祈り
新原つづり
祈り
空からは鐘の音が聞こえている。人々は神に祈っている。空全体が厚い雲に覆われていて、まだ正午過ぎだと言うのに、辺りは異様に暗い。
僕は外の様子を窓から見下ろしていた。今さら神に祈る人々が、どうしようもなく滑稽に見えた。
そのときは刻一刻と迫っているのだ。何かが降ってくるような、不気味な音がする。僕は部屋の中のベッドを見た。そこには知らない女が横たわっている。
彼女はまだ若く、肌は張りがあり、驚くほど白かった。彼女の身を包む純白のドレスですら、その白さの前ではくすんで見えるほどだ。僕は自分の腕を見る。微妙に日に焼けた肌に、ところどころ青い血管が浮かんでいる。
彼女の髪も老婆のように白い。にもかかわらず、透けるような初々しさがあった。枕に無造作に広がる白髪を見る。その白さが今から起こる出来事を暗示しているように感じる。
彼女は寝ているのだろうか。注意深く見ると、その豊かな胸元が上下しているように見える。あるいは、死んでいるのだろうか。彼女は二つの解釈を平等に許していた。
外が少しだけ騒がしくなった。僕は再び外を見た。
何やら少し遠くに人だかりができている。先ほどまで祈っていた人々も、何事かとそちらに注意を向けている。
「あなたは祈らないのですか?」
気が付くと女は起き上がりこちらを見ていた。女は生きていたのだ。寝顔から想像できた通り、美しい女だ。ただ、その燃えるような青い瞳が、僕を不安にさせた。
「祈ったところで、何も変わりはしないよ」
「そうかしら」
女は立ちあがると、僕の方に近付いてくる。洗練された歩き方だった。どうして彼女のような人間が、こんな安宿にいるのだろうか。
「あなたは、人間は救われると思う?」
「救われるの定義によるさ。たぶん皆死んでしまう。それを救いだと言う人もいるし、生きることこそ救いだと言う人もいる」
「理屈っぽいのね」
彼女は僕の隣に立ち、窓の外を眺めた。人だかりは少し大きくなったように見える。
「あれは何かしらね」
「さあね」
どうでもいいことだ。もうすぐ世界が終わろうとしているのだ。
それから僕たちはしばらく黙って外を見ていた。相変わらず上空の鐘の音は響き続いている。不気味な音がして、ときどき思い出したかのように大地が揺れる。誰かが讃美歌を歌い始め、人々はそれに続いた。償いきれない罪が、今裁かれようとしている。灰色に染まる空全体に、取り返しのつかない声たちが木霊する。
「私の白い髪は」
彼女が突然口を開いた。その手が、白く美しい髪を撫でつける。
「昔は黒い色だったのよ」
僕は彼女を見る。彼女は目を伏せていて、目が合うことは無い。もしかしたら、彼女は何かを伝えようとしているのかもしれない。しかし、仮にそうだったとしても、僕は彼女の真意を理解できそうにない。
「神は」
僕は彼女に話しかける。
「なぜ人間が善悪を知ることを許さなかったんだろう」
どうしてこんなことを口にしたのかよくわからない。ただ、長い間疑問に感じていたことだった。知るべきことは他にたくさんあるはずだと思っていた。
「君も馬鹿げていると思わないか? 善悪なんてどうでもいいことを知ろうとしたばっかりに、僕たちは殺されるんだ」
彼女は何も言わなかった。怒っているようにも見えたが、その青い瞳はさみしげだった。
「外に出ませんか?」
「どうして?」
「あそこで何が起こっているのか、見に行きましょう」
彼女は遠くの人だかりを指差した。
「他にすることもないからね」
外に出ても、相変わらずの鐘の音と、不気味な音。小さな女の子が泣いている。近くには親らしき人の姿は無い。彼女は女の子に話しかけた。
「どうしたの?」
「お母さんが、どこにもいないの」
「かわいそうに」
彼女は女の子の頭を撫でる。その姿は深い愛情にあふれているように見えた。彼女の手のひらのぬくもりを感じたような気がした。
僕は女の子のお母さんがいない理由を考えてみた。ただの迷子であってほしい。お母さんは近くで女の子を探しているのだ。それ以外の可能性は、あまりにも悲しいことのように思えた。もうすぐ僕たちの世界は終わり、僕たちは永遠に口を閉ざすだろう。だとしたら、もうこれ以上の悲しみは必要ないはずだ。
僕たちは女の子を連れて人の集まるところに向かった。空の灰色が、地上の街すらも染めている。
「君たちはここにいるといいよ。僕が見てこよう」
ここで行われていることを、彼女たちが知る必要はないと感じたからだ。
人垣をかきわけて進むと、すぐに視界が開けた。人の輪の中心に、男が一人、血だらけになって倒れている。そして、もう一人の男がそのそばに立っている。その拳には血がべっとりと付いている。僕が想像した通りの光景だった。僕は輪の中心に進み出た。
「何だお前、止めようっていうのか?」
暴力をふるっていたと思われる男がすごんだ。男は筋肉質で、背も僕よりずっと高い。黒々とした髭が顎全体を覆っていた。
「こいつを助けようってんなら、容赦しないぞ」
髭の男に続いて周りからも野次が飛ぶ。こいつは人間の屑だ。こんな奴は痛い目にあって当然だ。いっそ殺してしまえ。
僕は倒れている男を見た。今は土や血で汚れてしまっているが、それでも高価な服を着ていることがわかる。顔は痛々しくはれ上がっている。もしかしたら端正な顔立ちをしていたのかもしれない。
「助け、くれ……」
男は弱弱しくつぶやいた。
「別に助けるつもりはない。君は、やられて当然のことを今までしてきたんだろ?」
僕の言葉に周りにいた連中が沸いた。髭の男もにやりと笑った。
「少し聞きたいんだが」
僕は髭の男に話しかける。
「なぜ、今、なんだ?」
「は? どういうことだ?」
「だから、なぜ、今、この男を殴ったのかと聞いている」
男はやっと質問の意図を理解したらしく、答えた。
「そりゃ、もうすぐ皆死んじまうからさ。死んじまったら復讐も何もできねぇだろ」
「だから、なぜ、今、なんだ? 機会は今までもあったはずじゃないのか? 警察に捕まることが恐かったのか? それとも、このごみ屑のように転がっている男の復讐が怖かったのか?」
僕は一息に言った。髭の男はしばらく呆気にとられていたけれど、やっと僕に言われたことが理解できたようで、見る見るうちに顔が赤くなっていく。
「小僧、ぶっ殺してやる」
髭の男はのしのしと僕に近付いてくる。周りは男に声援を送っている。非常にくだらない連中だ。こんな奴らは、神の裁きを受ける価値もない。
僕は隠し持っていた拳銃を出した。髭の男に銃口を向ける。男は呆然と立ち尽くしている。僕は安全装置を外し、引き金を引いた。
銃口から飛び出した弾丸は一直線に男の眉間に飛んでいき、そのまま頭を貫通する。男の眉間に開いた穴から、血か、あるいは脳みそか、そのようなものが飛び散った。男は天を仰ぐように倒れる。その黒々とした髭を残して、男は死んだ。
僕は拳銃を元あった場所に戻した。彼女と一緒にいるはずの女の子に見られたくなかったからだ。周りにいた連中は皆逃げていった。そこには僕と、ぼろぼろの男と、髭の男の死体だけが残った。人がいなくなると、近くに彼女が立っていることがわかった。
「一つ聞きたいんだけど」
ぼろぼろの男は自分が話しかけられたと気が付かなかったようなので、もう一度尋ねた。男は曖昧な返事をした。
「人が人を裁くことについて、どう思う?」
男は何も言わなかった。瞼の腫れで見えているのかどうかわからない目が、じっと僕の方に向けられていた。
僕は彼女の元に歩いた。彼女と一緒にいるはずの女の子は見当たらない。
「あの子は?」
「お母さんが見つかったわ」
「そう。それは良かった」
「あなたが殺したのね」
彼女が言った。その瞳はさみしげだった。
「君は僕を責めるかな?」
「そんなことしないわ。私だって、あなたと同じだもの」
「それは、どういう意味?」
僕は尋ねる。できるだけ誠実な態度で。思えば、初めて見たときから、彼女には何か特殊な感情を抱いていたような気がした。
「弟が自殺したの」
淡々と語る彼女の瞳の涙は、すでに枯れてしまったのだろう。彼女は、弟を殺した女をずっと探していたのだ。
「一昨日の晩だ」
黙りこんでしまった彼女の代わりに僕が話を続けた。僕たちは宿に向かって歩いていた。鐘の音が少しだけ小さくなったように感じた。
「僕が初めて人を殺めたのは。むかし軍隊に所属していたんだけど、戦争なんてないからね。銃の撃ち方はわかるけど、実際に人に撃ったのは初めてだった。僕は姉を殺されたんだ。文字通り、殺された。集団で暴行されて、その日のうちに死んだ。何の救いもないけど、せめてもの救いは、母がすでに他界していたことだ。母さんが耐えられるとは思えなかった。警察も捜査したけれど、結局迷宮入りさ。だから僕はずっと一人で犯人を追っていた。それで、やっと、一昨日、主犯格の男に辿り着いた。鐘の音が僕の頭にずっと響いていた。本当はもっと、もっと苦しめて、苦しめて、地獄を見せてから殺してやりたかったんだけど、自分でも驚くほどあっさり引き金を引いていたんだ」
一息に言い終えた僕の頬に、何か温かいものが伝う。不思議だった。僕は泣いているのだ。姉が死んで初めて、僕は泣いているのだ。
ああ思い出した、お前あいつの弟だろ。
鐘の音と、何かが降ってくるような不気味な音。その正体は何であるのか。神の怒りなのか。あるいは、福音であるのか。混濁した意識の中で、彼女の髪の白さだけが鮮やかだった。僕は姉の弟だった。灰色だった空は、今では漆黒のように見える。鐘の音が僕の脳を揺らす。知りたくなどなかった。姉の赤い唇。血。姉さんの血。どうしようもない気持ちを、僕はどうすればいいのか。
「一緒に祈りませんか」
その言葉で、僕は失いかけた意識を取り戻した。僕は隣にいる女を見る。
「祈るって?」
「さあ」
彼女は微笑んで、それから両手を合わせた。青い瞳は閉じられた。
なぜかは知らないけれど、今だけは、僕も祈ってみる気になったのだ。両手を組み、目を閉じる。さまざまな音が調和を保って頭に響いている。どうか、姉さんではありませんように。昔一度だけ神に祈ったことがある。けれど、どうやらそれは祈りではなかったらしい。今ならそれが理解できる。意識がほどけていく感覚、魂が優しく冷やされていく。鐘の音が響いている。あの不気味に感じていた音が、体の奥底から僕を清めていく。
「あれを見ろ!」
誰かが叫んだ。僕は目を開いた。暗い雲が覆う空に、いくつもの光を放つ物体が浮かんでいる。光はだんだんと強くなっていく。僕は目を細めた。
鐘の音が止んだ。異様な静寂が辺りを包む。僕たちは悟った。そのときが来たのだ。
僕は隣にいる女に目を向けた。強い光によって彼女の輪郭はぼやけている。彼女は祈っていた。音のない世界に、その祈りはあまりにも儚い。
彼女の閉じられた瞳から、何か光るものが落ちた。それが最後の一滴であることを、あわよくば、僕の願いが祈りに変わることを。
世界は完全な白になる。僕は再び瞳を閉じた。
祈り 新原つづり @jitsuharatsuzuri
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