第一話。ボーイ・ミーツ・ガール。
小型
左腕が蒸気機関義肢に代わって十年近く経って不便も無くなったが、日々成長する体に腕を調整するのだけは面倒で仕方がない。数ミリメートル単位でシャフトの長さを調整をしていると、昨晩の殴り合いとのギャップでめまいがしてくる。けれど怠るとすぐに幻痛が起きてしまうからサボるわけにもいかない。
スラム街最大の娯楽、地下格闘技。
アベルは昨晩、遂に史上最多防衛記録を更新した。
体重差三十キログラムある敵、<巨漢のビグル>をワンラウンドでノックアウトしてみせた。
アベルは左腕、巨漢のビグルは右脚と、義肢化率は両者共に同じであった。前評判としては、当然ながらアベルよりも三十キログラムも重い巨漢のビグルがアベルの防衛記録を遂に打ち破るとされていたが、しかし結果はワンラウンドK・O。
しかも恐ろしいことに、アベルは一度も左腕、つまり鋼鉄の義肢を使ったパンチを繰り出さず、生身の右腕だけで圧倒したのである。
気持ちのいい試合だった、とアベルはほくそえんだ。
「いい加減降りてこい、くそ坊主!」
せっかくの爽快な気分に水を差すのは、ドスの効いたしゃがれ声。アベルの面倒を見る老人、フィリップ=コワルスキーだ。
「なんだよじいちゃん、いつものことだろ」
「いつもやめろと言っとるだろうが!」
「そんなこと言っても、いつも飛ばしてくれるんだから優しいよなぁ、じいちゃんは」
地下格闘技の翌日は、気球船を飛ばしてもらうのがアベルの習慣だった。
特等席は気球船の頂上。ハイドロガスで満タンになった風船の上だ。
気球船は火の国を俯瞰していた。
火の国イルファーレ。工業都市として栄えた常熱の国は、毒ガスと蒸気が朝から晩まで充満することを代償として、高度な蒸気機関技術で世界に名を轟かせている。
しかし栄えある火の国イルファーレと言えども、アベルが住んでいるのは貧民街だ。
今は亡きアベルの育て親の尽力で治安はだいぶマシになったが、それでも地下格闘技などと言う野蛮な賭け事が最大の娯楽と呼ばれている時点で程度が知れている。
火の国の壮観になど目もくれず、アベルは整備を終えた左腕の稼働を確認した。握り、開き、握り、開く。手首を回し、肩の動く範囲を確かめた。生身の体と遜色無い。感圧機が安物のため痛覚などは少し鈍いが、それでも生卵をきれいに割ってみせることくらいはできるはずだ。
油を鞄に仕舞い込んで横になる。背中を支える風船が心地良い。
むにゃむにゃと口を蠢かし、アベルは引き続き風の心地よさを堪能しようと寝返りを打った。
「おい、大煙突が黒煙を吹き出したり、水の国が一晩で蒸発したり、お前、色んなことが起きとるんじゃ! 何が起きるかわからんぞ!」
「はーうるせえな……大煙突なんて何万キロ離れてると思ってんだよ。水の国のことなんて俺の代わりに偉い人がたくさん心配してくれてるっての……」
この世界の中心に聳え立つと言われている謎のシンボル、大煙突。今の今まで白く輝く煙を吐き出していたというのに、先日少しの間だが黒煙だけを吹き出す時間があったと言う。
どうせならば大煙突を間近で見てみたい。黒煙を調査する団体なんかがあるのなら、喜んで身を捧げたことだろう。しかしイルファーレにいては気に病んでもできることはない。自分に大煙突のことを気にかけろと言うのなら、自分を大煙突に連れていくくらいの気概を見せてほしいと、アベルはため息をついた。
いつか国の外に出て、世界中を見て回りたいと思っている。
だから地下格闘技で勝った翌日は、自分への労いとして、空を飛んで『外』を見る。
無限の彼方まで平坦な、果てしなく続く外の世界を。
「馬鹿たれ、このくそ坊主! 何が起きるかわからんから、備えろと言っておるんじゃ!」
「憤死しちゃうぞ、あのじいちゃん……」
怒号に答えることもなく、アベルは目を閉じ――なかった。
「ん?」
遠くに見える
税金で作られた巡航艦が、スラムの上空を飛ぶことなど無いはずだ。
「小さいか?……おーい、じいちゃん、上になんか飛んでるぞ」
「なにぃ?」
風船を突き抜けるように装備されている望遠鏡がうねうねと動き回った。アベルは「こっちな」と言って望遠鏡の向きを、謎の飛行物体に向けてやった。
「何が見える?」
「……小型駆逐艦よりも小さいのう……いや、あれ近いぞ……」
「近い? 随分小さいな。おい、じいちゃん、風船にぶつかっちまったら大変だ。上は俺が見るから操舵を頼むよ」
「ったく、お前が飛ぼうなんて言わなければ……」
小言を無視して、アベルは鞄から単眼鏡を取り出す。太陽を見ないように細心の注意を払いながら、謎の飛行物体を追いかけた。
「う、うわ、あれ、滑空板か……?」
飛行能力を持っていない、兵隊が落下傘と併用して使う滑空板に見える。それにしてもとんでもない高度だ。近くに薄い蒸気跡が漂っている。何かが直角に飛び上がり、超高々度からあれを放り投げたらしい。
間違いなく、滑空板で降りる高さでは無い。
もう少し角度があれば、乗っている者まで見えるが……
「お、おい、おい! じいちゃん! 女の子だ! 女の子が滑空板で……おいおいおいおいおいおい! 落下傘持ってないんじゃないか、あれ!」
「なにぃ、助けるぞ、くそ坊主!」
「いくぞ! 六時の方向! 推進力全開にしろ!」
フィリップ=コワルスキーの不平不満はとうに消えていた
プロペラ推進で一八〇度に近い方向転換を行いながら、レバーを思いっきり倒す。ボイラーのハッチが開き、圧力炉に蒸気が貯まる。火力計は臨界を指した。圧力計の針が震えながら右に動く。
「備えろ、アベル!」
アベルは鞄からゴーグルを取り出して装着する。中腰で、風船の上に取り付けてある取手を強く握った。
上空に見える滑空板は水平推進力を失いつつある。落下の角度が徐々に鋭くなっていた。
垂直落下が始まると、飛行船で近づくのは危険だ。高速で落ちる滑空板が風船を突き破り、全員地獄へ真っ逆さまの可能性がある。運が悪ければ絶賛最大火力稼働中の蒸気炉にハイドロガスが引火して大爆発。
飛行船の軌道を、滑空板の落下角度に可能な限り平行に近づけた上で、アベルがキャッチして摩擦を減らす。綱渡りのようなコンビネーションだが、二人は躊躇いなくその作戦をとった。
「三! 二! 一! 圧力全開!」
圧力計が右端まで倒れた。カウントを終え、圧縮蒸気を解放する。蒸気排出孔から飛び出す空気の塊が、気球船を押し出した。
どう、と暴風がアベルを殴りつける。左の義手の力を全開にしてしがみついた。
風がゴーグルにぶつかり、耳をなでていく。轟音だ。伝声管を握りしめた。「聞こえるか、じいちゃん!」
応、という声を聞き届け、滑空板に集中した。
「ケツを二十度上げろ!」
ぐいん、と尾側が持ち上がった。滑空板の距離、残り百メートル。もうすぐそこだ。一刻も早く細かい調整をしなければ間に合わない。
「まだだ! まだケツを上げろ! 角度が足りない!」
「無茶言うな! 高度が足りん! このまま捕まえろ!」
推進炉が積まれている後方を持ち上げると、推進力が下に向かって猛スピードで高度を下げることになる。このスピードでこれ以上高度を下げると、復帰は確実に間に合わない。
「くっ……! おい! 聞こえるか!」
滑空板に乗っている少女へ声を掛けるが、風に掻き消されてしまう。少女はこちらに気づいていない。半ば意識を失っているのかもしれない。あんな高度から降りてきて、体温もかなり下がっているはずだ。
もう五十メートルも離れていない。すれ違ってしまえばもう追いつけなくなる。
「じいちゃん! ありったけロープを散撒け! 端っこはちゃんと結んどけ!」
「ロープ!?」
「ロープだよ! 全部!」
少女は気球船のすれすれまで迫っている。角度を合わせられなかったため、風船の上で受け止めることはできない。
少女が青ざめた顔でこちらを見た。長い金髪が暴風に舞う。あか抜けていない幼い顔。真っ白できれいな肌だった。か細い指が滑空板のハンドルを強く握り締めている。視線が吸い込まれるような深紅の瞳から、煌く何かが散った。
きっと、涙だ。
「手を伸ばせええええ!」
アベルは叫んでから風船の上を駆けた。風に背中を叩かれる。振り落とされる前に踏み込んだ。投げ出されたアベルが右手を伸ばす。同時に少女の指が滑空板のハンドルを離れた。
――逃がすか。
少女の手首をガッシリと掴む。滑空板はバランスを失い風を受けて舞い上がった。
対してアベルと少女は落下する。少女がアベルの手首を握り返すのを感じた。
これで離れない。アベルは少女の白い肌に食い込むほどの力を籠めた。
アベルは空中でのけぞり、操舵室から散撒かれた何十本ものロープのうち数本を出鱈目に掴んだ。義手の握力を全開に。関節の空気圧が大きくなる。
バシュ、バシュ、と蒸気を逃がしつつ、握りこぶしを固定した。
しばらくして、振り回されていた少女も安定する。
「ふう……なんとかなった……」
安堵して、止めていた息を吐き出す。肺の中を空っぽにした。
「おい、大丈夫か?」
右腕にぶら下がる少女を見遣る。少女は宙ぶらりんの足元を眺めていた。震えが腕から伝わってくる。
「おーい、よじ上れるかー?」
「う、う……」
嗚咽を漏らしながらアベルにしがみついた。顔は……もちろん涙でぐしゃぐしゃだった。
「無理です……」
「だよなぁ」
蒸気排出孔が閉じ、プロペラ推進に切り替わる。操舵室から身を乗り出した白髪の老人が、少女に負けんばかりの涙目になっていた。
「クソ坊主! お前なに考えとるんじゃあ! 老いぼれの寿命をこれ以上縮める気かァ!」
「わはは! まだ死んでないならロープ巻き取ってくれ!」
クソ、クソ、と悪態をつきながら、巻き取り用の歯車にロープを噛ませ、ハンドルを回す。カリカリカリと逆巻き止めの鉄板が歯車に弾かれた。
操舵室に這い入って、少女を回収する。少女はすっかり腰が抜けたようで、座り込んでただひたすらエンエン泣いていた。
アベルが籠からタオルを取り出して頭に被せてやる。革袋に入ったぶどうジュースを渡すと、泣きながらごくごく飲み始めた。
ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も礼を言いながら飲むせいでむせてしまう。それを見て笑うアベルと、未だ顔面蒼白で肩で息をする涙目の老人。
陽気に笑う少年は、大空の中で少女と出会った。
アベル=バルトネクが首を突っ込む大冒険の始まりは、紛れも無く、この日だった。
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