第9話 紫陽花1
目が覚めたとき、自分がどこにいるのか分からなかった。
ぼんやりと霞む視界には、落ち着いた水色の天井が映っている。
水路沿いの小さな長屋でもない。寂しい離れでもないここは……。
不意に、ラベンダーの甘い香りを鼻が捉えた。馴染んだその香りに、急速に意識が覚醒する。
ゆっくりと上半身を起こして見回せば、そこは見慣れた自分の寝室で、ベッドの枠に吊り下げたラベンダーが静かに香りを放っていた。
時間の感覚がない。カーテンが閉められているので部屋は薄暗いが、カーテン越しに外が明るいことだけは分かった。
目の前に両手をかざして見る。
ぎゅっと握り、また開く。
見慣れた自分の手だ。小さくほっそりとしているが、血色は良い。
「……ぁ、わたし……」
恐る恐る声を出せば、少し掠れた声が出た。
「わたしは、サラ・ブロンデル」
確かめるように、ゆっくりと自分の名を口にする。紛れもない自分の声だった。
長い長い夢を見ていた。
その余韻は甘く切なく、息苦しいほどにサラの中に居座っている。
生々しいその夢が、ただの夢ではないことを、サラは本能的に察していた。
「……エリーズ・グラニエ」
声に出してみれば、それは驚くほどしっくりと口に馴染んだ。
そう、まるで自分の名前のように。
そのとき、控えめなノックの音が響き、続いて寝室のドアが静かに開いた。
ドアの隙間から、侍女のネリーが顔をのぞかせる。ネリーはサラを見ると、「嬢ちゃま!」と鋭い声を上げ、ふくよかな身体に似合わぬ俊敏な動きでベッドサイドへ駆け寄った。
「まぁまぁ、嬢ちゃま、お目覚めになったのですね! 良うございました、本当に良うございました……」
ネリーは涙ぐみ、声を震わせながら、サラの額にふっくらとした手の平を当てる。
「ご気分はいかがですか? 熱は……下がったようですね。丸一日以上お眠りになっていたのですよ。お医者様も原因が分からないと仰るし……」
口を動かしながらも、ネリーは手際よくサラの背中にクッションを差し入れ、肩にショールを羽織らせていく。
水の注がれたグラスを手渡され、口をつけて初めて、サラは口の中がからからに乾いていたことに気づいた。ゆっくりと飲み干せば、生き返ったような心地になる。
「わたし、そんなに長いこと眠っていたのね……」
「観劇の後のレストランで、急に気を失われたそうですよ。マイエ様に抱えられてお戻りになった嬢ちゃまを見たときは、肝が冷えましたですよ。……カーテンをお開けしましょうね」
オレールの名を聞いて、レストランでの記憶が甦る。
慌てて左手首を見るが、そこにブレスレットの姿はなかった。
「あぁ、倒れたときに着けておられた金のブレスレットでしたら、外して鏡台の引き出しに仕舞ってございますよ」
寝室のカーテンを開け終えたネリーが、左手首を見つめるサラに気付いて説明する。
それを聞いて一瞬安堵したものの、すぐに血の気が引いた。
オレールが用意してくれた『契りの腕輪』。互いにブレスレットを着け、オレールが誓いの言葉を述べた。けれど、サラは誓いの言葉を口にする前に意識を失ったのではなかったか。つまり、サラは誓っていない。誓いは完成していない。オレールはどう思っているだろうか……。
「マイエ様もずいぶん心配なさっておいででしたよ。今朝もお見舞いのお手紙とお花をお届け下さって。意識が戻られたと、使いを出しておきましょうね」
「……お願いするわ」
本当は自分で手紙をしたためるべきなのだろうけど、何を書けばよいか咄嗟に考えがまとまらず、ネリーの提案に甘えることにする。
「さぁさ、丸一日以上何も召し上がっていないんですもの、お腹が空いてらっしゃるでしょう。パン粥でもお持ち致しましょうね。お食べになったら、今日はそのままゆっくりお休みになって下さいな」
「ありがとう、ネリー」
母親のように甲斐甲斐しいネリーの言葉に、波立った心が安らいでいく。
事実、ネリーはサラの第二の母とも呼べる存在だった。サラが産まれたとき、実母の乳の出が悪く、伝手を辿って乳母として雇ったのがネリーだった。サラがあまりに懐いて離れないので、乳母としての役割を終えてからも侍女としてブロンデル家に仕えている。
「その前に、嬢ちゃまがお目覚めになったことを旦那様にお知らせしなくては。それはもう、ご心配なさってたんですよ。それと、僭越ながらジルも」
その名を耳にし、姿を思い浮かべた瞬間、えも言われぬ感覚がサラの全身を駆け巡った。
穏やかに微笑む庭師の顔と粗末な麻の腕輪が、脳裏に鮮やかに浮かび、消える。
ジル。
ネリーの三人いる息子の内の長男。
ブロンデル商会の従業員にして、会長アルマン・ブロンデルの養子。
サラの義兄になった人。
そして、サラの夫となるはずだった人――。
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