テンシと悪魔

 チョイ湖はミンヨウ大陸最大のみずうみだ。


 水は南国の海のような青。石英せきえいの砂浜は白く遠浅とおあさで、気候は一年中温暖でさわやか。


 湖から陸地へと目を向けると、浜辺のすぐそばまで丘がせまり、その斜面にはチョイトの街並みが広がっている。


 チョイトの家々はこの地方独特の曲面を組み合わせたお洒落なつくりをしており、壁はすべて石灰を豊富に含んだ漆喰しっくいで純白にいろどられていた。


 空の青、家々の白、浜辺の白、湖の青。

 そのコントラストが目に映える。


 誰もがあこがれる高級リゾート地、チョイト。


 もちろん、宿屋もかなり高額だ。だが、不景気だというのに金持ちたちや、一生に一度ぐらいは贅沢をしてみようという人々が大陸中から集まり、浜辺は若者であふれ、どの店も繁盛していた。



 そんなチョイトの浜辺が遠くに見える、チョイ湖畔の閑散とした空き地。

 時刻は昼過ぎ。



 ダフォディルは遠くに見えるお洒落な宿屋のプライベートビーチで嬌声きょうせいをあげている若者たちの姿を、死んだ表情でながめていた。


 本当だったらいまごろアデッサとダフォディルはあの白い砂浜で若者たちに交じり、パラソルの下、二人並んでトロピカルなジュースをすすりながら、のんびりとリッチに旅の疲れを癒していたはず、だったのだ。


 ダフォディルは遠くに見えるビーチから、目の前の焚火へと視線を移した。


 焚火にはなべがかかっている。そっとふたを開けてみると、中には『朝食兼昼食兼夕食』の、水のように薄いかゆがクタクタと煮えていた。


「ダフォ! 魚が釣れたよ!」


 背後からアデッサの声。

 ダフォディルは死んだ表情のまま、釣りから戻ってきたアデッサを振り返った。


 アデッサは『チョイ湖オオナマズ』を得意げにかかげ、ヒマワリのような笑顔で手を振っている。吊り下げられたナマズが、ビチビチと暴れた。


「さあ、ご飯にしようか!」


 アデッサは焚火の脇にドカッと腰をおろすと、ナマズをナイフでさばき始めた。


 何を隠そうこの二人、リゾートどころかこの三日間、薄い粥とナマズしか食べていない。


「もう、こんな生活いや!」


 ダフォディルは両手で顔をおおい、さめざめと泣いた。


 貧乏生活の悲嘆ひたんれるダフォディル。本当なら高級リゾートで美食にエステに……と、二人でちょっとハメをはずせるぐらいのお金があったのだ。三日前までは。


 だが、アデッサがそれを全額子供に恵んでしまったため、二人はサバイバル生活を余儀よぎなくされていたのだった。


「ダフォ……」


 アデッサはダフォディルのかたわら立つと、なぐさめるように、後ろからふわりと抱きしめた。


 ダフォディルが泣きはらした目でそっと振りむく。すぐそこには、アデッサの王子様のように凛々りりしい顔。真っすぐな眼差まなざし。長いまつ毛。引き締まって、でも、柔らかそうなほほ。彫刻のような……そのくちびる。


「ナマズは好きじゃないのか?」


「そーじゃないわよ!!」


 かけたダフォディルの目がキッとつりあがる。


「アデッサ、あなたったらよく楽しそうにしてられるわね! 私たち三日もナマズしか食べてないのよ!? 旅してるときの方がまだマシだったわよ! チョイトよ? チョイ湖よ? 一生に一度は来てみたい高級リゾートなのよ!? それなのに、それなのにッ」


 ダフォディルは遠くに見える白い砂浜を指さした。


「ああ、いい所だな」


 アデッサは屈託なくこたえ――


「大丈夫。アタシがついているから、何とかなるよ」


 と、自信満々でにこりと笑った。


 ダフォディルは『アデッサには何を言っても無駄』と言いたげに深いため息をつき、顔をそむける。


「よしよし。アハハ、ダフォは甘えっこだな」


 アデッサはそういってダフォディルを抱きしめる力を少しだけ強め……

 さり気なく、こめかみにキスをした。


 ダフォディルは突然のことにドキッと頬を赤らめながらも――


 ――なによ、そんなことぐらいで騙されないんですからねッ!


 と、ツンと唇を尖らせた。


 ――それに、ここで期待をしてたってどうせ『』はならないのは知ってるんだから。


 だが……アデッサは無言のまま長い指を、ダフォディルの服の隙間から、スカートの裾から、なめらかな肌をスッと伝わせて、いままで触れられたことのないエリアまで、ためらいもなく侵入させていった。ダフォディルの肩がピクリと反応し、腰が引け、脚がもつれる。


「ダフォディル……」


 アデッサが耳元でささやく。


 ダフォディルの口から反射的に、こばむむ言葉がでそうになる。

 その言葉を意思の力で飲みこもうとするが、少しだけ、こぼれおちた。


「……ぃゃ」


 アデッサの指が、誰にも触れられたことなどない場所へ届きそうになり、ダフォディルは背を反らせる。


「こしょ」


 アデッサが呟いた。


「……こしょ?」


「こしょこしょこしょこしょ」


 アデッサがダフォディル服の下の奥へと突っ込んだ指を、コショコショとくねらせる。


「ほら、泣くのはやめて、笑って笑って」


「いやあ! ははははははは! ぎゃははははははは!」


「大変な時こそ笑顔が大事だぞー。こしょこしょ」


「ぎゃははははははは!」


 アデッサのくすぐり攻撃にダフォディルが笑い転げた。そのまま数十秒。ひとしきりくすぐり倒したところでアデッサは満足したのか、サッと手を引き――


「ははは、ダフォはくすぐったがりだなぁ。さあて、それじゃぁご飯にしようか」


 と、ダフォディルにくるりと背を向けてナマズをさばき始めた。


 ダフォディルは焚火の脇に積んであったまきを手にすると、鼻歌まじりにナマズをさばいているアデッサに背後から殴りかかる――そのとき。


 突然、数メートル先の空間にドアほどの大きさの四角い穴が開いた。

 穴はすみのように黒く、中からは禍々まがまがしい気配があふれだしてくる。


「アデッサ!」


「ダフォディル!」


 二人は呼び合うと手と手をつなぎ、指を絡ませ合った。

 ダフォディルの【鉄壁の紋章】から青いルーン文字の帯が噴き出して二人の周囲に舞う。


 アデッサが片手で剣を抜き、身構える。


 そして、黒々とした空間の穴から歩み出てくるサザンカ。白いローブ。赤毛のウルフカット。額の【審判しんぱんの紋章】。


 サザンカは白いローブをまとった小柄な少女を抱きかかえていた。ローブは金色のヘムで縁どられたている。純白のローブよりも白い陶器とうきのような肌。淡い金色の長い髪。


 そして、閉じられている両目。

 ダンチョネ教の女教皇、カトレア・チョイトヨイヨイだ。


 アデッサはサザンカへ剣を向けるが、カトレアの幼さに、戸惑いの表情を浮かべた。ダフォディルはアンデッドの出現を予想して少し身を固くしながらも、しっかりとアデッサに寄り添う。二人はお互いに絡ませた指を確かめ、言葉には出さず『大丈夫』と励まし合った。


 だが――そんな二人の緊張など気にもせずに、サザンカの腕の中のカトレアは目を閉じたまま、まるで子供が友達を呼ぶかのように叫んだ。


「アデッサ!」


 そして、カトレアはサザンカの腕からぴょんと飛び降りると、ちょこちょこと二人に向かって歩み寄ってきた。


 今なお閉じられたたまま目に、ダフォディルの嫌な予感がき立てられる。


「気を付けて――」


 ダフォディルはアデッサの耳元でささやいた。

 アデッサが軽くうなづく。


 目を閉じたまま、無邪気な子供そのもの笑顔で駆け寄ってくる、カトレア。

 その背後で無表情のまま仁王立ちしているサザンカ。


 アデッサは剣を持つ手に力を入れるが、どうすれば良いかわからない。


 カトレアに、ソイヤの姿が重なる。

 先に、斬り付けることなどできない。


「あいたかった、アデッサ―!!」


 そう言って、カトレアが目を開いた。


 エメラルドのように美しい右の瞳。

 そして左の瞳があるべき場所で【絶望ぜつぼうの紋章】が赤黒く輝いた。

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