9. 春翳はく円卓

 

 殺した。もういちど。

 これで終わりなのに、なのに、僕の切菜。僕たちの切菜。あのみどりを、勝手に食い散らかして許せなかった。

 だから殺した。もう一度。


 そのとき、僕の体は指先まで冷たくなっていた。ヒトのからだって、たくさん涙を流したせいで冷えたりするのかな。それとももっと別の理由。

 何度考えたって切菜は死んでしまった。僕が殺した。もう帰ってこない。一度は果楽が「お別れを、」と促したけど僕が拒んだ。死にゆく切菜を見てしまったら、気持ち悪くなって吐き出してしまいそうで。思考を繰り返すたびに寒気に襲われて、僕の肩に触れた果楽の手のひらも役には立たない。苦しかった。もしかしたら、生まれ変わりなんてないと思っていた第一生の死に際よりもずっと。

 あの頃は怖くなんてなかったのに。切菜の身体を食べ尽くすことを、ねえ、ほんとうに愛だと思ってたんだよ。

 だけど僕をゆるしてくれるあの声はもう聴けない。

 爪を立ててしまうまで、肩に置かれた手にこの手が縋っていたことにすら気づかなかった。果楽はわずかに指先を動かしただけで、その痛みから逃れようとはしなかった。



 声がかかる。会えてよかったと、胸を撫で下ろすその手に爪の痕はない。

 あれから一週間とちょっとのあいだ、僕はあの家に行かなかった。それで探されているというのは一昨日店のやつに聞いたから実際にそうやって安堵する果楽を見ると可哀想な気持ちにもなる。あとのふたりも含め、どんなふうに心配するかなんて冬の間に知っていた。

 テーブルに用意されるのはアールグレイとアッサムのストレートティーで、家とは違う。家では最近はいつも、僕はダージリンのレモンティーで果楽はアップルティー。紅茶自体覚えたのはこの生からで、そう、だから、何が好きなのかわからなくて二人でここで珈琲を飲んだこともあったっけ。あんまり好きじゃなかった。ユウはいつもブラックで飲んでて、……それは意味がわかんないけど、ナナがたまにカフェオレにして飲むから僕にも作ってもらったことがある。……。


「二人とも寂しがっていますよ」


 そう告げる果楽の表情は柔らかかった。ときどき君って変なところでタイミングがいい。変なところっていうのは、僕の都合の悪い時のこと。

 僕が何も言わずにいなくなっていたことも、切菜のことも、果楽は何一つとして責めようとは思っていないみたいだった。それに安心しちゃうのが、やだ。生きてるって言っといて、なんて伝言もさりげなく許してくれないから、僕は目の前のカップに視線を落としてそのゆらめく水面を見る。少しだけ店の天井と僕の顔を映し出しているけれど表情まではわからない。どんな顔をしていればいいのかも、よくわからない。

 違ったらすみません、という断りを置いてから、「夏羅は負い目を感じているんですか」と問うた。果楽を見ると、まっすぐに見つめ返してくる案外意思の強いひとみ。僕は目線を横に逃して、それを答えにした。


「……あのときは咄嗟に責めてしまってすみません」

「謝らないでよ。君はべつに悪くないでしょ」


 アールグレイを一口飲む。少しは気持ちが落ち着くような気がして。それを待ってくれるような間をおいて、「でも、あなたも悪くありませんでした」と果楽は言い切った。


「あなたが優しいひとなのを知っています。ナナも、ユウも、そして切菜も」


 その声は静かなのに不思議と店内に余韻を残す。僕ら以外に客はいなかった。陽を厭う薄暗さよりもオレンジのあかりの熱のほうがほんとうのことのように感じるのも不思議だった。カップを置く瞬間、光が入って僕の影はみえなくなる。

「果楽は、」僕はずっと聞きたかったことをはじめてこぼした。「怖くないの? 消滅」

 ずっとわからなかった。ずっと聞きたかった。切菜の心配はするのに自分のことは少しも恐れていないみたいに見えるのが、僕にはこわい。怖くて、何度も意地悪な言葉を吐いたことすら気にかけてくれていないのはどうして。僕が羽化する頃には君はいない。それを忘れそうになって、忘れるのも怖くて、君には会いたくなかった。

 果楽は儚げに僕の言葉を受けてから、たしかなほほえみで答えた。


「僕はナナの、カゴの中の蝶なんです。――永遠に。」


 脳裏によみがえる、公園の温室の日差し。土の上に睡るナナに留まった蝶をはらって彼女の手を取り起こす、あの景色の永遠性。


「だから怖くはありません。それに、あなたがいるから……ナナもユウも寂しい思いはしないでしょう?」

「………やっぱり君ってずるいよね」


 すみません、と謝るくせになんだかうれしそうに笑っていて、泣きたいような気持ちがした。泣き喚いて駄々を捏ねても困ってはくれないようなしたたかな信心は、僕にとって救いにも、悲しみにもなる。どっちにしたって果楽も死んでしまう、その事実が僕らのあいだにあることを――きっともう忘れることはできない。

 

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