絶対的な「客観」を追い求めることから、西洋の哲学は出発したといってよい。プラトンは、絶対的な「真・善・美」がある「イデア界」というものを設定し、われわれ不完全な人間は、イデア界に存在する「真・善・美」の影をみていると仮定した。だから、我々は絶対的な真理、善、美というものに到達できないのだと結論付けた。
話が少々、横道にそれたようだ。余談だが、最近、筋トレを始めたために、肩こりに悩まされることが少なくなった。
さて、この作品である。まず、徒然草の一文から始まる。非常に有名な一節であるからおそらくは読者諸氏も一度は目にしたことがあるだろう。これを殆ど、作中人物は真剣に聞いていないのである。ここで冒頭にお話しした、イデアの話に戻ると、兼好法師がどんなに真実の琴線に触れる話をしたとしても、結局は読者にはその影しかみえないのである。
しかし、遠藤周作がいうように、人はある人に痕跡を残す。その痕跡はある程度形を変えて自分の身に返ってくるものだ。
余談だが、先ほど、肩こりに悩まされていると書いたが、事実腰の痛みもなくなった。
どうだろう。読者は一度見た痕跡をもう一度目にしなかっただろうか。
伊勢物語の東下りは、左遷の物語である。これは高校の教科書の定番になっているが、高校生に読ませてどうすると思うこともある。しかし、確実に読む方には痕跡として残り、当時なんとなく聞いていた物事であっても、わかるなと思う時がくるものだ。大鏡のような権力闘争にまみれた姿を醜いと思いながらも、我々は一度はそうした現場や状況におかれて、はしかのように熱にうなされるものだ。そうして、権力闘争の醜さも、恋のつらさも、家族を持つ重責も、そのさなかにあっては、それを読んだときのように客観視したり、風刺したりはできないものである。
人間は不完全だ。イデアの影だけを見ているとプラトンは言っているが、いずれその影はわれわれをとらえて離さなくなる。
山脇正太郎氏の文学を笑うわけにはいけない。氏の作品もそのようである。