季を愁う
窓を開けると、秋の色をした朝の空気が鼻をくすぐる。まだ暑いのに季節は移ろうんだなあなんて考えていたら庭先に
「いらっしゃい。何か飲む?」
「いただきます。ええと……紅茶で」
今日は日曜だから姉ちゃんはまだ起きてきていないし、
そのまま、前々からぼんやり気になっていた疑問が浮かぶ。
「果楽さんさ、あの……」
「はい、なんでしょうか」
「……その。ちょっと気になっただけだから答えたくなかったら答えなくていいんだけど」
早朝のうすい空気の中だから滑り出てきてしまったものの、この質問は普段触れない範囲のものだって徐々に気がついて歯切れが悪くなる。相手は微笑んで、もう一度俺の問いを促した。
「アサギマダラだったとき……なんか、早くなかった? まだ八月なのに、このあたり飛んでた、けど」
聞くのが悪いような気がするのは、その飛んでた果楽さんを俺が捕まえたからだ。
緊張する俺とは裏腹に果楽はきょとんとして、すぐに破顔した。「どんな悪いことを訊かれるのかと心配してしまいました」なんて言うから、やっぱり許されているんだなと複雑な気持ちになる。心が広いよ。
「そうですね……、僕は――僕たちは、藤袴の花の香で目覚めたんです」
「フジバカマが咲いてるとこだったんだ」
「はい。あとはそれを追うだけの旅なので……」
じゃあ、必要な花はちゃんと咲いていたということなんだろうか。あの年、とくに例年より早く秋が来た印象はなかったんだけどな。
果楽の視線がふと遠くなる。そういえば、と接がれる声には不思議がる様子があった。
「日差しが強いなと……思ったような気がします。ここに来るまでに花も途切れて、しばらく惑って留まった」
「えっ、そうなの」
「はい。そうして、ナナのところにいるうちに秋が――ああ、ええと、僕らにとって季節とは、追うものであり背後に迫り来るものでした。夏といえば永遠に辿り着くことのない遠い地のことで、秋といえば冬を連れてくる気配のことです。順調な旅のさなかには名前がありません。だから、ナナの言う秋や冬という言葉にも違和感を抱いたことがなくて」
そうか、季節の概念からちょっと違うんだ。確かに気温や吸蜜する花に合わせて旅をするアサギマダラ自身には、環境の変化がほとんどないとも言える。
ふと気になって、冬は果楽さんたちにとってどんなものだったのか問う。このときだけ、こちらを見た彼は微笑まなかった。
「死です」
それを、畏れているようにも悼んでいるようにも見えない表情。いつか春の夜に見たスズムシの擬人と重なる、死を知っている者の表情のような気がした。
「……そうだよね。ごめん、変なこと聞いて……」
人間にとって、死がなんなのかは解き明かせない謎のようなもので。答えに辿り着いたら一様に口無しになってしまう。それは別に、本当は虫たちだって同じはずだけど、果楽さんたちはそれを超えて今を生きている。前世の記憶を引き継いでいたって死は死だ。(……さいてい…)最初の質問よりもっと悪い。殺してきたのは俺のくせに。
ユウ、と穏やかな声が呼ぶ。許さないで。いてくれたら、いいのに。(………切菜……)
「ユウ。……あなたたちにとって、冬はどんなものなんですか」
俯けていた顔を上げると、果楽さんは申し訳なさそうに笑っている。「教えてください。ひとと冬を越すのは初めてなんです」
「……寂しいよ。虫たちがいなくなるから」
なんとか絞り出した言葉に間をおいて、ナナもそう言っていました、という優しい返事がある。懐かしむみたいだったから、昔にそんな話をしたんだろう。俺も、姉ちゃんが冬になると寂しがるのを知っている。
果楽の手がカモミールティーのカップを包み込むのが視界に映った。じんわりと手先が温まるあの感覚を想起して、肌が震える。そのあとはすぐに暖かくなるのだ。
「今年は寂しくないですね。僕らも、あなたたちも」
冬は温もりを探す季節。あたたかい服と食べ物と、それから誰かの隣にいること。夜空の星の灯り、雪の感触、冷たくて寂しい美しさに愛しさを見出すこと。
その全部を教えられたらいい。きっと、このひとは解ってくれるんだろう。
それで報いになるだろうか。
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