第10話 紫陽花2

 一年前に義兄となったジルのことを、サラはほとんど知らない。

 知っていることと言えば、ネリーの長男であること、サラより五歳年上であること、母親のネリーの伝手で十歳からブロンデル商会で働いていること――せいぜいその程度だ。

 ネリーの息子の中でも、乳兄弟にあたる三番目の息子とは幼いころに何度か遊んだ記憶があるが、五歳年が離れたその兄と一緒に遊んだことはなかった。


 ジルと初めて会ったときのことは、かろうじて記憶にある。

 サラが七歳のとき、母と街に出た際に、父の仕事場に立ち寄ったときのことだ。初めて訪れる父の執務室で、父の膝に抱かれているとき、ティーセットとお菓子の乗ったワゴンを押して部屋に入ってきたのが、当時十二歳のジルだった。

 ジルは、客が小さな女の子とは思っていなかったのだろう、驚いたように目を丸くしてサラを見ていた。

 サラの方は、これがネリーの一番目の子どもなのだなと、ぼんやり思ったことを覚えている。

 ジルの淹れた紅茶はとても美味しかった。と言っても、当時七歳のサラに紅茶の味の善し悪しなどもちろん分からない。紅茶好きだった母が褒めていたので、そうか美味しいのだなと思いながら飲んだという話だ。

 その日、ジルと特別言葉を交わしたという記憶はない。

 その後も、サラが父の仕事場を訪れた際に顔を合わせれば挨拶をするという程度で、親しく言葉を交わすことはなかった。


 サラの婚約が決まり、ジルが父アルマンの養子になっても、サラとジルとの関係は変わらず、商会のお嬢さんと従業員のままだった。ジルはサラを「サラお嬢さん」と呼び、サラもいまだにジルを兄と呼ばないままでいる。何か思うところがあるわけではない。ただ、兄という実感が湧かないのだ。


 養子縁組後、ジルは屋敷に一室を与えられて住むようになった。

 嫁入り前のサラがいることもあり、ジルはずいぶん恐縮していたと、ネリーを介して耳にしている。結局、養子縁組の事実を内外に示す必要があるというアルマンの説得で折れたそうだ。


 まだジルが屋敷に住む前のこと、珍しく酒に酔った父が、ポロリと洩らしたことがある。

 ジルをサラの婿にと考えていたということを。

 それを聞いてもサラは、オレールとの結婚を許してくれた父への感謝の念を深めこそすれ、ジルに対して特別な感情を抱くことはなかった。

 それほどまでにサラはオレールに夢中だったし、反対にジルへの関心は薄かった。


 同じ屋敷に住むようになっても、ジルはアルマンと同様、朝から晩まで仕事で屋敷にはおらず、サラが顔を合わせるのは朝食のときくらいだった。ブロンデル家では、互いにどんなに忙しくても朝食だけは家族揃ってというのが、母が存命のころからの習わしなのだ。


 今朝、その朝食の席を、サラは病み上がりを理由に欠席した。

 昨日の昼前に長い眠りから覚めて以来、あまり食欲がないというのも本当だったが、それよりも義兄のジルと顔を合わせるのが怖かったのだ。


 昨日、ジルの名を耳にした瞬間、サラには分かった。

 彼こそが、前世でエリーズが『契りの腕輪』を交わしたジャンの生まれ変わりだと。


 オレールと観た劇のワンシーンを嫌でも思い出す。

 王弟殿下とその恋人は、今世で出会った瞬間に互いを『契りの腕輪』の相手と悟り、強く求め合ったのだ。幼い頃からの婚約者を裏切り、王位継承権を捨て去るほどに。


 だからサラは怖かった。


 『契りの腕輪』の相手であるジルに会ったとき、いったい自分はどうなってしまうのか――。





「やっぱり、ない……」


 貴族名鑑をめくる手を止めて、サラは呟いた。

 気を失っている間に見た夢が前世の記憶であることを、サラはほぼ確信している。

 普通の夢であれば、それがどんなに印象的なものだったとしても、時間とともに薄れていくものだ。

 けれど、サラが見た夢は、いつまでも鮮やかなままサラの頭の中を掻き回している。


 エリーズ・グラニエ伯爵令嬢。それがサラの前世での名前だ。生まれた年は、今から九十五年前。

 ただ、腑に落ちないこともある。

 グラニエという家名に聞き覚えがないのだ。

 サラはこれまで、父に連れられて少なくない数の貴族の茶会や夜会に参加してきたし、マイエ子爵家への嫁入りが決まってからは特に、意識的に貴族の名前を覚えるよう努めてきた。伯爵家であれば、交流はなくとも名前くらいは知っているはずなのだ。

 確認のために貴族名鑑をめくってみたが、やはりグラニエ伯爵家は載っていなかった。


 一方、エリーズが嫁ぐはずだったバザン侯爵家の方は、調べるまでもなくその家名を記憶していた。

 国内でも力を持っている家の一つだ。特段、悪い評判も聞かない。

 そして何の因果か、オレールと初めて出会った夜会は、バザン侯爵家の主催だった。


 ふと思い立ち、貴族名鑑の巻末を開く。

 見落としのないよう、上から順に文字を辿っていた指が、ある一点で止まった。


「あった……」


 爵位返上や取り潰し、様々な理由で今は存在しない元貴族の家名。

 その一覧の中に、グラニエ伯爵家の名前はあった。


 前世の記憶に最低限の裏付けが得られた。

 そのことに、安堵と怖れを同時に抱きながら、サラは貴族名鑑を読み進める。


 それによれば、グラニエ伯爵家は六十年前に爵位を返上したとある。

 それ以上のことは何も書かれていない。当時のグラニエ家の人々の名前も、爵位を返上した理由も。


 ただ、爵位返上の理由を想像することは容易だった。おそらく、経済的に困窮し、爵位を返上せざるをえない状況に追い込まれたのだろう。

 エリーズの侍女達の噂話が甦る。

 グラニエ伯爵家は、経済的な援助を得るために、当時羽振りの良かった子爵家と縁を結んだ。それがエリーズの兄と義姉との結婚だ。

 けれど、それでも転落の勢いは止められず、多額の援助と引き換えに、病弱なエリーズをバザン侯爵の後妻に差し出すことを決めた。

 つまり、エリーズの嫁入りは、没落への道を辿るグラニエ伯爵家にとって、起死回生の一手だったはずなのだ。

 しかしエリーズは家出し、バザン侯爵家に嫁がなかった。あてにしていた援助は得られなかった。

 結局、そのまま立て直すことはできず、エリーズの出奔から二十年後、グラニエ伯爵家は爵位を返上するに至った――。


 そこまで考えて、サラは重大なことに気付いた。


 エリーズは、本当にバザン侯爵家に嫁がなかったのだろうか?

 

 頭の中で渦を巻くエリーズの記憶を探ってみても、バザン侯爵に嫁いだという記憶も、逆に嫁がなかったという記憶も探し当てることはできない。


 あの十五歳の初冬の日、水路沿いの小さな長屋で刺繍を刺していたのが、はっきりと思い出せる最後の記憶だ。

 あとは、ジャンと『契りの腕輪』を交わす、おぼろげな記憶があるだけ。


 あれからエリーズはどうなったのだろうか?

 ジャンと二人、慎ましくも幸せに暮らしたのか。

 それとも、グラニエ伯爵家に見つかって連れ戻されたのか。


 前者であって欲しいと思いつつ、サラは胸に澱む重苦しいものを拭い去ることができなかった。

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