うーん! 追いつかれるなぁ! ってことはやっぱり俺たちを追ってるのか! なんか悪いことしたか、じいちゃん!」

「お前が馬鹿ばっかやっとるから、遂に死神が追いついたんじゃ!」

「死神かあ! 強いのかなあ!」


 アベルは立ち上がった。服が暴風にはためく。

 単眼鏡で敵影を確認。蒸気機関式スチムライズド小型飛行駆逐艦ミニデストロイヤだ。二人乗りの蒸気機関二輪車バイクビークルを少し大きくした程度で、操縦者は半球状のガラスの風防にすっぽり収まって、腹に隠された機銃を乱射することができる。

 要するに、武装艦。


「赤い軍服を着ているぜ。じいちゃん、なにか心当たりはないのか?」


 赤い軍服、と聞いて、座り込んでいたザクロの表情が変わった。


「た、たぶん、私です、追われてるの、私だと思います……」

「まあそりゃそうだろうなあ」

「え!?」


 当たり前のように振り返ったアベルに、ザクロは思わず仰け反った。

 コワルスキーは加速に夢中になってこちらをまったく気にしていない。


「……あいつらたぶん、ミドルカッスルの連中だなあ。じゃあさ、細かいことは後からでいいから、これだけ教えてくれよ。余計なことは言わなくて良い。正直に、ハイかイイエで答えてくれ」


 アベル=バルトネクは振り返ってザクロ=ゼタジュールを見た。

 真っすぐと、ザクロを見つめて尋ねた。


「あいつらから、逃げたいか?」


 ザクロの涙が、止まった。

 なぜだかわからない。ただ、目の前の少年が、風を起こしているような気がした。

 強くて、乱暴に髪を踊らせる、けれどもどこか温かくって、そして優しい風。

 ザクロ=ゼタジュールは小さな拳を握りしめる。アベルの青い瞳を見つめ返した。

 もう世界は、滲んでいない。


「はい!」


 ザクロの元気の良い返事に満足したのか、アベルは笑って歯を見せた。

 本当にあどけない笑顔だ。気球船の気嚢から飛び降りて少女を助けるような大胆なことをするようには見えないが、だがこの底の見えない少年的な性格が、勇気の源となっているのだろう。

 老練フィリップ=コワルスキーは火力と圧力を上手に操り、推進力を細かく分散させることで不規則な動きを作り出し、敵の接近を防いでいた。


「じいちゃん、あれを使おう」

「ああ、ロケットエンジンか」


 アベルはゴンドラの縁に足を掛け、小型駆逐艦を駆る兵士に呼びかける。


「おーい、あんた! 俺たちになにか用か?」


 駆逐艦は完全に気球船と並走するまでは追いついていた。ただここからが難しいのだ。

 空中で白兵戦はほぼ不可能だ。余程の練度が無い限り、疾駆する浮遊船に横着けなどできはしない。

 普通なら銃撃が始まる頃だが、彼奴らの狙いはザクロ=ゼタジュール。弾丸を気球に当ててしまって大爆発、という事態は避けたいはずだ。

 そうなるとこの距離、駆逐艦も間違いなく巻き添えだ。


「我々はミドルカッスルの者だ! その娘は我々の所有物! 返してもらうぞ!」

「うぇ、所有物だってよ」


 アベルは笑って挑発した。

 一方、操舵席に座るコワルスキーの顔には、あまり余裕が無い。

 赤い軍服……アベルの言う通り、ミドルカッスルの軍人だ。

 移動要塞国家ミドルカッスル。

 国土であると主張する巨大要塞は蒸気機関を使って動くため、とてつもない量の燃料を消費する。

 ここイルファーレほどの影響力を持った国は例外だとしても、小さい辺境諸国が通り道にあるならば、ミドルカッスルは燃料の強奪だって厭わない。

 仲良くしたい連中ではない。

 だが、それゆえに、悪逆非道のミドルカッスルに追われているというこの少女ザクロ=ゼタジュールを渡すわけにはいかなかった。

 イルファーレの領空までもう少し。ぎりぎり逃げ切れるかどうか、際どいところだ。


「ザクロ、ちゃんと捕まってろよ。おい、いいぞ、じいちゃん!」

「なにがいいぞだ、全然よくないわ、くそ坊主……ロケットエンジンはガスを大量に……」

「じゃあな、軍人さん。ザクロを渡すつもりはねーよ!」


 コワルスキーがレバーを倒した。

 蒸気排出孔がすぼまったと思うと、爆発音が轟いた。

 気球船とは思えない速度で猛進し、あっという間に駆逐艦を引き離す。

 置いていかれた敵に手を振るアベルと、溜め息をつくコワルスキー。

 そして腰を抜かして座り込むザクロを乗せた気球船は、イルファーレに向けて、ゆっくりと高度を下げ始めた。


「見ろよ、じいちゃん、死神を振り切ってやったぜ」


*


「んんー、なんか見えたな」


 アベルたちの遥か後方。低空を飛ぶ飛行艇の甲板で、男が口元を拭いながら呟いた。

 双眼鏡を片手に、空になった革袋を机に置いて、代わりに満タンに水が充填された革袋を取り上げる。

 よく水を飲む男だ。

 左目には真っ黒な眼帯が被せられている。派手な刀傷は眼帯に収まりきっておらず、額と頬にかけてしっかりと走っていた。


「カンクロウ、ちょいとスピードを落とせ」


 伝声管で機関室に指令を下す。

 男はブーツで甲板を踏みしめた。

 ニスが丁寧に塗込まれた美しい木目の甲板の上を風が凪ぐ。

 中型のガレー船。船底近くから無数のオールが突き出し、まるで百足虫ムカデが歩くように蠢いている。帆は畳まずに、風を目一杯にはらんでいた。

 男は先ほどとは別の伝声管を握る。

 いざ、口を開こうとしたが、


「オーランド! 燃料が切れるから、オールは止めるよ!」


 船底につながる階段から出てきた女が、煤だらけの顔で叫んだ。

 右手に握っている布も黒ずんで、石炭を扱う作業をこなしているのが見て取れた。

 黒髪の男はオーランドと呼ばれた。


「お前に任せるよ、カレン」


 オーランドの答えに、カレンと呼ばれた女はひらひらと手を振って船内に消える。

 今度こそ、オーランドは見張り台の上に繋がる伝声管を握った。


「何か見えたか、リーフィ」


 真鍮色の伝声管が震え、オーランドの声を見張り台の頂上へと伝えた。

 見張り台には女が立っていた。燃えるような赤髪を後ろで縛った、実直そうな目をした女だ。身長が高く、引き締まったボディラインを魅せつけるような、ぴったりとしたワンピースを着ている。スカート部分には、煽情的な深いスリットが入っていた。

 リーフィと呼ばれた女は、伝声管の呼びかけに応える。


「小型の改造カスタム気球船ツェッペリンと、あれはたぶん……ミドルカッスルの超小型高速駆逐艦ミニデストロイヤだな。武器は収めているが、もめ事のようだ、キャプテン」

「ミドルカッスル? なんでまた火の国のこんな近くにいるんだよ。最近どこにでもいるな、あいつら」


 キャプテン・オーランドは、頭をぼりぼりと掻きむしる。革袋を傾け水を飲んだ。

 移動要塞国ミドルカッスル。八本足の蒸気機関で歩き回ると言われている軍事国家。空族として世界各地を渡り歩いていれば何度も目にすることがある。


「しがない空族でも、できればお近づきにはなりたくない相手だぜ」


 リーフィは双眼鏡を再び覗き、目的地付近に浮くふたつの飛影を確認する。


「……キャプテン、気球船が振り切った」

「マジかよ! 超小型高速駆逐艦ミニデスを振り切る気球船ツェップって、めちゃくちゃだな、オイ! さすがは工業大国イルファーレってところかあ」


 気球船が信じられないほど急加速して距離を稼いだ。

 どれだけ急いでも、駆逐艦が追いつくころには気球船はイルファーレの市街上空に達しているだろう。

 あの気球船の素性はわからないが、ミドルカッスルの駆逐艦が市街地に現れればイルファーレがさすがに黙っていない。

 このチェイス・レースは、気球船に軍配が上がったというわけだ。


「どうする、キャプテン。もしかしたら近くにミドルカッスルがいて、そして彼奴らの目的地もイルファーレなのかもしれない」

「かもなぁ」


 リーフィは双眼鏡を離さない。気球船の行方を見守った。予想通り市街地上空に向かうのを確認すると、次は駆逐艦だ。

 ミドルカッスルの駆逐艦は、南の深い森に消えた。

 移動要塞は南にあるらしい。


「この進路は危険かもしれないぞ、キャプテン」

「燃料と水の補給に寄ろうと思ってただけだが、こいつは良いぜ。暇つぶしになるかもしれない。どの道、水を買わなきゃいけねーんだ。進路はこのまま、全速前進だな!」


 ボオ、と応えるように汽笛が鳴った。

 蒸気を上げる飛行艇は、陽気な空族をイルファーレへと運ぶ。

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