第18話 スターチス1

 翌朝一番に手紙をしたためてマイエ家に使いを出せば、すぐさまオレールから返答があり、その日の夕方、オレールがブロンデル邸を訪問することになった。

 思い返してみれば、婚約期間中、サラの方から今すぐ会いたいなどと手紙を出したことはない。ましてや、あと一週間で結婚式というこの時期だ。オレールも何か不穏なものを感じ取っていたのだろう。サラの応接室を訪れた婚約者は、いつもの微笑の中にわずかな緊張を漂わせていた。


 侍女がお茶の仕度を終え、ドアを少しだけ開けたままにして部屋を退出してからも、サラはうつむいたまま話を切り出せずにいた。吐き気にも似た不快感が胸に渦巻き、口を開けばそれが溢れ出そうだった。


「ごめんね、今日は急だったから何も手土産がなくて」


 努めてそうしているのだろう、オレールの口調はいつもと変わらず穏やかだった。


「サラからこんな風に誘ってくれるなんて嬉しいけど……何か、あったの?」


 単刀直入な問いに、サラは小さく肩を震わす。

 思わず視線を上げれば、まっすぐにサラを見つめるオレールと目が合った。その瞳は不安そうに陰っている。サラが初めて見るオレールの表情だった。

 オレールにそんな顔をさせたことに、サラはますます自己嫌悪を募らせる。

 胸に溢れる不快感を押し留めるように深く息を吸い込み、サラはようやく覚悟を決めた。


「オレール様。わたしとの婚約を……解消して下さい」


 オレールが息をのむ。


「どう……して……」


 呆然と見開かれた目。その視線に耐えきれず、サラは顔をうつむけた。

 落とした視線の先で、オレールがはめる金のブレスレットが小さく光を反射する。揃いのブレスレットは今、サラの手首ではなくワンピースのポケットの中にある。身に着けることなど、できはしなかった。

 目の奥がじわりと熱を帯びる。今にも涙が溢れそうだった。それを押し留めるため、サラは再び深く息を吸い込む。


「前世の記憶が、戻って……それでわかったんです。わたしはあなたの運命ではないって……」


 自分には涙を流す資格などない。そう思うのに、サラの声ははっきりとわかるほどに震えた。


「だからわたし、あなたとは結婚できません」


 堪えきれず、伏せた瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。

 それを拭うこともせず、サラは唇を噛んだ。せめて嗚咽を漏らさないように。


 しばしの沈黙の後、口を開いたのはオレールだった。


「サラ……この話、サラのお父上は承知されていることなの?」


 オレールの声は掠れていたが、口調は静かだった。

 サラはうつむいたまま首を横に振る。まだ父にも誰にも話してはいない。


「そうか……。サラ、まずは詳しく話して欲しい。前世の記憶が戻って、それでなぜ婚約解消という話になるのか、僕にはさっぱりわからない。理由がわからなければ両家の親にも説明できないし……何より、僕が納得できない」


 サラは深く頷く。

 オレールの言い分は尤もだったし、もとよりサラ自身も、婚約解消を申し出た時点でオレールには全て打ち明けなければならないと考えていた。


 そうしてサラは、前世の記憶をオレールに語った。


 サラの前世はすでに没落した伯爵家の娘であったこと。

 父親の決めた相手に嫁ぐのを厭うて、若い庭師と駆け落ちしたこと。

 下町に隠れ住んだが重い病にかかり、庭師の説得で伯爵家に戻ったこと。

 伯爵家に戻る前に、庭師と『契りの腕輪』を交わしたこと。

 伯爵家で目を覚ましたとき、庭師は拐かしの罪で処刑された後だったこと。

 病が悪化し、そのまま亡くなったことーー。


 オレールはほとんど口を挟まず、表情を動かすこともなく、静かに耳を傾けてくれた。


「……エリーズの記憶が甦ったとき、すぐにわかったんです。ジャンの生まれ変わりが誰なのか……」


 話の流れから予想していたのか、オレールの表情に驚きの色はなかった。代わりに浮かんだのは、寂しげな微笑だった。


「それは……僕、ではないんだろうね」

「……違います。その人の名はーー」

「待って」


 鋭い口調で制止され、サラは口を噤む。


「それが僕の知っている人なんだとしたら、聞かない方がいい気がする。さすがにちょっと、きつい……」


 オレールは弱々しく苦笑いを浮かべる。


「……すみません」


 サラはいっそう身を縮こまらせてうなだれた。

 

「それで……じゃあ、前世の恋人に再会して……その人と結婚したいと、そういうことなんだね?」

「いいえ、そうではないんです。確かに、その人に対する気持ちは、記憶が戻る前と今とでは違っています。でも、恋や愛ではない、と思います」

「じゃあ、どうして……?」


 心底わからないと言いたげに、オレールは眉を寄せた。


「オレール様は……エリーズとジャンの話を聞いて、どう思われましたか?」

「そうだな……身分違いの悲恋の物語と見ることはできるだろうけれど……」

「そう、きっと、エリーズにとってはそうだったのだと思います。切なく美しい悲恋の物語。でも、ジャンにとっては……」


 そんな美しい言葉で飾られるべきものではなかったはずだ。

 だって、ジャンは命を落としたのだから。美しい死など、きっと物語の中にしか存在しない。


「エリーズが屋敷から連れ出して欲しいなんて頼みさえしなければ、ジャンは庭師として寿命を全うしたはずです。少なくとも、罪人として処刑されることなんてなかった……!」


 サラは声を震わせる。

 犯罪になど縁のない、母親想いの優しい人だったのだ。

 あぁそうだ、ジャンはエリーズと隠れ住むために、たった一人の母親とも縁を切ったに違いない。母親は突然姿を消した息子をどれほど案じたことだろうか。そして、息子の死を知らされたとき、どれほど嘆き悲しんだことだろうかーー。


「エリーズがジャンから庭師の仕事を奪い、家族を奪い、そして命まで奪ったんです……!」


 ジャンは首をはねられたのだと、あの侍女は言った。

 どんなに恐ろしく、痛く、悔しかったことだろう。

 最期の瞬間、ジャンは何を思っただろうか。エリーズを恨み、憎んだに違いない。

 

「でもそれは、彼――ジャン自身が決めたことだよ。誰かに無理強いされたわけじゃない」


 あぁ、本当にそうだったなら、せめてジャンの自由な意思だったのなら、どんなに良かったか。


「いいえ、エリーズがジャンを脅したんです。望まぬ結婚をするくらいなら死ぬと言って。ジャンの優しさにつけ込んだんです」


 全ての記憶が戻ったとき、サラは気づいてしまった。そもそもエリーズは、ジャンに恋などしていなかったのだと。

 エリーズ自身は恋だと信じていたけれど、サラから見ればあんなものは恋ではない。ただの依存だ。ジャンの優しさに縋っていたに過ぎない。彼だけが優しくしてくれたから。


 そしてジャンがエリーズに見せた優しさもまた、恋でも愛でもなかったのだとサラは思う。使用人が主人の娘に向ける敬愛や忠誠心、そういった類のものだったのではないか。

 なぜならジャンは、下町に隠れ住んだ約二ヶ月の間、エリーズをとても大切に扱ってはくれたけれど、恋人にするようなことは一切しなかったのだ。男女の関係を持たなかったのはもちろん、口づけすらしなかった。エリーズを抱きしめたのだって、夕闇の庭園の隅で駆け落ちを決めたあのときが、最初で最後だった。

 きっとジャンは、あんな逃亡生活が長く続くはずはないとわかっていたのだ。たとえエリーズが病に冒されなくても、いずれエリーズを清い体のままでグラニエ家に帰すつもりでいたに違いない。自分が罪に問われることは覚悟の上で。


 エリーズはそんなジャンの気持ちなど、まるで考えていなかった。

 ただ、自分を哀れんでいただけ。

 自分は病弱だからと、だから家族から疎まれても仕方ないのだと、全てを諦めて。


 だけど、エリーズは本当に家族から疎まれていたのだろうか。義姉はともかく、両親にはそれなりの愛情があったのではないかとサラは思う。

 そうでなければ、男と駆け落ちした娘を、勘当することもなくグラニエ家の墓地に葬ったりするだろうか。

 それに、バザン侯爵との縁談だって、グラニエ家に資金繰りの思惑があったとしても、エリーズにとっても決して悪い話ではなかったはずなのだ。相手は格上の侯爵家であり、身分も生活も保障される。すでに成人した子がいる相手ならば、跡継ぎを産むという義務を求められることもない。当時のバザン侯爵の人となりは分からないが、少なくとも条件だけを見れば、体の弱いエリーズにとってこれ以上ない嫁ぎ先だったと言えるだろう。


「エリーズは自分本位で愚かな人間でした。そしてわたしは……そんなエリーズの生まれ変わり、同じ魂を持った人間なんです」


 もしジルが前世の記憶を取り戻したなら、エリーズの生まれ変わりであるサラを愛するに違いないだなどと、よくもそのような傲慢なことを考えたものだ。ジルはサラを愛するどころか、憎むに違いないというのに――。


「……僕には、そのエリーズという人とサラは全く違うように思えるけど」


 努めて冷静なオレールの言葉を、サラは即座に否定する。


「いいえ、わたしもエリーズと同じです。自分本位な人間なんです。家のことなど何も考えず、オレール様のことを好きになって……」


 今もまた、自ら婚約の解消を申し出ておきながら、オレールが引き留めてくれることを心の隅で願っているのだ。これを自分本位と言わず、なんと言おう。


「だから……わたしはオレール様には相応しくありません」


 小さな声で、けれどきっぱりと言い切って、サラは口を閉じた。


「それが、サラが僕との婚約を解消したいと言う理由なんだね?」


 サラは無言で頷き、そのまま目を伏せる。


「そうか……」


 そう呟いたきりオレールは口をつぐみ、何かを考え込むように目線をサラから逸らせた。

 沈黙が部屋を支配する。

 サラは判決の言い渡しを待つ罪人のような気持ちで、オレールの言葉を待った。


 やがて、オレールが動いた。その気配を察して顔を上げたサラの目の前で、オレールは左手首に着けていた金のブレスレットを外し、そっとテーブルの上に置いた。

 シャラリという微かな音が、判決の時を告げていた。


「サラ……僕たち、『契りの腕輪』を交わすのは止めにしよう」

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