第16話 白菊1
違う、ここでもない――。
馬車の窓から流れ去る景色に目をこらし、サラは心の中で呟く。
王都の中心にある王宮。それを囲むように広がる貴族の居住区域を、ブロンデル家の馬車がゆっくりと走っていた。
乗っているのはサラと、付き添いの若い侍女が一人。馬車は休むことなくもう二時間も走り続けており、侍女の顔には退屈と疲労の色が浮かんでいる。長時間馬車に揺られて尻が痛いのだろう、主の目を気にしながら、もぞもぞと落ち着きなく身じろぎしていた。
そんな侍女には目もくれず、サラはひたすらに窓の外を注視していた。
門構え、塀の色、庭の樹木の形、それらの隙間から垣間見える邸宅の屋根。
記憶に引っかかるものがどこかにないかと神経を研ぎ澄ますが、いまだに目当ての屋敷は見つけられずにいた。
サラがグラニエ邸を探し始めて三日目になる。
きちんと心の整理をつけてオレールに嫁ぎたい。そう思ったときに気にかかったのが、サラがいまだ取り戻していないエリーズの記憶だった。
ジャンと共に下町の長屋に隠れ住んでいたエリーズ。
二人はあれからどうなったのだろうか。
最後まで添い遂げることができたのか、それともグラニエ家の者に見つかって連れ戻されたのか――。
それを知ってどうなるのか、それはサラ自身にも分からない。分からないながら、何かが変わるという奇妙な予感があった。
エリーズに縁のある場所に行くことで、記憶を取り戻すきっかけが得られるかもしれない。そう考えたのだが、思ったほど簡単ではなかった。
エリーズの記憶をどれだけ探っても、グラニエ邸もジャンと暮らした長屋も、王都のどこにあったのか分からない。子どもの頃から病弱で、滅多に屋敷から出ることがなかったせいだろうか、エリーズには地理に関する知識がまるでなかったのだ。
ジャンと隠れ住んでいた長屋の場所は、下町で水路の近くだったという漠然とした情報しかなく、早々に断念した。
グラニエ邸ならば、伯爵家の屋敷である以上、貴族の居住区域のどこかにあるはずだと見当をつけ、馬車で虱潰しに探して回ることにしたのだ。
ブロンデル家の馬車を使うにあたっては、「マイエ家に嫁ぐ前に、貴族の居住区の街並みに慣れておきたいから」と説明した。エリーズの記憶が戻ったことは、いまだ誰にも打ち明けていない。父アルマンは怪訝な顔をしたものの、それ以上追求されることはなかった。
そうしてこの三日、毎日午後の二、三時間をグラニエ邸の探索に当て、ほぼ全ての貴族の屋敷を見て回ったが、いまだにそれらしい屋敷は発見できていない。
そもそも、エリーズの記憶自体が曖昧なのだ。よく散策した庭園の様子や、庭園から見る屋敷の姿は憶えているが、表通りから見る門や塀の様子がどうだったか、ほとんど記憶にない。これも、エリーズが屋敷に引きこもっていたためだろう。
それに、エリーズが屋敷を出た日から約八十年、グラニエ家が爵位を返上してから約六十年もの年月が経っている。土地屋敷は当然人手に渡っているだろうし、そうなれば当時の姿のままで残っている可能性は低いように思えた。
グラニエ邸を見つけ出すのは諦めざるをえないかもしれない。
サラは胸の内で落胆した。
場所が駄目なら、他に何かあるだろうか。
エリーズを知る人物から直接話を聞くことができれば、とは思うものの、エリーズですら生きていればもう九十五歳だ。エリーズの両親や兄が存命でいるとは思えなかった。
「……亡くなった人に尋ねるわけにはいかないものね」
ため息混じりの呟きは、もちろん独り言だったのだが、向かいに座る若い侍女は、話しかけられたものと思ったらしい。
主の唐突な言葉に目をぱちくりさせながら、慌てて背筋を伸ばした。
「はぁ、そうですねぇ。お墓はお喋りしてくれませんしねぇ?」
小首を傾げながら話を合わせてきた侍女の言葉に、今度はサラが目を瞬く番だった。
「お墓に訊いてみる……。それ、いい考えかもしれないわ」
「はぁ。……は?」
ますます首を傾げる侍女を尻目に、サラは御者に行き先の変更を告げた。
*
中央教会は、王都はもちろん、この国で一番の歴史と規模を誇る教会であり、貴族の居住区からほど近い場所に位置している。
貴族階級の結婚式はこの中央教会で執り行われるのが常であり、一週間後に控えるサラとオレールとの結婚式も、この場所で行われる予定だ。
大聖堂の裏手には教会墓地が広がっており、王族と貴族階級の墓地のほとんどがこの墓地に集まっていた。
草むしりをしていた墓守の老人にグラニエ家の墓の場所を尋ねれば、何を問い返すこともなく、無言で歩き出した。
猫背の老人の後に続き、サラも言葉なく墓地の小道を進む。手には、墓地の入り口で花売りの少女から買った小さな花束がある。白のカーネーションを基調とした花束だ。
サラの後ろには侍女が付き従っている。彼女の目には堪えきれない好奇心が宿っていたが、サラは気付かないふりをした。
入り組んだ小道を何度か曲がってから、老人は立ち止まった。彼は無言で墓地の一角を指し示すと、そのまま何も言わずに来た道を戻っていった。
サラは老人に示された一角を見渡した。周囲の樹木に日を遮られ、辺りは沈んだように薄暗く、ひんやりとしている。
等間隔に並ぶ大小の墓石は、どれも古びてはいるものの、サラが想像していたよりもずっと小綺麗だった。誰か世話をする者がいるのだろう、それぞれの墓石には、茶色く色褪せた花が手向けられている。
サラは墓石に近づき、そこに刻まれた名前を一つ一つ確認していった。
目当ての墓石はほどなく見つかった。
エリーズ・グラニエの名が刻まれた小さな墓は、その父親の墓の隣にひっそりと佇んでいた。
サラはすうっと息を吸い込み、その墓石の前に跪いた。
これまで記憶の中にしか存在しなかったエリーズ・グラニエという少女が、目に見える形でそこに在った。
エリーズに問いかけるような心持ちで、墓石の文字を丁寧に追う。
エリーズ・グラニエの綴りと誕生日は、サラの記憶どおりのもの。
そして最も知りたかったエリーズの命日を見れば、それは十五歳の冬の日だった。
サラが持つ最も新しいエリーズの記憶は、十五歳の初冬、水路沿いの小さな長屋での記憶だ。となればエリーズは、あれから時を置かずにジャンと『契りの腕輪』を交わし、そして死んだことになる。
グラニエ家の墓地に葬られているということは、エリーズはグラニエ家の者に見つかり、連れ戻されたのだろう。それに、バザン侯爵家に嫁がなかったことも確定的と言える。
エリーズがなぜ死んだのかは、墓石を見ても分からない。
それに、ジャンがどうなったのかも。
サラはじっとエリーズの墓石を見つめたが、墓石はもちろん何も応えず、エリーズの記憶が甦ることもなかった。
サラは無意識に止めていた息を、静かに吐き出した。
結局、肝心なことは分からないままだ。
それでも、エリーズの墓石と対面したことで、気持ちに区切りをつけられそうな気がしていた。
サラは一週間後、オレールの妻となる。
それはきっと、エリーズの願いには反するものだ。
それでもサラは決めたのだ。
エリーズがサラの決断を認めてくれるかは分からないが、墓前でそれを報告し、エリーズの冥福を祈ることで、サラは自分の迷いにケリををつけようとした。
持参した花を供えようと思い、その前に古い花を処分しようと手を伸ばして、サラはピタリとその動きを止めた。
エリーズの墓に手向けられた花。それは他のグラニエ家の墓に供えられたものと同じく、花も葉も茎も枯れて茶色に色褪せている。
けれどその中に一輪だけ、色褪せない花があった。
身を寄せ合うように連なる小花の色は青。
それに気付いた瞬間、憶えのある感覚がサラの全身を駆け巡った。
頭の奥底で何かが弾ける。
強烈な眩暈を感じ、サラは目を閉じた。
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