第14話 紫陽花6
「オレール様……どうして……?」
呆然と呟き、それからジルの手に包まれたままだった両手を慌てて引っ込める。
大丈夫、オレールの位置からは、ジルの背に隠れて見えなかったはずだ。
咄嗟にそう考えた自分に、サラは愕然とした。これではまるで、ジルと逢引きしていたようではないか――。
「これはマイエ様、気付くのが遅れまして、たいへん失礼致しました」
オレールの姿を認めて素早く立ち上がったジルの顔は、いつも通りの柔和な微笑をたたえていた。
その表情にも声音にも、疚しさは微塵も感じられない。
途端にサラは、後ろめたさを感じた自分が恥ずかしくなった。ジルには疚しい気持ちなど何もなかったのだ。それなのに、一人で何を勘違いしていたのだろう。
オレールは、社交の場よりも一段親しげな表情をジルに向けた。
「ジル殿、お気になさらず。突然お邪魔したのは僕の方なのですから。登城前に、サラ嬢にお見舞いの花を届けに寄らせて頂いたのです。庭を散策できるようになったと聞いて、一目会えたらと……。お話の途中でしたか?」
「いえ、ちょうど終わったところでした。サラお嬢さんに体調をお尋ねしていたのです。お元気になられたとのことで安堵致しました」
同意を求めるようにジルに視線を送られ、サラは慌てて頷いた。
「そうでしたか。それでは、少しサラ嬢をお借りしても?」
「もちろんです、マイエ様。私は屋敷の方に戻りますので、このままこちらでゆっくりなさって下さい。お茶を準備するよう侍女に言いつけておきましょう」
「ありがとうございます。それはそうと、そろそろ『マイエ様』ではなくオレールとお呼び下さいませんか? 十日後には、貴方は僕の義兄上となられるのですから」
「畏れ多いことですが……十日の間に心の準備をしておきましょう」
それでは、と柔らかな会釈を残し、ジルはガゼボを後にした。
しばらくその後ろ姿を見送ってから、オレールは先ほどまでジルが座っていた椅子に腰を下ろした。
「サラ、元気になって本当に良かった。これ、お見舞いに」
そう言ってオレールが差し出した花は、ピンク色の紫陽花だった。
「『元気な女性』という花言葉だと聞いて選んだんだけど……ブロンデル家の庭園に見事な紫陽花が咲いていることを、すっかり忘れていたよ」
オレールはガゼボをぐるりと囲む紫陽花を見回して苦笑した。
庭師の丹精により、ガゼボの周囲には、青色だけでなく紫色にピンク色と、少しずつ異なる色の紫陽花が入り乱れ、瑞々しく幻想的な雰囲気を作り出している。
「いいえ、とても嬉しいです。紫陽花は好きな花なので……」
微笑んで、サラは花を受け取る。
オレールが自分の健康を願って選んでくれたのだ。嬉しくないはずがない。サラの胸にじわりと温かなものが広がっていく。
サラを見つめる優しい笑顔。
くしゃりと寄る目尻の笑い皺。
細やかな気遣い。
いつもの幸福感がサラを包み、オレールへの愛しさがこみ上げる。
あぁ、やっぱり私はこの人が好きだ。
私が好きなのはこの人だ――。
そのとき、オレールの左手の袖口でキラリと光るものが目に入った。
『契りの腕輪』として交わした、金のブレスレットだ。
そう気付いた途端、サラの浮かれた気持ちは急速に萎んだ。
さりげなく、受け取った紫陽花を持ち直す。何も着けていない手首を花で隠すように。
でもきっとオレールは気付いているに違いない。サラがあのブレスレットを着けていないことに。気付いていて、何も言わずに待ってくれているのだ。サラが契りの言葉を口にするのを。
中断されたままの契り。
申し訳なさと気まずさに、サラの気持ちが落ち込む。
せめてその非礼を詫びなければと思うのに、うまく言葉が出てこなかった。
「……それにしても、初めて見た気がするな」
「え?」
呟くようなオレールの言葉の意味が分からず、サラは目を瞬いた。
「サラとジル殿が二人でいるところをさ。なんと言うか……こんなことを言うと心の狭い男だと思われそうだけど、少し妬けたな」
サラは息をのんだ。
頭から冷水を浴びせられたように、血の気が引いていく。
もしや見られていたのだろうか、ジルに手を握られていたのを――。
「そんな。ジルとは何もありません」
咄嗟に否定すれば、思いがけず大きな声が出た。
オレールは驚いたように目をみはり、それから小さく首を振った。
「ごめん、サラを疑ったわけじゃないんだ。ただ、お似合いだなと思ってしまって。サラとジル殿は本当の兄妹ではないし、それに、ジル殿はいい男だからさ」
オレールがこんな風に嫉妬心を露わにするのは珍しいことだった。
どちらかというと人見知りのサラには、親しい男友達などいないし、婚約が決まってからは特に、オレール以外の男性とは距離を置いてきた。オレールに夢中で、他の男性が目に入らなかったとも言える。オレールにはそもそも嫉妬する余地がなかったのだ。
以前のサラならば、オレールの嫉妬を嬉しく感じたことだろう。けれど今は、何とも言えない後ろめたさがサラを支配していた。
事実、ジルとの間には何もない。
同じ屋敷に住んでいながら、二人だけで話をするのも今日が初めてのことだ。
手を握られたのだって、義兄として、あるいは使用人として、サラの身体を案じての行動だったに違いない。
だけどあの時、ほんの一瞬、義兄としてでもない、使用人としてでもない何かをジルに期待してしまったことを、サラは自覚していた。
うつむけば、手に握ったままのピンク色の紫陽花が嫌でも目に入る。
『移り気』。
紫陽花が持つこの花言葉を、オレールは知っているのだろうか――。
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