第13話 紫陽花5

 言葉少なに庭園の小道を進む。

 ジルは庭園の中央に設えられたガゼボに向かっているようだった。

 この季節、周囲をぐるりと紫陽花で囲まれる小さなガゼボは、サラのお気に入りの場所だ。そこでオレールとお茶を楽しんだことも幾度となくある。


 けれど今、サラの意識は右手を歩くジルの気配に集中していた。

 サラをエスコートするジルの腕は、しなやかな筋肉がついていることが服の上からでも分かる。庭師をしていたジャンほどの逞しさはないけれど。


 思えば、こんな風にジャンと並んでグラニエ邸の庭園を歩いたことはない。

 ジャンはいつでも従者のようにエリーズの後ろを歩いた。

 身分の違いが、並んで歩くことを許さなかった。


 けれどジルとならば、こうして堂々と並んで歩くことができるのだ。 


 サラがジルのエスコートを受けるのは、これが初めてではない。

 アルマンはジルを養子にするとすぐさま家庭教師をつけ、貴族社会のマナーを叩き込んだ。そしてわずか半年後にはジルを夜会に伴うようになった。実践の中で鍛えようということなのだろう。

 それ以来、オレールが参加しない夜会では、サラのエスコートは義兄としてジルが務めるようになった。

 ジルは養父の期待に応え、目覚ましいスピードで上流階級らしい立ち居振る舞いを身につけていった。場数を踏むごとに、ジルのエスコートは洗練されたものになった。

 貴族達は血筋を重んじる。ブロンデル家は貴族ではなく、さらにジルは養子だ。貴族達のジルに対する風当たりは、アルマンの実の娘であるサラに向けられる以上に厳しいはずだ。けれどジルは愚痴をこぼすこともなく、いつも穏やかな表情で堂々と振る舞っている。

 今では、ジルはアルマン・ブロンデルの後継者として社交界で顔と名前を知られるようになった。


 それにつれて、貴族のご令嬢達もジルに熱い視線を送るようになった。

 国一番の商会の次期会長夫人の座は、貴族階級の一員であることと天秤にかけるほどの魅力があるということなのだろう。

 ブロンデル商会にとっても、顔の広い貴族の家との縁組みには大きな価値がある。

 いずれジルも、アルマンの決めた貴族の娘を妻に迎えることになるのだろう。

 

 美しい貴族のご令嬢に寄り添うジルを想像する。 

 無意識に、ジルの腕に添えた手に力がこもった。


 本当ならば、ジルの隣を歩くのは自分のはずだった。

 ふと、そんな思いが頭をもたげる。

 

 オレールと出逢わなければ、今頃はジルと婚約していたはずだ。

 そしてサラはきっと、父が見込んだこの穏やかな青年のことを好きになっていた。たとえジャンの記憶が甦らなかったとしても。

 ジルもまた、サラのことを婚約者として慈しんでくれたはずだ。

 だってそれが、前世から定められた二人の運命なのだから――。


「サラお嬢さん、足元にお気をつけ下さい」


 ジルの声に、サラは我に返る。

 気づけばガゼボの入り口に立っていた。

 入り口の両脇には大ぶりの紫陽花が青い花を咲かせており、ガゼボの白い支柱と鮮やかなコントラストを作り出している。


 ジルにエスコートされて、一段高く作られたガゼボの中に入る。

 小さなガゼボの中にあるのは、深緑色に塗られた鉄製のテーブルと揃いの椅子が三脚。奥の椅子にサラが腰掛け、その向かいにジルが腰を下ろした。


 ジルの顔が真っ直ぐサラに向けられる。その近さに、サラは動揺した。いつも朝食を共にしているとはいえ、十人が優に座れるダイニングテーブルの幅は広く、ジルとの距離はもっと離れている。

 内心の動揺を誤魔化すように、サラは口を開いた。


「それで、話というのは……?」

「サラお嬢さんの結婚式のことなのですが……本当に、予定通りで宜しいのですか?」


 ジルの言葉に、心臓が跳ねる。

 なぜ、そんなことを聞くのだろう。

 さきほど朝食の席で、サラが予定通りで大丈夫だと言ったときには、ジルは父と同じく安堵した様子だったのに。


「それは、どういう意味……?」


 少し掠れた声で問えば、ジルは労るように眉を下げた。


「サラお嬢さんの体調が気懸かりで。周りへの影響を考えて、無理をしておられるのではないですか? 原因も分からず丸一日以上も意識を失っておられて。今日もいつもとは違った様子でいらっしゃるし……」


 サラの鼓動がドキドキと激しさを増す。

 ジルが気付いていた。サラの様子がいつもと違うことに。

 その事実は、サラに畏れと、それを上回る歓びを同時にもたらした。

 ジルが見ていてくれた。案じてくれた。前世の記憶などなくとも……。

 胸の中に、じわりと甘い歓喜が広がる。

 そしてそれは、次にサラを物足りない気持ちにさせた。

 ジルがサラの結婚式のことを気にしたのは、本当にただサラの体調を慮ってのことだったのだろうか、それとも――。


「ジルは、どう思っていますか? わたしの結婚について……」


 熱に浮かされたように、ふわりと口をついて出た問いだった。

 ジルはわずかに目を見開き、それから戸惑ったように小さく首を傾げた。


「……それはもちろん、喜ばしいことだと……」


 困惑の色が滲む声音。

 その瞬間、サラはすうっと血の気が引くのを感じた。

 いったい自分は、ジルに何を期待したのだろう。


「ごめんなさい、おかしなことを言って」


 ぎこちない笑みでジルの言葉を遮り、サラは言い繕う。


「あの、わたしが言いたかったのはつまり……本当ならわたしが婿を取ってこの家を継ぐべきだったのに、ジルに責任を押しつける形になってしまって……それで良かったのかと……」


 徐々にジルの顔を直視できなくなり、サラはうつむいた。

 テーブルの上で組んだ手が、急速に熱を失っていく。


 本当はサラは、ブロンデル家の一人娘としての責任など、これまでほとんど考えたことがなかった。跡を継ぐことを父から明確に求められたことはなく、そのことに甘えていたのだ。

 自分で言葉にしてみて初めて、サラは自分の無責任さに思い至った。確かに父は、サラに跡を継ぐよう言葉で求めたことはない。けれど、父が何のためにサラを貴族の茶会や夜会に伴っていたのか、少し考えれば分かることだったのだ。


 本当なら、サラはブロンデル家を継ぐべきだった。

 ジルと結婚して。

 それが運命だったはずなのに。


「ごめんなさい……わたし、ジルの運命を変えてしまった……」

 

 思わず漏れたつぶやきだった。

 ジルが小さく息をのむ気配が伝わってくる。

 しばしの沈黙があった。


「……サラお嬢さん。私は、サラお嬢さんがお幸せになるのが一番だと思っているんです。マイエ様とならばきっと、お幸せになれると信じていますよ。ですが――」

 

 不意に、うつむくサラの視界にジルの両手が入り込む。次の瞬間、サラの両手はジルの大きな手に包まれていた。

 サラは身体をビクリと震わせる。

 反射的に顔を上げれば、いつもの穏やかな笑みを消したジルと目が合った。


「ですが、もし」


 低い囁きが甘く耳に響く。

 真剣な瞳から目が逸らせない。


「サラお嬢さんが迷っておられるのでしたら――」


 ジルの手に、わずかに力が込められる。

 

 そのときだった。


「サラ」


 ここに居るはずのない人の声に、サラは息が止まりそうになる。

 ジルの肩越しに見る庭園の小道。

 そこにあったのは、婚約者オレールの姿だった。

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