8. 蝶の跡

 

 眼前に飛び交う蝶の幻影を見る日がある。ツマベニチョウ、クロアゲハ、ムラサキツバメ、ルリタテハ。あの日のモンシロチョウもアオスジアゲハも、みんなおぼえていた。心を拾い集めるように見送った命たち。

 わたしのつみ。


 切菜ちゃんがきえてしまってから二日が経っている。キッチンからは勇が食器を洗う音がしていて、それだけだった。果楽は今日はまだ来ていない。夏羅は、昨日も来ていない。

 私は自分の椅子に座って勇の背中を見つめている。私より背の高くなった彼が、蝶を運んでくれていたあのちいさな弟と同じ人だというのがどこか夢のようで。その手はいつのまにか私たちの生活をつくってくれている。

 視線に気づいたのかおもむろに振り返って、「どうかした?」と戸惑ったように、だけど少しだけ表情を柔らかくして彼はきいた。それは多分彼の優しさで、きっと彼女にも向けられたのだろう。あるいは、彼らにも。


「勇は、おぼえている? 初めてくれたアオスジアゲハのこと」


 途端に顔色が翳ったのを、隠すみたいに背を向ける。「……覚えてるよ」

 その後も私の部屋によく訪れた種を、幼い頃の勇は捕まえやすいのだと教えてくれた。外へ出るようになってもあの美しい碧には道すがら出会う。中学校の校舎のかげに吸水に来る一頭は近づいても逃げたりせず、まるであの種が人に対してちかしいみたいに、切菜ちゃんも、そうだった。


「勇はどうして……、私に蝶をくれたの?」


 どうしてその問いを投げかけようと思ったのか自分でもわからない。だけど、そう、それを当たり前だと思っていた。今は少し――どこか、いびつに思う。

 相手はこころを決するような間を置いた。やがて、ほんのわずかにおもてをこちらへ向けようとして、向けきらないまま、なんだか仕方がないような笑みをこぼしてこう答えた。「姉ちゃんが喜ぶから……」

 私は自分の手元を、その指先を見る。白くてつめたい指先。


「……ごめんなさい。みんな死なせてしまって」

「わかっててやってたんだ。俺も共犯だよ」


 水の流れる音。訪れてしまった水曜日ジェ・ケーディーン、その現のなかで、取りこぼしてきたものたちを拾っている。私自身にわたしのことを教えるように、言葉にならなかったものも今は言葉を成していた。


「……切菜ちゃんが生きているとうれしかった。みんな帰ってきたような気がして」


 勇は蛇口を止める。「みんな?」振り返って問うてから、すぐに思い当たることがあってか視線を少し落として、「許してもらえてるような、気がしたよね」と。

 たぶん、そう。彼女がこの家に帰ってくることは私たちの罪をすすいでくれていた。同時に、羽ばたくようなはれやかなあの笑顔が幼い私の罪の重さを教えてもくれていた。いつか私の元で散っていった果楽と同じように。

 ――かつて、私は、どうして。


「……どこにも行ってほしくなくても、どこかへ行ってしまうの。いつかはみんな。わたし、それを確かめていた」


 数多の蝶たちを犠牲にして。

 仕事を中断した私の弟が向かいの椅子を引く。そうして向き合ったことがこれまで何度あっただろう。水にさらされたあとの、線を朧にした両手を緩く組んで肘をついた彼は、思いに耽るためか、もしくは告解のために、口元を隠して伏目がちに話し出す。


「姉ちゃんが『もう蝶はいらない』って言ったとき……、本当は、がっかりしたんだ。ほかに何をしたらあんなふうに喜んでくれるのか、よく……わからなかったから」


 だけど最後にはその手をほどいて静かに横たわらせた。私を見つめて寄り添うように痛い笑み。

 

「……果楽さんが死んで、悲しかったんだよね」

「――うん」


 悲しかった。標本にしてもそれは形見でしかなくて、どこかへ行ってしまったその跡を辿ることはできない。代わりの蝶なんていない。私はそれを本当に知って、その日から、蝶を見送る必要はなくなった。

 帰ってきた蝶たちがそれでも先立つ日をずっと前から知っていた。それでも、私たちは悲しい。彼女が雪いでいった罪すら恋しいほどに。

 窓の外から雨音がし始めた。真昼が終わってまた夜へと向かう、その先の朝の景色のことがまだ上手く想像できない。

 

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