第17話 白菊2
「……さま……お嬢様……!」
暗闇の中、繰り返される呼び声。
その声を頼りに重たい瞼を持ち上げれば、霞む視界に若い男の顔が映し出された。
ジャン、とその名を呼ぼうとするも、エリーズの喉はか細い息を吐き出しただけだった。
ジャンはエリーズと目が合うと、ほんの一瞬だけ安堵の表情を浮かべてから、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「お嬢様……良かった……もう、目を開けて頂けないかと……」
ジャンは声を詰まらせながらそれだけ言うと、寝室に移動させたテーブルの上からカップとスプーンを取り上げた。カップの中身を掬い、エリーズの唇に寄せる。
「湯冷ましです」
唇を小さく開けば、ジャンは慎重な手つきでエリーズの口にスプーンの水を含ませた。エリーズの喉が動くのを見届けて、もう一口。三口目でエリーズが咽せて咳き込むと、慌てて背中をさする。
ようやく咳が治まったエリーズに、ジャンは籠に入ったパンを掲げて見せた。
「今朝買ってきたばかりなので柔らかいですよ。少しだけでも召し上がりませんか?」
ジャンはその顔に、無理に作ったような強ばった笑みを浮かべていた。
申し訳ないと思いつつも、エリーズは首を横に振る。食欲はまるで感じなかった。
「では、スープはいかがですか? 一口だけでも……」
エリーズが再び首を振ると、ジャンは笑顔を消してうなだれた。それから、力なくベッドに横たわるエリーズの小さな手を、両手で包み込むように握った。
「お嬢様……どうかお願いです。お屋敷にお戻り下さい。このままでは、お嬢様のお命が……」
いや、と反射的にエリーズは声にならない声で答える。もう何度も繰り返されたやり取りだった。
自分の身体の状態が悪いことは、エリーズ自身にも分かっている。軽い喉の違和感を覚えた翌日には高熱が出て、ベッドから起き上がれなくなった。それから何日経ったのか、エリーズには分からない。夢と現を行ったり来たりする中、目を覚ませばいつもベッドサイドで世話を焼いてくれるジャンは、見る度に目の下のくまを濃くしていた。
エリーズの口の動きを見て、ジャンは唇を噛み、目を伏せた。
「申し訳ありません……俺が間違っていたんです。やはりお嬢様をお屋敷からお連れするべきじゃなかった……」
違う、ジャンは何も悪くない、だから謝らないで。そう伝えたくて、エリーズは小さく首を横に振る。
けれど、ジャンはますます顔をうつむけた。小刻みに震える両手でエリーズの手を恭しく持ち上げ、自らの額につける。まるで祈りを捧げるかのように。
「……俺では、満足に薬を買うこともできません。このままではお嬢様は……。ですが、お屋敷にお戻りになればきっと……。どうかお願いです。俺はお嬢様に生きていて頂きたいんです。お願いです。俺にできることなら何でもしますから……」
ジャンの声は震えていた。
ふと、ジャンに握られた手に、何か温かいものが触れる。
焦点の定まらない目でエリーズが見たものは、うつむき、とめどなく涙を流すジャンの姿だった。
あぁ、とエリーズは吐息を漏らす。
ジャンの涙で濡れた指先に、わずかに力を込めた。
顔を上げたジャンに頷いて見せ、エリーズは最後の願いを口にした。
*
ベッドサイドで麻紐を編み込むジャンの手元を、エリーズは横たわったままじっと見つめ続けた。
麻紐を編み込んだだけの質素なブレスレット。それはすでに一つ完成しており、もう一つも直に出来上がるだろう。そのときが、ジャンとの別れのときだ。
グラニエ伯爵家に戻れば、もう二度とジャンに会うことは叶わないだろう。だからエリーズは、最後にジャンと『契りの腕輪』を交わすことを願った。ジャンと繋がるものを、何か一つでも手元に残しておきたかった。
ジャンが、編み込んだ麻紐をぎゅっと結び、鋏で端を綺麗に切り揃えた。
「お嬢様、こんなものしか準備できなくて……」
申し訳なさそうなジャンにわずかに口角を上げて応え、エリーズは差し出されたブレスレットに左手を伸ばした。
その青白くやせ細った手首に、ジャンが麻紐のブレスレットを結び付ける。
エリーズもジャンの手首にブレスレットを結ぼうとしたが力が入らず、ジャンが自分で結ぶのに手を添えただけだった。
「本当に、よろしいのですか? 俺なんかがお嬢様と来世を誓うなど……」
何度も繰り返された質問に深く頷けば、ジャンは覚悟を決めたように口を引き結んだ。
「お嬢様、お手を……」
粗末な麻紐のブレスレットをはめたジャンの手が、揃いのブレスレットをつけたエリーズの左手を握る。
「お嬢様、来世も……いえ、来世こそはお嬢様を幸せにすると誓います」
エリーズを静かに見つめる茶色の瞳。
それを真っ直ぐに見つめ返し、エリーズは口を開いた。
「……ジャン……来世も……」
喘ぎながら、掠れた声を絞り出す。
ジャンの手に力が込められた。
優しい茶色の瞳がぼやけていく。
「あなたと一緒に、生きたい……」
ようやくそれだけ言い終えて、エリーズは目を閉じた。
最後に見たジャンは、柔らかく微笑み、静かに涙を流していた。
*
次に目覚めたとき、エリーズの目に映ったのは、グラニエ家の離れの天井だった。
見慣れた天井をぼんやりと眺めれば、ジャンと過ごしたこの二ヶ月余りの出来事が夢のように感じられた。
けれど夢ではない。それを確かめようと左の手首を触るが、そこにあるはずのブレスレットはなかった。
突然、言いようのない不安がエリーズを襲う。
「……ジャンは……」
いったい自分は何日眠っていたのだろう。
ジャンはどうなったのだろうか。
グラニエ家からの出奔はエリーズ自身が決めたこと。ジャンはその手助けをしてくれただけだ。ジャンは何も悪くない。ジャンが罰を受けないよう、父に事情を説明しなければ――。
「死にました」
氷のような声音が、エリーズの思考を停止させた。
ひゅっと喉から息が漏れる。
錆び付いたように凝り固まった首をぎこちなくめぐらせば、無表情にベッドを見下ろす侍女の姿があった。確か、ジャンに好意を抱いていた侍女。
彼女は今、なんと言ったのだろうか――。
「ジャンは死にました、処刑されました、お嬢様を拐かした罪で、首を刎ねられました」
感情を押し殺した侍女の声が、エリーズを容赦なく貫く。
最後に見たジャンの顔が、手の温もりが、エリーズの脳裏に浮かび、消えた。
「ぅ……ぁ……!」
声にならない悲鳴を上げ、エリーズの世界は再び暗転した。
そしてそのまま二度と、光を浴びることはなかった。
*****
無言で馬車に揺られ、帰路につく。
サラがエリーズの墓前で意識を失っていたのは、ほんのわずかな間のことであったらしい。目を閉じて動きを止めたサラを、若い侍女は祈りを捧げているものと思ったようで、特に訝しむ様子はなかった。
ブロンデル家の屋敷に戻れば、にこやかに声を弾ませるネリーに出迎えられた。
最後の仕上げを終えたウェディングドレスが、仕立て屋から届けられたのだという。
「嬢ちゃま、念のため、試着をなさって下さいな」
上機嫌のネリーに急かされながら、嫁入り道具が占拠する客室に向かえば、トルソーに掛けられて、純白のドレスが眩いばかりの輝きを放っていた。
貴族ご用達の仕立て屋に依頼し、何度もデザイナーとの打合せを重ねて作った、世界で唯一のウェディングドレス。仕事で忙しい中、いつもデザイナーとの打合せに同席してくれたオレールの顔が浮かんだ。
ネリー達侍女に促されるままに、ウェディングドレスに袖を通す。
「まぁ、嬢ちゃま。本当に、なんてお綺麗ですこと」
大きな姿見に目をやれば、青白い顔をした少女が、純白のウェディングドレスを纏ってこちらを見ていた。
少女は無言でサラに問いかける。
本当に、この姿で、胸を張ってオレールの隣に立てるのか、と。
サラの答えは決まっていた。
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