10. 雨告げる
昨日の雨を想っていた。この家は僕の身体のある場所より西にあり、一日先の天気と似る。だからきっとあちらも明日には雨が上がる。
リビングには僕とナナだけがいた。ユウは学校で、本当だったらナナもこの時間にはまだいないのだけれど、後の授業がお休みになったのだといって帰ってきていた。切菜が消えてしまってから夏羅が長く顔を出さなかったので心配に思って探していたのが三週間前。見つけてから昨日までの二週は以前のような頻度で姿を見せてくれているから、今日も、彼はまだ来ていないだけなのだろう。彼らは毎日少しずつ、ぎこちなく、彼女のいなくなってしまったかなしみを癒していた。
壁に掛けられたカレンダーに目を移す。ヒトの描く暦は整然としていて明瞭で、だから季の境もはっきりとしていた。十二の月と四つの季節。三つ月を数えると、次の季節。
「――もう、夏になりますね」
つぶやいた声に彼女が振り返った。そのまなざしが煌めいて、僕の言いたいことの意味を正しく聞き届けたのだとわかる。次第に儚む色をして、やがて瞼をおろしたナナは「うん、」と短く頷いた。
蝉は、雨上がりの土の柔らかい日に地上へ帰る。だから僕らにとって雨は恵みであり、天啓のようなものでもあり、区切りを与えるひとつの標でもあった。それは、そこからはもう後戻りができないのだと悟ることでもあって――あなたのいない木々の間で鳴き朽ちていく未来を僕は自然と信仰している。残りの生はあなたのためにこの長い夏の終わりと、今年の初夏を謳うためにあるのだと。
夕には夏羅とユウの二人も揃って、僕らは普段通りにお茶をして、食事をして、食後は団欒して過ごしていた。買い物に行ったら枇杷が売られていて、買ってきたから明日食べようとユウが話すのに静かに笑みだけ返す。夏羅が、今日では駄目なのかと言うので「今デザート食べたばかりだろ」とため息混じりになつこく嗜められるのを微笑ましく聞いている。
「果楽さんは枇杷食べたことある?」
「……いいえ」
「なんで僕には聞かないの」
「夏羅サンはなんか食べたことありそうだから」
「ないし」と端的に言って拗ねてみせるのもどこか馴染みになっていた。無いのにあんなに食いついたの、と感心するユウ。「だってフルーツでしょ?」夏羅が何かの免罪を得るようにナナへと話を振ると、彼女はみじかく肯定する。「ほらね」「なんで得意げなんだよ……ダメ。明日切るから」彼が傾けたカップからは珈琲の香りがした。僕は夏羅に微笑みかける。
「楽しみですね。」
……この日を最後にしようとしていることを、僕は彼らには話さなかった。なんて言うべきかわからないけれど、そうして秘めておくことが報いになるような、誓いであるような、そういった切実を救うための手立てのような気が僕にはしていた。
夜更けに、僕とナナは再びふたりきりになった。閉じられたカーテンの向こうで垂れこめる夜半の気配が確かにある。それを彼女も知っていて、表情はずっと、どこか翳っている。
歩み寄りその両手を取ると一瞬、かなしく光る瞳があらわになった。そこにはかつての淋しさも見え隠れしている。
「果楽……」
いまでもこの名を呼んでくれる彼女にそっと、額を寄せる。愛しいひと。この身の生と死よりも大切な、僕のいとしい人。
目を閉じるのはきっと祈りのため。ここへ遺していくあなたの生涯が、いつも日向にあり、絶えない幻想の中にあり、どうか淋しいものではないように。
「愛しています。ずっと。あなたが僕を想うとき、僕はあなたの中で生きています。――僕の誓いを許してくださいますか」
ナナは少しだけ身を捩ったけれど、すぐに諦めたように動かなくなった。
「私も……愛している。永遠に……」
その声の震えを幸福におもえてしまってこぼれた笑みに、あなたは抱きすがって静かに泣いた。それは不思議とあたたかく穏やかな雨で、明日の僕もきっと、この肩越しの雨を想うだろう。
(どうか、この家に)
この景色に。この、短くて永い夏の日々に。
僕のこころの下に。
(どうかあなたが永遠に、囚われたままでありますように)
――この最期の祈りはあなたに纏わり、あなたを守ってくれるだろうか。
月はさらの夜を待ち侘びて物憂げに欠けている。それすらも見えない雨空は確かに僕とあの夏とを隔絶して、遠く、遠くへと洗い流してゆく。
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