Autumn-08
6月3日(Wed)
今日はショパンの〈雨だれ〉とドビュッシーの〈雨の庭〉を弾いた。ショパンがしとしとと静かに降る雨ならドビュッシーは激しく降り注ぐ雨。
今日の練習曲はすべて梅雨の時期に似合う雨をモチーフとした曲だった。
音楽の流派ではショパンはロマン派、ドビュッシーは印象主義音楽と分類され、表現の解釈が異なる。ロマン派が得意な沙羅はショパンの演奏の方が楽しかった。
レッスン室の窓から見える空模様は水気を含んだ灰色。九州地方は今日梅雨入りが発表された。関東地方も明日には梅雨入りしそうな天気だ。
帰りは独りだった。織江はフルートオーケストラのサークル、他の友達も演奏会やバイトがある。
沙羅も月に何度か放課後にピアノサークルの活動があるが、今週はサークル活動は休みだった。
渋谷駅のハチ公前広場で信号待ちをしていた沙羅の隣に男が並んだ。茶髪の髪にキャップを被った男からはきつめの香水の香りがした。
『さーらーちゃん』
ふいに隣で呼ばれた自分の名前に危うく返事をしそうになった。隣にいるのは知らない男。
もしかしたら別の“サラちゃん”のことかもしれないと思った沙羅は開きかけた口をきゅっと閉じた。
しかしまた男は沙羅の名を呼んだ。
『おーい。沙羅ちゃーん。シカト?』
今度は間違いない。男は自分に話しかけている。恐る恐る隣に視線を移した沙羅は見上げた男の顔を凝視した。
知らない男だ。けれど知らないのに知っている。
キャップのツバを後ろに向けて被る男の顔に、晴の過去に登場したやんちゃな少年の面影が重なった。
「あなた……律……さん?」
『おお、俺のこと知ってるってことは、あの写真見てくれた?』
「……はい。……私に何かご用ですか?」
『そんな警戒しないでよ。あんたには何もしねぇよ。今のところはね』
スクランブル交差点の信号が青になり人々が動き出しても沙羅と律は動かなかった。沙羅と律が立ち話をしていても誰も気にしない。
すぐ近くに交番はあるが警官にも通行人にも今の二人はありふれたナンパの光景としか思われないだろう。
『話があるんだ。ちょっと付き合ってくれない?』
「お話ならここで……」
『こんな道端だと誰に聞かれるかわからないよ? この写真ばらまいて写ってる人達がUN-SWAYEDでーすって今ここで大声で言ってもいいんだよ?』
律は沙羅に送った写真と同じ写真を持っていた。目の前にちらつくのは晴や悠真と写る被写体の自分。
UN-SWAYEDの正体を秘密にしているのは悠真達の考えあってのこと。彼らの友人の隼人や美月も迂闊に彼らの素性を口外していない。
信号機が青から赤に変わった交差点。次に青に変わった時、ハチ公前広場には沙羅と律の姿はなかった。
*
代官山の撮影スタジオではセカンドアルバムの初回限定特典のミュージックビデオ撮影が行われていた。
ミュージックビデオはアルバム曲の〈Wonder〉と〈full moon〉の二曲が収録される。
Wonderとfull moonの両方に同じ所属事務所の俳優の一ノ瀬蓮が出演。Wonderの撮影は5月に録り終え、今日はfull moonの撮影日。
海斗と星夜は事務所のレッスン室でボイストレーニング、ミュージックビデオの撮影に同行していた悠真と晴はスタジオの隅で撮影の様子を見守る。
〈full moon〉は愛を知らなかった男が最愛の人と出逢い、愛を知る物語。海斗が隼人と美月をイメージして歌詞を書いた楽曲だ。
スタジオの一室はレンガの壁にアンティーク家具が並び、曲の世界で生きる蓮は悲哀の表情でカメラに映っている。流れるfull moonのミディアムバラードと蓮の演技の相乗効果でスタッフは感嘆の溜息を漏らしていた。
衣装とセット替えで20分の休憩が訪れる。スタジオ内を忙しなく駆け回るスタッフの邪魔をしないように晴と悠真はスタジオの敷地内のテラスに移動した。
『蓮が隼人の役をやるって不思議だよな』
『隼人と蓮は見た目や雰囲気が似てるからイメージとしては適任だ』
二人は撮影の感想を言い合い、テラスで休憩時間を過ごす。
これから美月役の女優も加わって恋人達の日常シーンの撮影が始まる。美月役の女優も美月と雰囲気が似ている若手実力派の女優だ。
晴はスラックスのポケットから携帯電話を取り出した。サイレントモードに設定した携帯には15分前から不在着信が6件、すべて沙羅の携帯電話からかけられている。
『沙羅から着信が入ってる。悠真の方は?』
『俺の方にはない。俺達が仕事中ってわかってる沙羅は何かあればメールを入れてくれるのに珍しいな』
『……ちょっと待って。メールも入ってた』
最後の着信から2分後に差出人が沙羅の名前になったメールを受信していた。メール画面を開いた晴は凍りつく。
___________
受信メール01
From:沙羅
2009/06/03 16:47:21
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
円山町 ホテル エイリアス 304
オヒメサマとそこにいる
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この文面は沙羅が書いたものではない。晴にメールを見せられた悠真も眉をひそめていた。
携帯のネット検索でホテルエイリアスの名前を打ち込んで検索すると、いかにもそれらしい建物の写真が表示された。円山町は渋谷のラブホテル街だ。
『円山町のエイリアス……ラブホだな。オヒメサマが沙羅だとすると沙羅をこんな所に連れて行った奴がいる』
『問題は“オヒメサマと”そこにいる相手が誰か……』
『あの盗撮の後だ。誰かは予想はつく』
晴は沙羅の携帯に電話をかけ直した。コール音が途切れた時に聞こえた声は沙羅の声ではなく、どこかで聞いた男の声。
{久しぶりだな、晴}
『……律か?』
{アタリ。お前は昔から勘いいよな}
沙羅の携帯電話を使って晴と通話をする男の名は甲本律。晴が中学時代に親友と呼んでいた男だ。
『沙羅は?』
{沙羅ちゃんは俺と一緒にいる。無理やり連れ去ったわけじゃないぜ。本人同意の上だ}
『沙羅が同意してお前とラブホに行ったって言うのか?』
{ここに来て直接本人に聞いてみれば? 俺達まだここで“休憩”してるからさ。部屋は304だからな。間違えるなよ}
切断された通話。真っ暗になった携帯画面に眉間にシワを寄せた自分の顔が映り込んでいる。
『……悠真。もしもの時が来たみたいだ。沙羅が律と一緒にいる。あの様子じゃ沙羅に何をするかわからねぇ。もう……何かされちまってるかもしれない』
項垂れる晴の肩に悠真の手が触れた。
『スタッフには晴は体調不良で帰ったってことにしておく。早く行け』
『悪いな。……沙羅は必ず連れて帰る』
ここから代官山駅まで走れば5分。沙羅と律がいる円山町のホテルには20分もあれば着けるだろう。
スタジオを立ち去る晴を見送る悠真に新しい衣装に身を包んだ蓮が近付いてくる。
『晴どうした?』
『俺の代わりに沙羅を取り返しに行った』
『……ふーん。悠真は行かなくていいのか? 行きたそうな顔してるけど』
蓮には心の奥を隠していても見抜かれている。平静を装う悠真はミュージックビデオのプロットに目を通していた。
『俺はリーダーとしてMVの完成を見届ける義務がある』
『仕事人間だねぇ。内心は沙羅が心配でたまらないくせに』
『わかってるなら最速で最高の完成度を目指してくれ。このMVの世界を完璧に表現できるのは蓮しかいないんだ』
20年来の友であり兄弟のような関係でもある蓮と悠真は互いに最高を追い求めるプロ。
悠真の想いを汲んだ蓮は口元を上げ、ライトが灯るスタジオの中央に向かった。
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