破滅に向かって
増田朋美
破滅に向かって
その日、よく晴れて雲一つない良い天気だった。みんな家の中でのんびりとしていた。そんな中、富士駅からかなり離れたところに、小さな家があった。その家から駅に行くには、車に乗って、10分から15分くらいかかる。車であれば何でもないのだが、歩いていくのはちょっと、むずかしいところがあった。それではバスかタクシーに乗っていけばいいじゃないかと思われるが、バスは、一日八本しか走っていないし、バスと言えば都会と違って、お年寄りの乗り物という雰囲気があるから、ちょっっと、若い人が乗るのには、躊躇してしまうようなところもあった。
今日も杉ちゃんが、家の中でカレーを作っていると、インターフォンがなった。宅配便でも来たのかと、蘭が玄関に行ってみると、華岡がしょんぼりした顔をして、そこに立っていた。
「どうしたんだよ華岡。しょんぼりしちゃって。」
蘭は、変な顔をして、華岡を見た。とりあえず、
「風呂か?」
とだけ聞いてみる。
「そうなんだけどねえ。今担当している事件がすごく重たすぎて、困っているから来た。」
と答える華岡。まったく、刑事のくせに、そんな頼りないこと言ってたら、日本の平和も保てないよ、もう少し強くなれ。といいながら、蘭は華岡を部屋の中に入らせた。まあ、とにかく、風呂に入ってきな、というと、華岡はしょんぼりした顔のまま、風呂に入っていった。まあ確かに、杉三も蘭も、車いすで生活しているから、自動的に風呂は広いものになる。華岡がやってくるのは、その大きな風呂に入りたいから、という魂胆なのは、いつでもどこでもはっきりしているので。
華岡が風呂に入っている間、杉三はカレーを作っていた。しかし、なんとなく、いつもと違うような気がするのである。
「おかしなあ、今日は、華岡のスーダラ節が聞こえてこないなあ。」
蘭は、新聞を読みながら、風呂場に目を向けた。
「そうだねえ。」
杉三は、ルーを鍋に入れながら言った。
「いつもはでかい声で、スーダラ節を歌っているものなのだが、今日はどうしたんだろう?」
一体どういうわけなのかわからないけれど、その日の華岡の風呂は静かだった。ただし、四十分を超す、長風呂なのは、いつもと変わらなかった。
杉ちゃんが、炊飯器からご飯を出してさらに盛り、カレーをかけて、その皿をテーブルの上に置くと、ああー、いい湯だった、という声と一緒に、華岡が戻ってきた。
「おお!あとは杉ちゃんのうまいカレーだな。楽しみだなあ。腹いっぱい食べて、気持ちをリフレッシュさせよう。」
蘭は、それは僕のなんだけど、と言おうとするが、華岡はすぐに置いてあったさじをとって、カレーを食べ始めた。
「ああ、うまいなあ。疲れた時は、杉ちゃんのカレーが一番だ。ほんと、どこの会社のカレーよりもうまいよ。杉ちゃん、これからもうまいカレーを食べさせてくれよな。」
しまいには泣きそうになって、華岡はそういうことをいう。
「で、どうしたの、華岡さん。いきなり訪ねてきて、そんなにしょんぼりしちゃって。」
杉ちゃんがそういうと、華岡は、
「おう、実に重たい事件でな。」
と、ため息をついた。
「だからあ、その重たい事件のことを話してみてくれ。華岡、人の家にのこのこ上がり込んで、何も言わないというのも、無責任すぎるぜ。」
蘭がそういうと華岡は、
「ああ、このあいだ、バラ公園の近くで、男性の死体が見つかったのは知っているか?」
といった。
「ああ、テレビのニュースでやってたな。なんでも自殺ということはあり得ないそうじゃないか。」
「そうなんだよ。後頭部を樹木に当てて、それが致命傷になっているから、自殺ということはまずない。だけどねえ。」
「もうだけととか、そういうことをいう前に、早く犯人につながる手がかりを見つけるのが、警察というもんじゃないの?そんなことをぐちぐち言っていたら、犯人のほうが逃げてしまい、無能な警察と言われてしまうと思うけどね。」
華岡の話に、杉ちゃんが相槌を打った。
「うん、犯人のめぼしも大体ついている。決定的なものが見つかったら、すぐに逮捕しようと思っている。それでよいはずだと思うんだけど。」
「はあ、それなら、万事うまくいって、めでたしめでたしじゃないか?」
蘭が華岡に言った。
「うん、確かにそうなんだけどね。どうもこの事件は誰が悪いのかということがはっきりしないんだ。まず殺されてしまった田村正雄さんは、妹が一人いた。名前を田村峰子さんという。」
華岡は、事件の概要を語り始めた。
「その田村峰子さんなんだが、軽度の知的障害のようなものがあった。今の病名を借りて言えば、HSPとなるのかもしれない。彼女は普通学級に通っているが、学校という場所になじめず、中学校の頃から不登校になり、高校に進学もしていない。峰子さんは、障碍者手帳を持っており、車の運転免許を持っていないので、現在働くことができず、自宅で生活している。」
「はあ、なるほどねえ。」
と、蘭は言った。
「うちへ入れ墨を入れに来る、お客さんにもたまにそういう人が出てくるな。せめて自分を変えたいからと言って、神仏を入れてほしいと言ってくるようなお客さんだ。」
「まあ、そうだなあ。でも、蘭のお客さんはそうやってでもそれなりに、自分の居場所を求めようとしているじゃないか。彼女、つまり、田村峰子はそれをしていないんだ。車の免許がないから、相談機関にも行けない。電車を使うにしても、家が駅からかなり離れているようで、送り迎えしてもらわなければならない。峰子の両親は、仕事で忙しすぎて、彼女をかまってやれないらしい。唯一、兄の正雄さんだけが、彼女を心配していたようだ。」
「なるほど。」
と、蘭は頬杖をついた。
「それでなあ、峰子は、インターネットで知り合った、小磯幸夫という男と交際していたようなんだが、これがまたひどい男でな。インターネットでは、優しそうな男を演じておきながら、現実世界では、ものすごい暴力男だった。」
よくあるパターンだね、と蘭は言った。なぜかそういう風になってしまうのである。情緒障害とか、知的障害のある人で、家族に囲まれて生きているけれど、それがどういうわけなのか、幸せだと感じることはできない人が多い。理由はよくわからないが、蘭も、そういうお客さんを見たことがあった。
「はあ、それで、お兄さんが、その小磯という男に文句言いに行ったんだろう。それで、事件になってしまったというわけかあ。」
と、杉ちゃんが言った。
「その通り!杉ちゃんよくわかったね。俺たちは、小磯を犯人と思っている。今はまだ捜査中であるが、もうちょっと物的な証拠がそろえば、小磯を逮捕しようと思っている。」
華岡は大きなため息をついた。
「そんならそうすればいいじゃないか。もう、大体決まっているんだったら、それでいいのでは?」
と杉ちゃんが言うと、
「そうなんだけどねえ。」
と華岡は言った。そうやって事件の深いところに手を入れると、なかなか抜くことのできないのが、華岡という人間であると、杉ちゃんも蘭もよくわかっていた。
「そうだけど、この事件についてもう少し考えてみるとだよ、その峰子さんという人が、一番悪いというか、そんな気がするんだ。全ての原因を作ったのは彼女であるような気がする。」
「そうだけど、知的障害があるんだったら、そうするしかないんだろう。ほかに生かしておく手段も何もないじゃないか。どっかの外国みたいにさ、国が何か仕事をくれるとか、そういう国家じゃないんだよ、日本は。」
華岡の話に、蘭は、あきれた顔で言った。
「まあそうなんだけどねえ。従順なお兄さんの命を奪っておきながら、悪い男に近づいてしまった峰子さんも悪いと思うけど?」
と、言う華岡に、
「まあ、確かにそうかもしれないけどさ、彼女がちゃんと愛されているってことを、感づいていたかどうかね。それができていれば、危険な男のもとへ行ったりはしないと思うよ。」
杉ちゃんが、感慨深く言った。
「まあ、そういうケースもないわけじゃないな。家族と本人の認知がずれていて、信じられないほどにすれ違っている。」
蘭がそういうと、
「僕は、幸せというのはね、それなりに個人のやることがあって、それなりに生きていてよかったと思えることだと思うけどね。」
と、杉ちゃんがそういった。
「それがないとね、人間どんなに支えてやっても、つらいだけだと思うんだ。」
「そうだねえ。」
杉ちゃんも蘭もため息をつく。
「俺、どうしても、その峰子さんという人に、お兄さんの命を奪ったのは君だと伝えたいわけ。だってそうじゃないか。いくら障害があると言ってもだよ。お兄さんが事件に巻き込まれて、この世をさっている、これは、やっぱり彼女にも責任があるのではないかと思う。」
華岡は、いきなりそういうことを言いだした。まあ確かにそうだけど、と蘭は、それをストップさせた。
「でも、その峰子さんという人は、今どうしているんだ?障害者だから、お兄さんの葬儀にも出られないんだろう。親御さんが、全部取り仕切ったと思うよ。それに、知的障害のある人の中には、亡くなったと認識できない人もいるんだよ。」
「僕としてはそうだなあ。僕だったらどっか公共の建物に通わせるかなあ。午前中だけでもいいからさ、どっか違う場所に通わせるんだ。」
蘭が言うと、杉ちゃんが続けた。
「杉ちゃんどうして、そういう風に次にどうするかを考られるんだよ。本当に頭の回転が速いというかなんというか、、、。」
華岡は驚いてそういうと、
「だって、人間にできるのは、じゃあどうするかを考えるだけだ。とにかく、お前さんの話を聞いて、峰子さんという人が、このままだと本当に破滅に向かってしまうような立場であることもわかったし、それを何とか回避することが、周りのひとの役目じゃないのかよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「でも、杉ちゃんは、その人と身内であるわけでもなければ血縁者でもないのに。」
「そんなこと考えるから悪いんだ。誰かが行動を起こさなきゃ。少なくとも、華岡さんの、警察官でしかも警視という立場であったら、そういうこと言っていいんじゃありませんか?」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「僕は、称号というものは、あまり好きではないが、それを使って人を動かすことができるということは知っているよ。そういう人が言うと、なんか安心感が出るよねえ。」
という杉ちゃんに蘭は、ある意味杉ちゃんという人は、すごい人というか、変な人で、変なところで突飛な行動をとるんだなと、首をかしげたのである。
「そうすればいいさ。華岡さんの立場を使って、峰子さんに何かできることを見つけさせるように、仕向けてやってくれ。」
「わかったよ。杉ちゃん。」
華岡は、お茶をがぶ飲みし、カレーにかぶりついた。
「大変だと思うけど、頑張りや。」
杉ちゃんは、にこやかに笑っていた。
翌日。
「一体どうしたんですか。僕をこんなところに呼び出したりして。」
ジョチさんは、駅の近くにある喫茶店で、華岡にそう聞いた。
「いやあ、ちょっとねえ。どうしても聞きたいことがありまして。ご多忙な理事長さんであることは間違いないのですが、ほんのちょっとでいいですから、お話を聞いていただきたくて。」
と、華岡は、申し訳なさそうに言った。
「ええ、かまいませんけど、一体何かあったんでしょうかね。」
華岡は、ジョチさんに、先ほどの事件の話をした。ジョチさんも、ただ事ではないと思ってくれたのだろうか、真剣にその話を聞いている。
「そうですか。その峰子さんという人は、どんな家庭生活だったんでしょうか?」
「はい、俺たちが調べた限りの話ですけど、けっして安定はしていませんでした。ご両親もまだ健在で、二人とも、まだ働ける年齢であるのは確かなので、お金に不自由ということはなかったようです。兄の正雄さんも峰子さんのことを心配して、病院に通わせたりしていたとか。しかし、峰子さんは、精神状態は安定せず、自分は家にいてはいけない存在なんだと言って、暴れることも多かったようです。」
華岡がそういうと、
「そうですか。人間って不思議なもので、ご両親が一生懸命働いてくれて、お兄さんもいて、何不自由なく幸せに見えるのに、本人にとっては、非常に不愉快で、つらいという気持ちのほうが強くなってしまうんですよね。なんだろう、僕は、何人かそういう人を見てきましたが、みんな自分のせいで、本来持つべき幸せを失わせたと、口をそろえて言いますよね。」
と、ジョチさんは言った。
「そうですか。では、本来の幸せとはどういうことでしょうか?」
これまた抽象的な質問だけれども、華岡はあえて言ってみる。
「ええ、それはですね、子孫を残せなくなったということが、一番つらいと利用者さんたちはそういっています。やっぱり、人間は動物ですから、子孫を残すということに、何か意味を持ってしまうのでしょうか。自分が結婚して、子供をつくり、家が続いていく。これが、一番の幸せだ。それを、提供してやれない自分は最低だ、生きる価値がない。と、利用者さんたちはそういっています。」
ジョチさんは、そう答えてくれた。やっぱり偉い人は違うなあと華岡は思う。
「僕も、初めのころは、よくわからなかったんですが、製鉄所の管理を任されるようになって、利用している人たちにそういう気持ちがあるんだなということを知りました。みんな、親御さんもいて、兄弟もいて、不自由な暮らしを強いられているわけじゃないけど、なぜかご家族とうまくいかない。それで家が回っている家庭は、まったくないと言ってよいと思いますよ。必ず、何か、生きていて申し訳ないとか、自分なんて生きている価値がないと、嘆いていることがほとんどです。それに、年寄りと住んでいる家庭だと、さらに不安定になることが多い。年よりの保守的な考え方と衝突して、傷害事件を起こした例もありますし。」
「そうですか。では、家族といないほうが、よいということですかねえ?」
「理想的なものではそうなんだと思います。欧米では、介護が必要であっても一人暮らしをしているという例もありますが、日本ではまず不可能でしょう。障碍者が一人で暮らしていけるような法律はどこにもありませんよ。施設に入っているとか、そういう人であればまだいいのかもしれないですけど、実社会で生活していくことを強いられている障碍者は、ひたすら、自己否定と自己嫌悪の渦の中で生活することを強いられると思いますよ。」
「そうですか、、、。」
華岡は腕組みをして考えこんだ。
「確かに、こんな豊な世界ですもの、誰かに頼らないで生きていける、そして確実に子孫を残す、これさえできれば、いいっていう人も、いますよねえ。」
というか、ほとんどの人が、誰にも頼らないで、いきられるのが今なのだろう。でも、それで幸せになったのかと聞くと、別問題であるような気がする。
「非常に難しい問題だと思うんですけどね。まだまだ日本では、個別に生きていくというのは、むずかしいと思います。」
と、言うジョチさんに、華岡は、俺、どうしても峰子さんにお兄さんのことを自覚してもらいたいのですが、と本題を持ち掛けた。どうしても、この事件を作った張本人に、その自覚を持ってもらいたいと。
「そうですね。」
と、ジョチさんは、お茶を飲んで、ちょっと考え込む仕草をする。
「でも、いきなり、そういうことをいってしまうのもどうかと思います。そういうことは、意外にそういう障害のある人は、敏感なことが多いんですよ。それによって、彼女が余計に不安定になってしまうことだって、あり得ますよね。それでは、元も子もないでしょうから。」
「まあ、それはそうなんですけどね。俺は、彼女に、ちゃんと自覚をもって生きてもらいたいというか、そういうことをお願いしたいんですけどねえ。俺、知的障害を持っていると言って、それが免罪符になるとは思えないんですがね。知的障害があるからって、何も言わないのは、おかしいと思うんですけどね。」
華岡はそういうことをいった。
「まあ、そうでしょうね。それは認めますよ。でも、僕は、そういうことを指せるよりも、人間って、これだけ、優しいんだってことを伝えることが、一番だと思うんですけどね。」
と、ジョチさんは言った。
「それは、どういうことですかね?」
と、華岡が聞くと、
「ああ、僕たち、製鉄所では、そういう障害があるとか、傷ついているということは、当たり前だと思っているんです。というより、そういうことがなくて、製鉄所に来る子は、誰もおりませんよ。そういうわけですから、ほかの利用者も、みんな、お互いのことを敵視するわけでもないし、憎むこともしません。そういうことは、当たり前ですからね。利用者同士で、勉強を教えあったり、ほかのことで、助け合ったりして。それは、やっぱり、傷ついているからできることなんじゃないかなと思います。」
と、ジョチさんは答えた。
「それでは、お願いなんですけどね。もし、峰子さんが、製鉄所に行きたいと思ったら、ちょっと峰子さんをお願いできないでしょうか。」
華岡がもう一度聞くと、
「ええ、かまいませんよ。利用者たちも、仲間が増えてくれることで、喜ぶでしょうから。」
と、ジョチさんは答えた。
「じゃあ、俺、彼女に言ってみようかな。俺は、どうしても、彼女に生きてほしいと思っているんです。俺は、彼女をとがめる気はありません。それよりも、彼女に生きようという気持ちになってもらいたいんだ。いくら、生きていて申し訳ないとか、そういうことを感じてしまっても、それでも、人間というものは、やっぱり生きていかなきゃなりませんから。」
華岡は、やっと自分の言いたいことを口にできたような気がした。
破滅に向かって行くのではなく、どうか、自分で生きようということを考え抜いてもらいたい。それが、華岡の頼みというか、願いなのかもしれなかった。
「よし、ありがとうございます。俺、事件は終わってないような気がするんだ。警察は、犯人を捕まえてどうのこうのだけじゃありませんから。」
華岡はいつでもそう思って仕事をしてきた。犯罪を解決するのではなく、犯罪の原因も、その後のこともしっかりやって、社会をよりよくしていくことが、一番だ、華岡はそれを頭に置いている。
よし、それを踏まえて、峰子さんに会いに行こう。華岡は、そう思って、ジョチさんにお礼を言って、それでは、と、椅子から立ち上がったのであった。
破滅に向かって 増田朋美 @masubuchi4996
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