天使が宿る場所
暗闇から
アデッサは細めた目を少しずつ開き恐る恐る周囲を見まわした。場所は、チョイ湖畔の空き地。もと居たキャンプから少しも……いや、一歩も移動していない。何もかもがカトレアが駆け寄ってきた、あの時のままだ。
「うあああ!」
「カトレア様!」
顔をおさえて
カトレアの顔には黄色いルーン文字の帯が巻き付いていた。黄色い帯は【絶望の紋章】が刻まれている左目の上を
やがて金属音が響き、カトレアの顔に巻き付いた帯は本物の、金色の鎖でできた眼帯へと姿を変えた。
「くうぅっ!」
カトレアがうめく。
――いったい、何が起きているんだ?
事態は好転しているようだが、油断はできない。アデッサは突然の出来事に警戒をしながらも、腕の中で気を失っているダフォディルへと視線を向けた。
――傷が消えている。幻影だったのか。
「ダフォディル!」
体を揺すると腕の中のダフォディルがうっすらと
「アデッサ……よかった……もう大丈夫……」
ダフォディルの言葉にアデッサは
そしてすぐに気持ちを切り替え、あらためて周囲を見回した。
――敵か? 味方か?
アデッサとサザンカは同時に、10メートルほど離れた木陰に立つ人影を見つけた。
その者が身にまとっている薄汚れたローブはカトレアやサザンカが着ている聖職者風のデザインだが、元が何色であったのかもわからぬほどにボロボロだ。フードを深くかぶっており、顔は見えない。
そして、突きだしている左手のひらには何かの紋章。
紋章から噴き出した黄色いルーン文字の帯が腕の周囲を舞っていた。
そしてもうひとり。
紋章の人物の背後から女の子が飛び出し、アデッサへと駆け寄った。
「おねえちゃん!」
「――君は!」
チョイトでアデッサが財布ごと恵んであげたあの女の子だ。
「ママ! やっつけて!」
女の子が叫ぶと汚れたローブの人物はフードの奥で頷いた。そして、紋章が刻まれた手のひらをサザンカへと向ける。紋章から噴き出した黄色いルーン文字の帯がサザンカへと迫った。
「フンッ!」
サザンカはカトレアを小脇に抱えると、ローブの下から剣を抜く。剣はまるで黒い炎のような、禍々しいオーラを放った。
「ハァッ!」
サザンカは襲い掛かってくる黄色い帯を剣で二度、三度と打ち払う。
だが、帯は何度打たれても力を失わない。やがて波のように大きくうねるとサザンカの剣へ絡みついた。
サザンカは咄嗟の判断で剣から手を離す。同時に、剣に絡みついた帯が金属音と共に金色の鎖へ姿を変えた。すると、それまで剣が放っていた黒いオーラが鎖で封じられたかのように消え失せる。鎖が絡まった剣は支えを失い、ガシャリと音を立てて地面に転がった。
「【
サザンカは舌打ちをして大きく飛び下がる。
そして、この場は不利と見たのか、【審判の紋章】で空間に穴をあけると、もがき続けているカトレアと共にその闇の中へと消えていった……。
◆
サザンカが消えた後。
体の傷は幻と共に消えたものの、再び意識を失ってしまったダフォディルを木陰へ寝かせ、アデッサは心配そうに見下ろしていた。その隣には、同じように心配そうな顔をしている女の子。
歩み寄る、汚れたローブの人物。
【封殺の紋章】の使い手に、アデッサは向き直った。
「助かりました。なんとお礼を言ってよいか……」
ローブの人物が汚れたフードを上げる。
その中から現れた神々しい顔つきにアデッサはハッとした。栗色の髪の女性。切れ長な眼。柔らかな母性に満た、まさに聖母のような表情。年の頃は30歳ぐらい、なのだろうか……。
「あの……どこかで……」
「お会いするのは初めてです。ヤーレンの第十三王女、アデッサ様。私はアサガオ・ホイヤンヤン
「では、あなたがこの子のママ……。アルバトロス……そのパーティ名、聞いたことがあります」
「【赤のパーティ】ほど有名ではありませんが」
アサガオがにこりと笑う。
「娘の名はアネモネ。『瞬殺姫のところへ来なさい』と言う言葉だけを覚えていて……お礼をするために二人でアデッサ様を探していたのです。まさか、カトレアに狙われていたとは……」
「おねえちゃんだいじょうぶ?」
心配そうに見上げるアネモネに、アデッサは笑顔で応えた。
「ダンチョネ教のカトレア。【絶望の紋章】は私の力で封印しました。しかし、そう長くはもたないでしょう」
「はい……」
アデッサは暗闇の空間のなかでの出来事を思い出し、視線を落とした。カトレアに向けて言い放った言葉……その決意は固い。だが、生々しい過去の映像と、カトレアがソイヤの口を通じて言わせた言葉が胸をかきむしり続けている。気持ちの整理がつかない。アデッサは思わず顔をしかめた。
そんなアデッサに、アサガオは優しい笑顔でこう続けた。
「アデッサ様。心のなかの決意は
心の内を見透かされ、アデッサはハッと驚く。
「私は、私はどうすれば!」
すがり付きそうになるアデッサに、アサガオはゆっくりと伝えた。
「進むのです、アデッサ様。
振り返らずに、答えを急がずに、前へ。
あなたの力は絶大。
それ故に、あなたは悪魔にも天使にもなるでしょう。
恐れてはいけません。
その心に宿る清純な炎を信じて、進むのです」
アデッサの手を、小さな手がぎゅっと握る。
「おねえちゃんは天使さま」
アネモネがキラキラと輝く瞳でまっすぐにアデッサを見つめる。その言葉にアデッサは心に刺さっていた
アデッサの顔に自然な笑顔が戻り、瞳は自信で輝いた。
「ありがとう、アネモネ」
アネモネは嬉しくてたまらなそうに、アデッサへ笑顔を向ける。
「――さて。私とこの子は旅を急がねばなりません。それと、残ったお金をお返しします。お借りした治療費もいつか、必ず」
「あ、いいんですよ! いちどあげたものは――」
ガシッ
遠慮するアデッサの横から色白な細い手がスッと出てきて、アサガオが差し出した財布を掴んだ。
そこにいたのは黒髪の悪魔……いや、さっきまで意識を失っていた筈のダフォディルだ。血走った目が
「だ、ダフォ……」
苦笑いするアデッサ。
ダフォディルは財布を胸にかかえてクルリと背を向ける。
だが、気まずさに耐えかねて深いため息をひとつつき、財布から三分の一ほど抜き取って顔をそむけながらアサガオへと差し出した。
「はい、これ。助けてもらったし、また行き倒れにでもなられたら
アサガオは深く礼をしてその金を受け取った。
「おねえちゃんも天使さま」
アネモネがダフォディルへ抱き付いた。
「現金な子ね!」
はてさて。
アサガオとアネモネの親子二人は何度も振り返っては手を振りながら去っていった。
そして湖畔の空き地は……焚火にかけっぱなしだった鍋の
結局、財布は戻ってきたものの、アデッサとダフォディルの二人はいまさら贅沢をする気にもなれず、チョイトの高級宿屋への宿泊はあきらめて、翌朝、次の街エッサへ向けて旅立つのであった。
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