6. 終の開花 ※
私たちはみんな、それぞれが、予感していたのかもしれなかった。
朝、静かなノックの音とわずかな気配がある。まだ微睡もうとする瞼をあげると扉の方、慣れ親しんだ顔が覗き込んでいた。勇は「ちょっと出かけてくる」と告げたので、私は不思議な心地がしながらも安心しきって、わかった、と答えた。
そこからもう一度眠って、今度は日が高くなりはじめたころに目が覚めた。リビングに降りていくとまだ勇は帰っていなくて、切菜ちゃんもいなかった。お腹を空かせたらしい夏羅が不服そうに勇の所在を問うけど、どこへ行くのかまで聞いていない私にはわからない。はんたいに切菜のことを訊けば、「さあ」とだけ、妙に歯切れの悪いような音で、また不満げに。
「ふあんなの?」
「……別に。お腹が空いただけ」
じゃあ何か食べようと思いはしても、キッチンのことはみんな勇がやっている。シチューだけなら作れるけれど、そのときですら勇があれこれ用意してくれるから何から始めたらいいのか思いつかない。そうしていたら夏羅がため息をついた。「お皿出して。うすいやつ」
朝露にきらめく葉の間に白い花を見つけて手を伸ばす。
ここへ来るのは久しぶりだった。クスノキは大木になるから登らないと枝葉に手が届かない木もあるし、街路樹とか、まして神社で育ったものを折るわけにはいかないので、採取するときは森へ来る。裏庭から抜けて、子供の足でも来られる近くの山の少し登ったところ。幼馴染みのこの景色は、まだ俺が物心つくかつかないかという頃にハウスキーパーに連れられて、七花とよく訪った。やがて世話役の大人がいなくなり七花が部屋に籠るようになっても、毎日のように一人でここへ来てたくさんの蝶や幼虫、その食草をとりにきた。思えばここも市の持ち物か誰かの私有地だったんじゃないだろうかと最近まで心配していたけれど、どうも出入りしていた範囲の土地は親の持ち物らしい。それには安心もしたけど呆れもした――両親にはこんな場所、必要なかったはずだから。まあ、俺と姉ちゃんには必要だったから結果的にはよかったんだけど。
――よかった、んだろうか。
この場所がなければあんなに多くの蝶は死ななかったかもしれない。アサギマダラもアオスジアゲハもここで捕まえた。彼らに後悔はないかもしれないけど、もし人の世に交わることがなければ……いったいどんな生を送っただろう。
掲げた利き手を下ろす。初めて俺の前に現れた切菜。一緒に買い物に出た時の自由奔放な切菜。カゴの閉塞をへいきだと言った切菜。やっぱりここで過ごしたいと、モンシロチョウの身体をその手に包んで帰ってきた切菜。彼女がどうしてそばにいてくれるのか本当は未だにわからない。今朝、早くに俺を起こしにきて「クスノキの花が見てみたい」と言い出したときのあの静かなささやきも。
「見たことないの?」
「私が生まれたころには咲いていなかったもの。……さがしてきてくれる?」
あのときの、微妙な違和感はなんだったんだろう。だけどそういう違和感をときどき抱えているような気がする。まただ、と、いつかの記憶をなぞっているのに思い出せなくて、やがて掻き消えてしまう。眠っているときにみる夢みたいだな、と考えたら、いつか彼女が生きていたことすらこうやってぼやけて消えてしまうみたいでぞっとした。そんなはずないのに。
でも――こうして抱いた違和感のことはきっと忘れるだろう。何年経っても、彼女の神秘は神秘のままで、やがて削り取られてなかったことになる。覚えているのは自分にとって都合のいい記憶だけになってしまうんじゃないか。
(まだ手の届くうちに、)
そう、今、手の届く内に知らなければ永遠に知らないままかもしれないんだ。
春から夏へと移ろおうとする、緩やかにもしなやかな風が吹いている。クスノキは静かにざわめいて、落とし損なっていた枝葉を落としていた。そうして足元に落ちたばかりの枝をひとつずつ拾いながら、あれらの小さなひっかかりを思い返していく。
ジャムのトーストを食べながら、切菜ちゃんは星の見える部屋にも勇の部屋にもいなかったのだと果楽が教えてくれる。いなかったとはいってもモンシロチョウの五齢幼虫はカゴの中に見つけられたらしいから全然いないのとはちょっと違うかもしれない。ただ、動いている様子もなかったって。ひとがたでどこかへ出かけているということなんだろうか。(そういえば、)私はふいに思いついて数えてみる。きのう、おととい、……六日前。
「二人で出掛けているんでしょうか」そう言う果楽はもう自分のぶんを平らげてしまって、少し所在なさげにしていた。夏羅もそんなふうに感じたのか、さあね、と相槌を打ったあとに「二枚目欲しかったら自分で焼きなよ」と声を掛けていた。「……いいんでしょうか、」「いいでしょ。ねえナナ?」「大丈夫。……たぶん」枚数を減らす食パンは、二人が帰ってきても振る舞ってあげられそうにない。
「心配、ですね」
トースターの前に立って焼き上がりをじっと待っていた果楽がぽつりと。夏羅は答えなくて、私もどう返したらいいのか、わからないでいた。
異変が起きたのはそれからまもなく、本を探すために自室へ向かう途中で悲鳴のような呼吸が聞こえてきたのがはじまりだった。無意識に体をこわばらせるほど悲痛な音は勇の部屋から聞こえてくる。それがほんとうの悲鳴に変わるまで……すぐだった。
厭、と叫んだように聞こえた。導かれるようにして戸をあけると、切菜が床で蹲っているのが見えた。尚も叫び続ける声を聞きつけて下階にいる二人が上がってくる気配がする。泣き喚く中で、「みないで」と言ったのがかろうじてわかる。そして、彼女から立ち昇る陽炎のような無数の人影。
―――探していたのはモンシロチョウについて書かれた本だった。五齢の幼虫はたしか、三日でさなぎになる。なり損なうなら、その為の器官を失っているかもしれないと……奪われているかもしれないと、そういう記述のある。
私はそっと彼女に近づいて肩に触れた。
「居ないわ……。あなたの中には、誰もいない」
指先でゆらゆらと不気味に揺らいでいた人影が薄らぐ。涙で濡れた切菜ちゃんの瞳が私をようやく見つけて、かなしそうに顔を歪めるとこの腕に抱き縋った。肩越しに、不気味に笑う顔が交互に浮かび上がっては消えている。それを追い出すように、堅く目を瞑って私もぎゅっと彼女を抱きすくめた。
アオムシコマユバチは二つになったモンシロチョウに植って、たくさんの兄弟と宿主の肉を分けながら育ち、一斉に外の世界へ出てくると、宿主の上で繭を生す。その開花が、訪れようとしている。
悲鳴が聞こえてきてユウの部屋へ駆けつけた僕らは、ナナと切菜が無数の影に怯えるように互いを抱き寄せる姿を目の当たりにして言葉を失ってしまった。その影が誰なのか僕にはわからないものの、僕らと同じように擬人しようとする、何かの生命なのだということだけがやっとわかる。それにしては渾沌として形を成しきらず、無邪気な悪意が滲んでいた。
「あれは……」
何、とすら言葉にならない。おそらく切菜は彼らに苛まれて命を落とそうとしている。夏羅が何かに気づいたようにはっとして彼女のカゴへ歩み寄り、その蓋を開いたかと思うと、取り上げて出て行く。ただならない雰囲気を感じて彼を呼びながらあとを追った。
開かれたままだった扉を抜けて、星の見える部屋で足を止めた。室内は日差しに満たされていて長閑なのに、対照的な音をたてて彼の足元にカゴが落ちる。
切菜の身を右手が
「――なにを、して、」
顎は確かに肉を噛んだ。噛んで、噛んで、喉へと送る首筋の動きまで、春風の匂いの中で見届けてしまう。一瞬はいずれ棄て去る殻の、内側に描かれた画なのではないかと信じかけた。いま見えているものすべて、真実ではないのだと思っていられたらどんなによかっただろう。
一つの呼吸ののちに、振り向かないまま彼は言った。
「イモムシって、どれも大して味変わらないんだね」
……なぜ、こんな。どうして。混乱する感情の中で記憶が錯綜している。彼の前世は宿り蜂だったと――だから、蝶の子の味を知っている。だから。だから?
彼が今喰ったのは、生きたままの切菜だ。
「なんて、ことを、夏羅」
非難の色を帯びた声は悲鳴に似ていた。おそらく、僕はアサギマダラだったころの感情で彼を責めていて、それが正しいのかどうかもわからない。
やっとこちらを見た夏羅の瞳ははじめ、昏く澱んでいた。それが一瞬あとに潤んで急に痛ましいものになる。そのくちびるが、僕以外に喰われて死ぬなんて嫌だ、と紡ぎ、溢れる涙をまばたきがこぼした。濡れたまつ毛が、寄せられた眉根が、まっしろな頬が、彼の心中を物語っている。僕は彼の言葉を聞いてようやく、あの影は切菜に寄生して蝕んでいるものなのだと理解した。
いったいいつから。振り返るなら、それはきっとその身を連れて帰ったあの日のこと。僕にはそれがわかるような気がした。最後に眠るなら、あなたの隣がいい。
せつな、と、恐ろしいほど憐れな声が吐き出しそうにか細く呼ぶ。夏羅は胸元を掻くように掴んで俯き、その場に頽れた。
切菜の身体がびくりと跳ねる。目を開くと、もう知らない影は見えなかった。
「切菜ちゃん、」
名前を呼ぶのと同時に自然と涙がこぼれる。悲惨で懐かしい感情が湧く。彼女はもう、消えてしまうのだと、記憶がそう示している。
ナナ、と弱々しく彼女が返した。いつからと振り返るなら、それはきっとその身を連れて帰ったあの日のこと。カゴには蓋がされて、二齢の幼虫はあれから一度も外気に晒されなかったはずだった。それは彼女が自分に再び巡ってきたさだめを知ってここへ来たということ。もう決して、自由に飛ぶことができないと知って……ほかのどこでもなく、この場所をさいごに選んだということ。
ふと勇の居場所を問うと、寄る辺なく微笑む音がする。「見られたく、ないの、わたしの苦しいところ」
帳が降りていく。まだ高いところに陽はあるはずなのに、私たちを包むのは、ましろい夜。
目を閉じたらすべてなかったことになってしまうように思えた。せつなのゆめのように。
紅葉と落枝の中にもちいさな花が落ちている。さきがけて咲いたんだろうその六枚の花弁はまだ白さを保ったままで、これが君のあこがれていた花だと見せてやるのに十分だと思った。枝を折るのはなんだか忍びない気がして――。
そのとき、花冠を作ってみせたときの切菜の様子が思い浮かんだ。シロツメクサで編んだそれを、彼女はただ静かに「すごい」とだけ言ったんだ。
(あ、違和感………)
もっと目をキラキラとさせて喜ぶんじゃないかと思ったのに、そうではなくて。面白くなかったのかなって、なんだか不思議で。
それは、花が摘まれてしまったから?
確証はない。けれど種を生さずにただ枯れていくだけになってしまった花々は何かに似ていた。何に、なんて言葉にするまでもない。切菜は頭を飾った花冠を不慣れな様子で微笑んでくれた。幸せそうに、見えたんだ。それでもいいと言うように。
(似てる、)
カゴの狭さを許してくれたときの言葉に。寄生したいのちを育む自然を受け容れていた慈愛に。ふとした静かな微笑。似ている。大丈夫、平気、そう言う前の翳った表情を見たことがある。閉じた蓋。開かれたままの窓。君がただ微笑むときはいつも、すぐそばに悲劇があった。
じゃあ今朝は?
違和感、そうだ、どうして切菜はクスノキの花を「探しに行こう」とは言わなかったんだろう。本当に見たいなら彼女は俺を連れ出すに違いなかった。だったら何故。多分、行きたくても行けないか――花を見たいわけじゃないんだ。
足元に落とした枝がバラバラと鳴った。彼らに急かされるまでもなく、この足は道を引き返し始めている。
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