クリスタルの涙

「姫、逃げてください! あなたの力では【死神の紋章】は倒せない!」


 ハイホ駄犬の声で意識が戻った。

 最悪の目覚めだ。


「ダフォ!」


 アデッサ……戻ってきてしまったのね。


「遅かったじゃねぇか、瞬殺さんよぉ。こいつらを殺されたくなければ……そうだなぁ、今すぐ自分の右腕を斬り落とせ。その目ざわりな【瞬殺の紋章】ごとよぉ。その方がカトレア様のところへ運びやすいんだ」


 アデッサ。あなたはそんな奴に負けてはだめ。


 私は状況をたしかめた。

 上半身を起こそうとしただけで、ちぎれてしまいそうな激痛が走る。足はしびれてうごかない。視界はまるで砂絵のようにゆがんでいた。多分、血が足りないのだろう。


 でも、あの男までの距離はつかめた。男の、右腕の【死神の紋章】も。

 ならば、私がやることは、ひとつ。


「あなた、間違っているわ」


 なんとか声を出せた。

 声を出しただけで、痛みに体が震える。けど、いつもどおりの声を出す。弱っていることは絶対に悟らせない。


「んー? なんだとぉ?」


「ダフォ! 喋るな!」


 いやよ……私は、やめない。


「あなた、【鉄壁の紋章】が心理攻撃を止められないと言ったわね。

 おかしいと思わない?

【究極の紋章】のひとつである【鉄壁の紋章】にそんなに大きな『抜け穴』があるなんて」


「そりゃぁ、おめぇ……」


 目の前が少し暗くなった。


 自分がちゃんと喋れているのか、よくわからない。

 そんなこと、気にしている場合じゃない。


「教えてあげる。

 本当はね、防げるわ。

【鉄壁の紋章】を……完全に……発動させれば、

 心理攻撃も……あなたの攻撃も。


 でもね……あえて完全には発動させずに

 わざと、穴をあけているのよ……心だけは。

 刺激を……受け付けるように。

 なぜだか、わかる?」


「……」


 ほら、乗ってきた。

 がんばれ、あとすこし……。


「【鉄壁の……紋章】を、完全発動させると、

 心の……すべて……こころへの刺激が封じられてしまう。

 そうなる……意識は途絶えてしまう……。

 自分では紋章を解除できなくなる……永遠に」


 さあ、駄犬!


 お前がどんなに愚鈍ぐどんでも、ここまで言えば気づくでしょ……私の作戦に。


 そう、私が欲しいのはほんの少しの、少しだけの、距離と、隙。


「ウッ!」


 ハイホが男に体当たりする音。

 不意を突かれた男が私の目の前で膝をつく。

 だが、その姿勢からの大鎌の軽い一振りでハイホは崩れおちる。


 見事だわ。

 私の作戦に気づいて、死をおそれずに戸惑いもなく、それをやってのけた。


 少しだけ昇格させてあげる。


 よくやったわね、『犬』。


 でも私はあなたが嫌い。あなたは……アデッサに似合い過ぎる。


 私は男の腕を掴み、【鉄壁の紋章】を完全発動させた。



【鉄壁の紋章】から白いルーン文字の帯が噴き出す。


 ルーン文字の帯はダフォディルへ巻きつき、体を硬く透き通ったクリスタルへと変化させてゆく。


 そして、クリスタル化の波はダフォディルに腕を握られている巻き毛の男をも飲み込みはじめた。


「チッ! クソっ!」


 巻き毛の男は取り乱し、大鎌をダフォディルへと振り下ろす。

 だが、すでにクリスタルと化しているダフォディルの体を大鎌は斬ることができずにした。


「放せ! このヤロッ!」


 巻き毛の男は力を込めてダフォディルを蹴り飛ばす――すると、ダフォディルは巻き毛の男の腕から引きはがされ、固まった姿勢のまま道の上を転がった。


 ダフォディルが離れると共に、男のクリスタル化が止まる。


「ふう……そんな技を隠してやがったのか。あぶねぇなぁ、脅かしやがって」


 アデッサはダフォディルに駆け寄り、抱きしめる。

 クリスタルの彫像となってしまったダフォディル。その顔には、精いっぱいの笑顔と頬をつたわる涙。冷たく硬く閉ざされたダフォディルを、アデッサは強く抱きしめた。


 アデッサは何かをダフォディルの耳元でささやく。

 しかし、今はその声はダフォディルにはとどかない。


「そいつはあとで海にでも沈めておいてやるさ。心配するな」


 巻き毛の男はアデッサの背後に立った。


「――問おう」


 アデッサの声が低く響く。

 アデッサの後ろ姿からただよう異様な殺気に、巻き毛の男は思わず半歩後ずさる。


 ――この殺気は……この女、いままでどれだけ殺してきやがったんだ。


 巻き毛の男は目をみはり、固唾かたずを呑んだ。


 アデッサが背を向けたまま、【瞬殺の紋章】からは赤いルーン文字の帯を噴き出す。


「お、おい! 瞬殺姫! ハッタリは止めやがれ! そいつらが命がけでお前に伝えていたのを聞いてねぇのか? おめぇの【瞬殺の紋章】はなぁ、この【死神の紋章】には効かねぇんだよ!」


 あせる自分をなだめるように、巻き毛の男が叫んだが、アデッサは男の言葉には反応せずに、続けた。


「貴様――何故、このようなことをするのだ」


 巻き毛の男は拍子抜けして鼻で笑いつつ、今なおアデッサの殺気にひきつっている顔に卑屈な笑いを浮かべた。


「ふん。そりゃぁ怖えぇからさ、カトレア様が。俺はお前には勝てる。だがカトレア様には勝てねぇ。だから従う。単純な話だ」


「――そこに、正義はないのだな」


「てめえ、さっきから何をいってやがるんだ! 正義たぁ力だ! 最後に立っている者が正義だ!」


 巻き毛の男はついに怒りをあらわにする。

 アデッサはダフォディルをそっと降ろす。

 そしてゆっくりと立ち上がり、巻き毛の男を振り返った。


 その眼差まなざしにダフォディルへ向けられていた人間らしい温かみは欠片かけらも残されてはいない。赤いルーン文字の帯が輝きを増し、狂喜するかのようにアデッサの周囲を舞った。


 巻き毛の男の表情に、怒りと恐怖がじる。そして――


「む、無駄だ……効くわけがねぇ!」


 と、震えながら虚勢きょせいを張った。



「瞬、殺」



 アデッサは浅く踏み込み、抜き放つ。その切っ先は綺麗な軌跡を描き、音もなくさやへとおさまった。



「ぐはっ!」



 巻き毛の男は口から血を吐き、膝をつく。


「そ、ん、な……まさか……」


 アデッサは死にゆく巻き毛の男を見下ろし、冷たく言い放った。


「ダフォディルが封じようとしたのは貴様の体ではない。その紋章だ」


「――! こ、これは!」


 巻き毛の男は自分の右腕へ視線をうつし、目を見張った。

 右腕に刻まれた【死神の紋章】の一部がクリスタル化している――ダフォディルが自らの血で濡れた指で、そっとなぞった形に。


「……不覚」


 巻き毛の男が倒れた。

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