カトレア 2

 深夜。カトレアは淡い金色の髪を振り乱し、息を切らせながら寝静まった町を駆ける。背中には血の繋がらぬ弟、ヒャラを背負っていた。


 カトレアは病院の前で立ち止まると息を整える間もなく、入り口のドアを叩き、叫ぶ。


「お願いします! お願いします!」


 おぼれれ、もがき苦しむ者の表情。


 後ろから年長のピイがふらふらになりながら追いついてきて、カトレアのかたわらへ立った。その表情は暗く、視線は足下へと向いている。


「お願いします!」


 ドアがきしみながら開き、眼鏡をかけた初老の男が顔のぞかせた。どこか優しそうな雰囲気の男だ。


 カトレアは男に向けて喋ろうとするが息が詰まってしまい声にならない。二、三度咳き込むとようやく言葉が出た。


「弟の、弟の様子がおかしいのです! お願いです! 診てください!」


 初老の男はカトレアと背中のヒャラを交互に見ると、大きな手をヒャラの頭へすっと伸ばした。


 カトレアのくちもとに喜びが溢れる。


 夜の町を走り回り、何件もの医者ドアを叩き、そのすべてで門前払いをくらっていた。手を当ててもらう。それだけの反応を得ることさえ、初めてだったのだ。


 だが、カトレアの笑顔とは逆に、ピイの表情はますます苦味にがみを含む。目の前の光景を見ていられぬとばかりに大きく視線をらせた。


 医者が静かに首を横に振る。


「手遅れだ。頑張ったね」


 カトレアの表情がふたたび、絶望にゆがむ。


「お願いします! お金なら、お金ならなんとかします!」


 深く頭を下げ、そのままバランスを崩して這いつくばる。夢中で走り続けた白く細い足が痙攣けいれんしていた。それでもカトレアは懇願こんがんを止めない。


「お願いします! 弟が、弟が……」


 医者が何かを言った。

 口が動いているのはわかる。

 だが、カトレアには彼が何を言っているのかがわからなかった。


「お願いです!」


 医者はもう一度首を振りドアの向こうに消えた。

 そのあとも、カトレアはうわ言のように呟き続ける。


 ピイがカトレアの肩にそっと手を当てた。


「姉ちゃん、ヒャラはもうとっくに……」


「うるさい! まだ、ヒャラはまだ……!」


 カトレアは立ち上がろうとする。だが、足に力が入らずに再びその場へと這いつくばった。ろくな食事もとらずに弟を背負い走り続けた小さな体は、すでに限界をこえていた。足だけではなく、体が小刻みに震えはじめる。


「大丈夫! まだ、ヒャラは大丈夫!」


 カトレアは歯を食いしばり、震える細い脚を地に突き立て、立ち上がった。



 翌日。カトレアたちが住む町外れの朽ちた教会。その裏の空き地。夕暮れ。


 血の繋がらぬ姉弟きょうだいたちは深い穴を掘りヒャラの亡骸なきがら埋葬まいそうした。土をかぶせ終わると、姉弟たちは思い思いに花や石、木の枝をその上にそなえた。


 カトレアは弟たちに言い聞かせるように淡々と語る。


「悲しむことはない。ヒャラの魂はダンチョネ様のもとへと旅立ったのだ。幸せな未来の世界でヒャラはまた生まれ変わって……」


「そんなの嘘だ」


 ピイが低い声で突き刺した。男兄弟同士の喧嘩は日常茶飯事にちじょうさはんじだが、ピイがカトレアに反抗的な態度を取るのは初めてのことだ。


「姉ちゃんは嘘つきだ! 魔王が死ねば平和になるって、ヒャラもお医者に診てもらえるっていったのに!」


「それは……」


「前よりもひどいじゃないか! 姉ちゃんだって、もう二日も草しか食べてないのに!」


 ピイはそう言いながらぼたぼたと溢れる涙を手の甲で拭き、肩をふるわせた。

 そんなピイをカトレアは抱き寄せ、優しく頭を撫でた。


「大丈夫。もう少ししたら必ず世界はよくなるから。そんなに泣いていたら天国のヒャラに笑われるぞ」


 ピイがカトレアを突き放す。

 思いがけぬ強い力でおされ、カトレアはしりもちをついた。


「嘘だ! それに、姉ちゃんだって、さっきから泣いてるじゃねーか!」


「いや、私は泣いてなんか……あれ? あれ?」


 カトレアは自分の目から何かが流れ出ていることに気付いた。


「あれ?」


 ――なんだ、これは? 目が熱い。鼻の奥が……痛い。水が出てくる。これは、なんだ?


 物心がついてから一度も泣いたことがなかったカトレアは、それが涙がであること気づくまで時間がかかった。そして、それが涙だと気付いても、次にどうすれば良いのかがわからなかった。


 嗚咽おえつすることもなく、表情を崩すこともなく、悲しみと言う感情さえ知らずに、止めかたを知らぬ涙が、とまどうカトレアの頬を流れ続けた。



 ヒャラがいなくなってから、カトレアはぼんやりと過ごす時間が増えていった。


 弟たちが呼びかけても上の空で、朝早くから遅くまで、毎日欠かさなかった物乞いを初めて休み、一度休むとそれが何日も続く。そして思い出したように町へ出ても、疲れたといって早めに帰り、何もせずに干草のベッドで横になる。そんな日々が続いてゆく。


 その日、カトレアが昼過ぎに教会へと戻ると、血まみれで、腕と足が折れたピイが横たわり、その傍らでクーが泣いていた。


「ピイ!」


 カトレアは目を見張った。


「――誰が……こんな酷いことを」


 ピイがピクリと動き、何かを言おうとしたが言葉にならない。

 カトレアが視線を向けるとクーが喋り出した。


「食べ物がなくなっちゃったから、ピイ兄ちゃんが姉ちゃんのかわりにとってくるって。ピイ兄ちゃんが……やめようっいったのに泥棒してね……そしたら……僕が見つかっちゃったの、だけとピイ兄ちゃんがかわりに……」


 クーはそこまで言うと嗚咽おえつし大声を出しながら泣きじゃくった。


「痛い……」


 ピイがうめく。


 カトレアはその傍らに座るがどうすれば良いのかわからない。よくここまで帰ってこれたというほど全身がひどいあざだらけで、右の二の腕と脛があらぬ方向へと折れ曲がっている。


「姉ちゃん、ごめんなさい、痛い……」


 カトレアは一瞬抱きしめようとするが、触れば傷を刺激してしまいそうで、出した手を引くことしかできなかった。


「僕、なれるかな……腕がなくても冒険者になれるかな、姉ちゃん……怖い……」


 ピイはそう言い残して動かなくなった。


 カトレアはそのまま視線を動かすことさえ出来ずに、目を開けたまま動かなくなったピイを見つめ続ける。


 泣きじゃくるクー。

 カトレアはふと、ノムがいないことに気付く。


 改めて周りを見回すと、部屋の中が荒れ果てていることに気づく。古いながらも姉弟で手分けして掃除をし、清潔にしてきたはずの教会がゴミ捨て場のように汚れていた。


 カトレアはヒャラの死後、自分がどれだけ長いあいだ放心して過ごし、どれだけ弟たちを飢えさせ、その間、どれだけ生活がすさんでいったのかを悟った。


「ノム! ノムは!」


 ノムがいないことに気づいたカトレアはクーに問いかけた。


 クーは泣きながら部屋の隅の干草のベッドを指さす。

 カトレアが恐る恐るベッドへ近づくと、ノムはうなされながら咳込んでいた。


 ――ヒャラと同じ病気……こんなことにさえ気づかなかったなんて。


 カトレアはその場へひざまずいた。



 カトレアとクー二人はピイを教会の裏庭へ埋葬した。二人とも憔悴しょうすいしきっており、ピイの墓穴はヒャラのものよりもずっと浅く、別れの言葉も祈りの言葉もなく、沈黙のまま、その作業は進んだ。


 ピイの死後、カトレアは眠れなくなった。一睡もせずに朝日と共に物乞いへ出かけ、夜は何度も部屋を掃除したり、ぼんやりと夜空を眺めて過ごす。


 ある日、クーは夜になっても教会へ帰ってこなかった。


 嫌な予感がカトレアを襲う。

 カトレアはクーの姿を探して、町中を、森の中を走り回った。

 だがついに、クーは見つからなかった。


 夕方、カトレアが教会へ戻ると裏庭から物音が聞こえる。


 クーが先に帰ってきたのかと急いで覗いてみると、巨大なハイエナがピイの墓を掘り起こし、亡骸をむさぼり食っていた。


 カトレアは石を投げ棒で叩き、必死になってハイエナを追い払おうとする。だが、痩せ細り非力なカトレアが何をしようとも、ハイエナは怯みもしない。黙々とピイの亡骸を食べつくすと、のそのそと去ってゆく。


 翌日、干草のベッドの上でノムが冷たくなっていた。


 既に墓を掘る力もなく、カトレアはハイエナに掘り返されたピイの墓穴の上にノムの亡骸を横たえ、その脇に座りぼんやりと待つ。


 ほどなくして、予想どおり、あのハイエナがやってきた。ハイエナは汚ならしくよだれを垂らし、喉の奥を鳴らすとノムの亡骸へ噛りつき、ボキボキと骨を噛み砕く音をたてながらあっと言うまに食べつくしてゆく。カトレアはその様子を無言のまま眺めていた。


 ノムを食べ尽くしたハイエナは自分に襲いかかるのだろう。

 そして、なにもかもが終わるのだ。

 そう、カトレアは考えていた。

 だが、ハイエナはカトレアには見向きもせず、去っていった。

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