4. 子夜の審判

 白いシーツの中で身体を丸めるその肩が、安らかにわずか上下するのを見ていた。

 切菜の部屋とカゴの設えが終わって夜。夕食のオムライスもたくさん食べて、はしゃぎながらお風呂に入って、新しく買ったパジャマを着て彼女は眠りについた。あの頃と大して変わっていないようにも見える背格好はよく見るとすこし大人びてもいる。むしのからだの実年齢とは関係ないのだろうか。果楽さんも昔見かけた時より成長しているように見えるから。

 ……あの頃。切菜がアオスジアゲハの頃。日数にしてみれば短かったに違いないのに、三ヶ月も四ヶ月も一緒に暮らしていたような気がしてしまう。ほんとうは一年生きるいのちだったのに、それが半年で喪われたような――そんな感覚だから。

 布団をかけてやる背後から、俺を呼ぶ声がする。七花を振り返ると彼女も眠る準備を整えて、そっと戸口に立っている。なんだか珍しい気がしてじっと見返してしまうけれど彼女はそこから動かない。ようやく、何か話そうとしているんだと気づいて切菜を起こさないように部屋を出た。

 七花はそのまま、俺の部屋に視線を遣って言う。「勇はどうして、蓋をしようと言ったの?」

 どうして。どうして? 質問の意外性もどこからくるのか一瞬わからなかった。だって、そうだ、俺の行いにこの人が興味を持つことなんてなかったんだ。咄嗟に取り繕うような言葉を選びそうになるのは嫌われたくないから。失望されたくないから。たぶんそうやって生きてきた。そうやって、沢山の蝶を見殺しにしていた。姉ちゃんは今なんて言ってほしいんだろう。たぶん、やっぱり蓋はしなくていいかもね、って言ったら、安心するのかもしれない。満足するのかもしれない。

 本当にそうだろうか?

 ちゃんと聞いてくれるのかもしれない。はじめて聞いてくれるのかもしれない。俺が切菜のカゴに蓋をしたいのは、ただ、


「もう二度と……同じ思いをしたくない、から」

「……?」

「自由に飛んでほしいんだ、今度は」


 ひらひら、ひらひらと。俺が奪って、奪われて、受け止め切れないまま手放した彼女の夢をもう二度と取り上げたくはない。解放された窓から来るものが怖かった。あのときだって、蓋さえしてれいればよかったんだと――ずっと後悔している。だけどその後悔をせずに済んだら夏羅は生まれて来なかったかもしれなくて。だからあの人に説明を求められたとき二の句が継げなくなったんだ。「前はそうやって死んだ」と知らせたところで誰も幸せにならない。

 羽化まで危険のないように、と、七花がつぶやく。それに頷いて、そのまま俯きがちになった視界の外から彼女が応えて言った。「分かるような気がする……」

 それを俺は、救いのように思った。盲目に沈んだ景色の端にあわく光る導きで、辿れば往くべき道が判るような。縋るように自然と上向いてしまう。「でもね、勇」


「大事に囲ったところで、あんまり意味がないわ」


 夜の闇と影とはどちらがどちらの色なのだろう。次の瞬間、思いもよらずそれらは反転していた。

 ――ときどき、自分のこの感情は信仰に近いものがあるような気がする。こんなときでさえ思うのは七花のことだ。いつの間にか隣にいた少年。からっぽになった部屋。、手に入ったことのないこの人がそう言うのであればもう、動かしようのないこの世の真実なんだろう。「じゃあ、どうしたらいいの」絞り出した声は頼りなく震えていた。「どこへも行ってほしくないとき、姉ちゃんならどうするの」


 報われないものなんだろうか。どんなに想っても、大切でも、願っても祈っても、標本箱の蝶のように永遠に夢を見せてはくれないの。

 本当は切菜が死ぬのが怖いんだ。ただそれだけで、死なずにいてくれたらずっと飛べないままでも俺は満足してしまうかもしれない。自由に飛べるようになったからここでお別れね、と言われたら送り出せないかもしれない。明日も明後日もシーツに包まって眠る切菜を見ていたいし、果楽や夏羅が家に来て、五人分のお茶も食事も文句言いながら結局用意する日常がいい。誰だって、どんな理由でだって、もういなくならないでほしい。家の鍵を閉めるだけでそれが叶うならよかったのに――そんな都合のいい世界ではなかった。

 俺のいとしい人は一言、もう憶えていない、と言った。

 

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