Winter-02

 帰宅した沙羅は夕食の下ごしらえを終えてから二階の音楽室に向かった。今日発表された前期試験の課題曲はベートーヴェンから一曲、他二曲は自由に選曲できる。


 ベートーヴェンはクラシックの定番だが沙羅はベートーヴェンが苦手だった。しかも今回の課題曲は高度な技術と体力を要求されるベートーヴェンのピアノソナタ第23番〈熱情アパショナータ〉。

ピアノソナタ第23番〈熱情〉、第8番〈悲愴〉、第14番〈月光〉はベートーヴェンの三大ピアノソナタと呼ばれている。


自由な二曲の選曲は得意分野のロマン派からショパンとシューマンを選ぶことにして、苦手なベートーヴェンは特に練習が必要だった。


 楽譜を携えて音楽室の扉を開けた彼女はソファーに横たわる人物を見つけて仰天した。まさか音楽室に先客がいるとは思わなかった。


音楽室に客席用として設置されたソファーでうたた寝をしているのは悠真だ。テーブルには開いたままのノートパソコンと散らばった楽譜や書類。

ここで仕事をしていて寝てしまったようだ。


「悠真……?」


 声をかけても悠真は反応しない。ソファーに仰向けになって寝ている彼の茶髪を冷房の風が揺らしていた。


 前に晴が言っていた。悠真はグループのリーダーだから他のメンバーよりも事務所の人間との会議があったり、書類仕事もこなしている。

純粋に音楽を作ることだけが悠真の仕事ではないと。


(皆の帰りは夜って聞いてたけど……悠真だけ先に帰って来たのかな?)


リーダーの悠真は海斗達にはない重責を背負っている。ビジネスの話は沙羅にはわからないが、アメリカにいる父の行成とも悠真は頻繁に連絡を取り合って仕事の相談をしているらしい。


 沙羅はソファーの傍らにしゃがんだ。普段は見られない彼の無防備な寝顔。


(睫毛長いなぁ。鼻筋も綺麗に通ってて、唇の形も顔の輪郭も綺麗……。悠真は文句なしの美形だよね)


“綺麗”の言葉が悠真には似合う。高校時代のアダ名が光源氏だったのも納得だ。

弟の海斗も顔立ちは兄弟だから悠真と似ている。でも海斗はもう少し男性的な美形だ。

悠真の顔立ちは中性的でとても綺麗だった。


 ドキドキが止まらないのは悠真の寝顔の美しさに魅了されているから?


(……ゆうくん……?)


 甦るヴァイオリンと水色の記憶。男の子の奏でるヴァイオリンの音色と悠真が奏でるギターの音色は同じ色をしていた。

ピアノの連弾をして遊ぶカイくんと……ヴァイオリンを弾くゆうくん……?


 ――あなたは誰?

 ――知ってる? 知らない?

 ――知っている。

 ――“ゆうくん”は……


『ん……沙羅?』


 目覚めた悠真の一声で沙羅は我に返った。


「……おはよう……」

『おはよ。……お帰り』


寝そべった姿勢のままで悠真は沙羅の頭に手を伸ばす。優しい手つきで彼に髪を撫でられて恥ずかしくなった。


「ただいま……」

『今……沙羅の夢見てたんだ』

「私の夢?」

『うん。沙羅が笑ってた。俺だけに……笑いかけてくれる夢』


寝起きでかすれた悠真の声はなまめかしい。髪に触れていた彼の手が沙羅の頬に触れた。


『これが現実になればいいのにって思った。だから目が覚めたら沙羅がいて……すげー嬉しかった』


 悠真の真剣な眼差しに捕らえられて惹きつけられて、そらせない。腕を引かれた沙羅は仰向けに寝そべる悠真の胸元に顔を押し付けられていた。


悠真の心臓の音が聴こえる。

ドクン、ドクン、ドクン……。自分の鼓動と悠真の鼓動。この速さはどちらの鼓動の音?

密着した体が熱い。身体を起こそうとしてもきつく抱き締められて動けない。


『……俺も本気出そうかな』

「本気……?」


 切ない声の色が気になってやっとの思いで顔を上げた沙羅の視線と悠真の視線がぶつかった。


『好きだよ』


悠真の口からその四文字が紡がれた瞬間、心の奥に甘い痛みが走った。それと共に頭の中は真っ白。

だらしなく口を開けて放心する沙羅を見た悠真は目を細めて笑った。


『そんなに驚くこと?』

「だって……悠真が……私を好き……なんて……」

『信じられない?』

「だって、だって! 超絶イケメンで芸能人でUN-SWAYEDのリーダーでギターが上手くて優しくて料理もお裁縫もなんでもできる完璧マンの悠真が……」

『今ので沙羅が俺をどう思ってくれてるかよくわかった。……おいで』


 上体を起こした悠真に誘われて沙羅は彼の膝の上に向かい合って座らされた。沙羅の腰に回された悠真の両手は彼女を逃がさないようにしっかり組まれている。


「あの……これ……恥ずかしい……」

『そう? 俺は楽しいよ』


ニコニコと穏やかに笑う悠真を沙羅はねめつけた。人が恥ずかしがっているのにこの男はそれを見て面白がっている。

悠真は優しいのに、たまに意地悪だ。


『俺だってそんなに完璧じゃないんだよ。失敗もするし間違いもする。できないことだってある』

「……できないこと?」

『今ここで沙羅を俺だけのものにしたいのに怖くてできない。沙羅に嫌われたくないから沙羅が嫌がることはできない』


また心の奥が痛くなった。何かが甘く疼いて騒ぎ出す。


『海斗と星夜とキスしてるんだろ?』

「……うん」

『二人のこと、好き?』

「好き……だけどまだよくわからない。わからないのに二人とキスはしてて……。だから私なんか悠真に好きになってもらう資格ないんだよ。もっと他に可愛くて優しくて、悠真だけを見ててくれる人がいるもん。私なんか好きなっちゃダメだよ……」

『沙羅。私なんか、は禁句。俺の好きな女の子の悪口言わないで?』


 悠真の人差し指が沙羅の唇に軽く触れた。ギターを奏でる骨張った指先が沙羅の赤い唇をなぞる。

薄く開けた沙羅の唇の隙間から悠真の人差し指が口内に侵入してきた。驚いた沙羅は悠真の指に歯を当てないように注意しつつも、反射的に彼の指を舐めていた。


沙羅の舌が触れても悠真の指は口内から動かない。彼はギタリストとして命の次に大事な指を他人の口の中に入れている。


悠真の細長い指はやはりゴツゴツとした男の手をしていて、男の指を口に咥えて舐める行為はとても卑猥に思えた。

またペロリと悠真の指を舐めると彼は眉間にシワをよせて吐息を漏らした。悠真のこんな顔は初めて見る。


『……ごめん。もういいよ。これ以上は危ない』


 唾液の糸を引いて沙羅の口内から指が抜かれた。二人を包む熱を帯びた空気。

無意識にしてしまった指を舐める行為に今さら羞恥心が芽生えた。


『ピアノ使う? 練習に来たんだよね』

「……うん、そうなの! テストの課題曲が発表されてね、苦手なベートーヴェンだから練習しないとって思って、でも悠真の仕事の邪魔したくないし……」


素早く悠真の膝の上から退いた沙羅は早口でまくしたてた。


『いいよ。ここで仕事しながら沙羅の演奏聴いてるから』

「ええっ?」

『それとも練習の邪魔かな?』

「邪魔……じゃないよ……。でも苦手な曲の練習だから……」

『俺もアドバイスできることがあれば言うよ。自由に弾いてて』


 あんなことをした後なのに悠真は何事もなかったように平然としている。こちらの心臓を騒ぐだけ騒がして……からかわれている?


(そうだ。私を好きって言ったのもからかって遊んでるだけなんだ。うん、そうよ。だって悠真が私のことが好きなんて……)


鍵盤を前にしてもソファーにいる悠真の存在が気になって仕方ない。盗み見た彼の書類を持つ指先がさっきまで自分の口の中に入っていたのだ。


(指を舐めるってなんだかエッチだよね……)


 キスよりもエロティックな行為をしてしまった羞恥心と海斗と星夜に対して生まれた罪悪感。心に生まれたモヤモヤもドキドキも全部、鍵盤に込めればいい。


課題曲が熱情で助かった。心に渦巻く感情を音に乗せた沙羅の熱情の色は、羞恥の赤と罪悪感の黒が混ざりあった深い赤色をしていた。

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