カトレア 3

 教会の祭壇の前でカトレアはひざまずく。


 修道士に育てられていたころ、日に何度かこんな風に祈りを捧げていた記憶がある。修道士が消えてから、祭壇は物置と化しており、かつては神が祭られていることさえ忘れていた。


「神さま」


 カトレアの声はかすれ、弱々しい。


「これが、ダンチョネ様がおっしゃる

 世界を再生させるための苦しみなのでしょうか

 これでは、苦しすぎます……」


 カトレアは祭壇の上で『何か』がうごめいていることに気づいた。

 驚きもせず、問いかける。


「あなたは、神なのですが、それとも……」


 祭壇の上に現れた『何か』は、人間のようにも見え、まるで違う生き物のようにも見え、渦巻く泥水のようにも見えた。


「神さま。


 世界は本当に滅びなければならないのでしょうか。

 滅びたあとでなければ、

 幸せな世界は訪れないのでしょうか。


 ただほんの少しの優しさを分けあうだけで、

 それだけで幸せな世界が訪れるはずなのに、


 魔王が倒れたこの世界で、

 なぜ、人間は苦しみの道を歩まねばならぬのでしょうか」


「カトレア……」


 祭壇の上の『何か』が男の声で語りかけてきた。


「殺せ。

 殺すのだカトレア。

 死こそ生のいしずえ


 腐敗した人の世を灰へと返し、

 汚れなき魂、

 子供の手によって世界を再生させるのだ。


 お前は世界再生のための破壊を担い、

 破壊の苦しみをその身に焼き付けるのだ」


「子供たちの世界を……私が……」


「汚れた人の世を滅ぼし

 清らかな心を持つ

 子供だけの世界を再生するのだ」


「それでは、それでは人々が!」


「カトレア。


 今生きている十人の子供が苦しむのと

 これから産まれてくる何千、何万人もの子供が永遠に苦しみ続けるのと


 どちらを選ぶのだ?」


「……そんな!」


「ひとりのヒャラと

 ひとりのピイが死ぬのと


 百人のヒャラが死に続け

 千人のピイが死に続ける未来


 どちらを選ぶのだ」


 カトレアの目の前に何人ものヒャラと何人ものピイが浮かび上がった。


 ――選べない、選んではいけない!


 カトレアは心の中であらがった。

 だが、幻影のヒャラとピイが、カトレアへ語りかける。


「お姉ちゃんは僕たちを救えなかった。

 そして……

 未来の僕たちも見捨てるの?」


 その一言で、カトレアの中で何かが壊れた。

 最後の力を振り絞り、震えながら首を振る。


「わたし……に、そんな……力は……」


 笑い声が響いた。


「ならば神の力を授けよう!」


「神の……力」


「カトレアよ

 この力で戦を起こし、麻薬で世界を腐敗させるのだ。

 殺戮さつりくの独裁者に天下を握らせ、

 その独裁者を支配し、殺し、殺し、コロスのだ!


 授けよう、

 魂を衰弱させ支配する力【絶望の紋章】!」


 カトレアのエメラルドのように美しい左の瞳が、赤黒い輝きを放った。



 深夜。町はずれの教会。重い扉がきしみながら開き、汚れたローブをまとう少女が現れる。その肌は陶器とうきのように白く、髪は淡い金色だ。まぶたを下ろし、口元に微笑みをたたえている。


 その前には、純白のローブをまとった何十人もの僧兵たちがひざまずいていた。

 先頭の女僧兵が顔を伏せたまま声をあげる。


啓示けいじに従いお迎えに上がりました。カトレア様」


 女僧兵は立ち上がり、僧兵式の敬礼をした。そのフードの下にのぞく赤毛のウルフカット、鋭い眼光、額の【審判の紋章】。


 何十人もの僧兵たちが一斉に立ち上がり、女僧兵に続きカトレアへ敬礼をした。



「おいおい。こっちは役人まで手懐けたんだぜ? いまじゃホイサの街は俺たちが牛耳っているといっても過言じゃネェ。そこをよーく考えてくれよ。

 ――は? 儲けが伸び悩んでいるのは子ネズミどものせいさ。貧民街のガキどもが安値でブツをさばいてんだよ」


 ミンヨウ大陸の某国のとある教会、その一室。

 赤いベルベットのカウチソファーに座る少女。


 高位聖職者であることを示す白いローブをふわりとまとっている。その肌は陶器とうきのように白く、髪は淡い金色だ。


 少女の向かいに座る見るからにガラの悪い中年男が座っている。

 目の前に物騒な男がいるというのに、少女はまぶたを下ろし、口元に微笑みをたたえていた。


「なあ、子ネズミを叩くんだって金がかかるってもんだ。下手すりゃこっちだって手を噛まれる。けどよぉ、俺たちのけ前を増やしてくれるんなら……やる気にもなるってもんサ、だろ? ダンチョネさんよぉ!」


 少女は目を閉じたまま軽く溜め息をついた。


「嫌だって言うなら、こっちにだって考えがある。お前らが裏で【賢者の麻薬】を作っていることをバラせば世間は黙っちゃいねぇぜ。いいか? お前らは俺の言う事を聞くしかねえんだよ!」


 ダン!


 男が荒々しくテーブルを叩き、中腰になって少女へ顔を近づけた。


「やれやれ、独裁者に値する男はなかなかいないものです……」


 少女のぼやきのあとほんのひと呼吸の間だけ、部屋に赤黒い光が溢れ、もとへ戻る。


「……」


 赤黒い光が消えると、先ほどまで息巻いていた男はその猛々しい表情を失っていた。焦点を失った視線が空中を彷徨っている。男はそのままフラフラと椅子へ座った。


 入れ替わりに、少女が淡々としゃべり始める。


「さて、お前の代わりなどいくらでも居る。潰す予定のホイサの街もどうでも良いのだが……次の計画には金が必要だ」


 男はぼんやりとした顔のまま、少女の言葉にうなずいた。

 少女はスクッと立ち上がり、その細い脚で男を小突く。


「さっさと帰ってネズミ退治を急げ! そしてホイサの街の隅から隅まで、麻薬漬けにするんだ。それと、そうだな……ホイサのアジトも手狭になってきたろう。あそこには我が教団の廃聖堂がある。そこを使え」


「……わかり……ました」


 男は虚ろな視線のままこたえた。

 少女は『フン』と鼻を鳴らす。


「面倒は起こしたくない。ダンチョネ教が関わっていることを知っている奴は皆殺しにしておけ……お前もだ。捕まって自白を迫られたら自害しろ」


「……わかり……ました」


 そこまで話すと少女は男への興味を失い、カウチソファーにごろりと横になった。だらしなく投げ出された細い脚が白いローブの裾を大きくめくりあげ、太腿があらわとなる。


 まぶたを下ろし、口元に微笑みをたたえる、その顔つきはあどけない少女が楽しい夢を見ているかのように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る