1話 わたくしの事情
ここは…どこなのでしょうか?見覚えのあるような、ないような景色に、わたくしは…戸惑っておりました。わたくしは今の今まで、自分の部屋におりました筈ですのに、ここはどこなのでしょうか?首を傾げて見ようとしても、周りを見渡そうとしても、全く自分の意志では動かせないのです。私の身体は…どうなってしまったのでしょうか?
今のわたくしは、どなたかと手を繋いで歩いておりました。周りは真っ白な壁とか扉ばかりで、沢山の人間が動いていまして、その人達も真っ白な衣装を着ていて、まるで病院みたいだわ、と思いましたの。……病院?…とは何、それ?
たった今、自分で思って置きながらも、何のことなのか分からないのです。
でも…本当に、どこに向かっているのかしら?
あっ、やっとわたくしの顔が、上を向きましたわ。手を繋いでいる人物を見る為に。そこに会ったお顔は、見覚えのない顔の筈なのに……。そのお顔を見た途端に、泣き出しそうになっていました。やっと…会えましたわ。そう思って……。
…途轍もなく懐かしく思って。……何故なのでしょう?
「ねえ、お父さま。お母さまのおへやは、まだですの?」
「もう少しだよ、
「はい。…お母さまのごびょうきは、よくなっているのかしら?…早くたいいんできたらいいですのに……。お母さまがおうちにいらっしゃらないと、さびしいのですもの。」
「…そうだね。早く元気になって、退院出来たら…いいね?お母さまが退院したら、お祝いをしようね?」
やはり…この方は、今のわたくしの…お父様なのですね?…今のわたくしの姿は確認出来ませんが、本来のわたくしとは…違うような気が致します。
映画でも見ている気分ですね…。映画……とは?…何、それ……?
そうしてわたくしだけが考え込んでいるうちに、ある扉の前でこの親子は立ち止まります。父親がコンコンと扉を叩くと、一呼吸ほど置いてから、扉の向こう側からは、「…はい。どうぞ。」という、か細い声が聞こえて来ました。その途端、わたくしはこの声を聴いただけで、…泣きそうになってしまいましたの。
……ああ。この声は…お母さまです……。今までに全く、聴いたこともない筈ですのに。それなのに……顔を覆って、今にも泣きだしてしまいそうなぐらい、わたくしの心は揺れておりました。もう何年も何十年も、聴いていない声だと思っていたのです。何故、この声を忘れていたのかと。そう思うぐらいに…。
このように心乱れるわたくしとは反対に、わたくしの両手はその小さな手で、扉を開けて中に入って行きました。そして、わたくしの瞳には…亡き母の姿がみえたのでした。もう…ダメでした。……我慢出来なくて。わたくしの目からは、ポロポロと涙が流れて行きます。まるで…滝のようだと、自分で自分に突っ込みを入れながら、わたくしは正常な意識を保つのに、それだけ…必死だったのです。
しかし、わたくしがこれだけ涙を流そうとも、この体の持ち主は、全く泣いてもいないのです。それどころか、目の前の女性に笑いかけているようでしたのよ。
どうしてそんなことが分かるのかと言えば、女性の向こう側には鏡が掛かっていて、わたくしの顔が映っていたのですもの。満面の笑顔で、心からこの女性に会えて嬉しいという顔をして……。…ああ、今のわたくしは、わたくしのようでわたくしとは異なる存在なのですね?
「お久しぶりですわ、お母さま。わたくしは、元気でしたのよ?お父さまのかいしゃのしょうひんを、わたくしもいっしょに考えていましたのよ。お父さまだけでは、たよりないのですもの。ですから、少しでも早くたいいんしてくださいね?」
「…そうね。…カノはよく頑張っていたのね?…確かに、お父様だけでは心配なのよね?…だから、わたくしも頑張りますから、…もう少しの間、お父様の面倒をお願いするわね?」
「はい。お母さま。わたくし、がんばりますわ。」
わたくしは、この会話の間は…ジッと、目の前の女性を見続けておりました。
涙を次々と流しながら。やはり、この女性も本来のわたくしには、全く知らない人でした。そのなのに、わたくしは…この体の持ち主が母親だと呼ぶ前から、気が付いておりました。ということは…わたくしは…本当は、知っているのでしょう。
ただ忘れているだけで……。きっと…これは……ただの夢ではないのでしょう。
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わたくしは、ふと気が付いたように目を開けました。そこは…いつものわたくしのお部屋でしたわ。一体、何が起こっていたのか、自分でも理解出来なくて、身体を起こそうとして半身を持ち上げますと、わたくしの頬を何かが流れていくのが、鏡を見なくとも分かったのです。……ああ。わたくし…泣いていましたのね?
漸く、わたくしは今までベットに横になっていたのだと、理解出来ました。
やはり、わたくしは夢を見ていましたのね?…今まで、夢の中にいましたのね?
……ただの…夢なの?…いいえ。これは…ただの夢なんかでは、ありませんわね?
これは……きっと。……きっと、わたくしの……体験した出来事なのですのよ。
でも…今のわたくしには、お父様もお母様もご健在されていて、夢の方々とは全く違うご容姿なのです。それに…わたくしも、夢の中の鏡に映ったわたくしとは、髪の色も目の色も……そして、顔自体が全くの別人だったのですからね。
まるで……違う国の人物のようでしたわ…。一体、どういうことなのでしょうか?
まだ…5歳のわたくしには、難し過ぎる問題だと思われましたのよ……。
わたくしはどうやら、長々と考え込んでいたようでした。わたくしの部屋の戸がコンコンとノックされ、わたくしが「はい。」と返事致しますと、わたくし専属のメイドであるララが、「カノンフィーユお嬢様、おはようございます。」と言って中に入って来ました。カーテンを開けてわたくしの方を振り返ったララは、わたくしの顔を見た途端に、慌てたように声を掛けてくるのです。
「お、お嬢様!どうなさったのですか?泣いていらっしゃったのですか?…何かございましたのでしょうか?…もしかして、体調がお悪いとか…?…すぐに、奥様をお呼び致しますね?もう少し、お待ちくださいね?」
「…いいえ。大丈夫でしてよ。これはただ……単に夢を見ただけですわ。悲しい夢を……見ただけなのです。ですから…お母様にはお知らせしないで。ご心配を…お掛けしたくないの。ララ…、心配してくれてありがとう。本当に大丈夫よ。」
わたくしは涙を流したままでしたので、ララは驚いたようですわね?とても慌てて早口で次々と質問をして来たかと思えば、今度はお母様を呼びに行こうと、部屋を飛び出して行きそうな勢いでしたのよ。まだ…わたくしは、夢の内容にショックを受けていたみたいでして、ララの動きについて行けていませんでしたのよ。
わたくしがボ~としたままでしたから、ララは何かあったと思い込んでしまったようなのです。一応…夢の中の出来事ですから、報告しようもありませんものね?
それに、あのような夢を見た後では、現実のお母様がいくらお元気一杯のお人でしても、ご心配をお掛けしたくないと思ってしまうのです。わたくしは…あの夢の中の『お母さま』が、もうすぐ天に召されることを、よく知っているのです。
あの『お母さま』は、わたくしの心の中では既に、永眠されているお人なのです。
あの『お母さま』と現実のお母様が別人であるのは、髪の色と目の色が異なることで理解しているのです。しかし…それでも、わたくしには……怖かったのです。
ララは暫く心配しておりましたが、わたくしが何とか気分を持ち直しますと、やっと信じてくれたようでした。わたくしの身支度をして、「もうすぐお食事の時間ですよ。」と声を掛けてから、部屋を出て行きました。わたくしは1人鏡に向き合っては、笑顔を作る練習をしまして、自然な笑顔になってから、家族で食事をする部屋に向かったのでした。
「お父様。お母様。おはようございます。」
「やあ、私の可愛いカノン。おはよう。昨夜はよく眠れたかな?」
「おはようございます。カノンさん。……あらっ?…もしかして、怖い夢でも見たのかしら?目が赤いのですけれど、…大丈夫なの?」
「はい。よく眠れましたわ。……お母様、大丈夫ですわ。少し…悲しい夢を見ただけですの。夢の内容は……忘れてしまった様ですわ。」
流石にお母様は……鋭いですわね?…目が赤くなっていることに、気が付かれてしまいましたわ。…私自身も、鏡でチェックした限りでは、バレない程度だと思いましたのに。母の隣で父が慌ててみえましたけれど、お父様はお父様で…親馬鹿過ぎますわ。まるで………のようで。思わずそう考えてしまい、まだ夢の影響を受けているわたくしは、何だか急に老け込んだような気が致しましたのよ。
あの『お父さま』と現実のお父様。全く別人のような風貌だというのに、どうしても…重ねて見てしまう自分がおりました。わたくしが、他の方々とどこか異なるということは、何となく理解しております。物心つく前から、何か変な言葉を使ってしまったり、現実とは違う風景に見えたりと。両親は何も言いませんが、このままではわたくしは、現実の世界で浮いた存在になることでしょう。
…わたくしはただ、わたくしでいたいだけ…ですのよ………。
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