第6話 白百合2

 湖の底に沈んでいるようだと、エリーズは思う。

 湖に潜ったことなど、ただの一度もないけれど。


 暗くて冷たい、深い深い湖の底。

 生の気配のない静謐な空間に、ただ独り、たゆたっている。


 見上げれば、はるか上で微かな光が揺らめいている。

 それをエリーズは、ただじっと見ている。


 時には光差す方へ手を伸ばしてみる。

 だが身体は重く、絡め取られたように動かない。


 もがくことすら諦め、エリーズはまた静かに光を見つめるーー。



 緩やかに、エリーズの意識は浮上した。

 酷い頭痛と倦怠感に、いまだに熱が下がっていないことを知る。目蓋は重く、開けようという気にもなれない。

 夏から秋への季節の変わり目に風邪を引くのはいつものこと。今年は例年より夏の暑さが厳しく、いつにもまして食欲が湧かなかった。体力が落ちていたせいで風邪をこじらせ、もう五日も高熱が続いていた。


 目を閉じたまま、身動きもせずに夢現を漂うエリーズの耳が、人の話し声を捉えた。

 隣の居室から聞こえてくるのは、若い女の声が、一つ、二つ、三つ……。


「……それでね、若奥様ったら……」

「……へぇ……本当に……」

「……あの方、相変わらず……」


 あぁいつものお喋り、とエリーズは思う。

 話し声はいずれも、エリーズの身の回りの世話をする侍女達だった。

 エリーズの専属、というわけではない。彼女達は、本館とこの離れを行き来し、交替でエリーズの世話をするのだ。

 月の半分をベッドで過ごすエリーズの世話をするのに、同時に三人もの人手が要るはずがないということは、どんなに物を知らないエリーズにだって分かる。

 要するにこれは、侍女達の息抜きなのだ。彼女達は時折、それらしい理由をつけて離れに集い、エリーズが眠っている隙に、形ばかり掃除などをしながら束の間のお喋りに興じているのだ。

 それが侍女として褒められた行いでないことはエリーズにも分かっているが、咎め立てたことは一度もなかった。

 自分にそんな権利があるとは思えなかったし、それに、目覚めているエリーズの前では一切無駄口をきかない彼女達のお喋りは、外の世界の空気を僅かばかりでも運んで来てくれるから。


 今日は若奥様――エリーズの兄嫁の愚痴で盛り上がっているらしい。


「ほんと、若奥様の我が儘にも困ったものだわ。こうと思ったら絶対に譲らないんだもの」

「子爵家から伯爵家に嫁いで来たら、普通は控えめに振る舞うものじゃない?」

「仕方ないわよ。若奥様のご実家の子爵家の方が、このグラニエ伯爵家よりもずっとお金があるんだもの。若奥様のご実家から援助を受けてるっていう話よ」

「ふぅん。若奥様の態度が大きいのも当然ってわけね」

「でもぉ、お嬢様を離れに追い出すなんてやり過ぎじゃないですかぁ? エリーズお嬢様、かわいそぉ」


 舌っ足らずに言ったのは、三人の中で最も年若い侍女だ。可哀想という言葉とは裏腹に、その口調は楽しげですらある。

 自分の名前が出たことで、半分眠りながら聞くともなしに聞いていたエリーズの意識は、急速に覚醒した。


「そうかしら。飢えや寒さを心配することもなく、日がな一日寝ていられるのよ。十分じゃない? あたしの育った下町じゃ、少し熱があるくらいで仕事を休む人なんていなかったわよ。十の子どもでもね」

「あたしの田舎もそんな感じ。働かざる者食うべからず、ってね」

「えー、二人とも冷たぁい」


 クスクスと、忍び笑いの声。

 それをエリーズは、布団の中で身を硬くして聞いた。

 この三人は、最も若い侍女でも三年、長い者はもう五年くらいこの屋敷に勤めている者達だ。

 以前はもう少し、親しみを持ってエリーズに接してくれていたように思う。

 いつからだろうか。他愛のないお喋りに付き合ってくれなくなったのは。笑顔を見せてくれなくなったのは――。


「まぁ、お嬢様の病気が坊ちゃまにうつるのが心配だって若奥様が仰るのも、分からなくはないけどね」

「そんなの、こじつけに決まってるじゃない。要するに若奥様はお嬢様のことが嫌いなのよ。目障りだから離れに追いやったわけ」


 あぁ、やっぱりそうなのか。エリーズは漏れ出そうになる溜め息をなんとか飲み込んだ。

 二年前に羽振りの良い子爵家から嫁いできた義姉に、エリーズは一度も話しかけられたことがない。エリーズの体調が良いときにお茶に誘ってみたこともあるが、いつも何かと理由をつけて断られた。

 その上、義姉は、子どもを身ごもるや否や、エリーズに病気をうつされてはお腹の子に障ると騒ぎ立て、エリーズの居室を離れに移させたのだ。

 理由は分からないながら義姉に好かれていないことは察していたが、他人の口から改めて聞かされると、やはり気持ちは沈んだ。


「若奥様がお嬢様を嫌う理由って、何なんですかねぇ?」

「知らないけど、ま、嫉妬じゃない? お嬢様、お顔だけは上等だから」

「あー、分かる。若奥様って、こう言っちゃなんだけどさ、並よね、並」

「ふふっ、化粧で必死に取り繕ってますけどねぇ」

「坊ちゃまを産んでからは、体型まで崩れちゃって。見た? あのお腹の贅肉」

「見た見た。あれはちょっとないわよねぇ」


 再び意地の悪い笑い声が広がる。

 なんだか居心地が悪く、エリーズは寝返りを打って居室と寝室を繋ぐドアから顔を背けた。

 その拍子に、額に乗せられていた濡れ布巾がシーツの上に落ちる。いつから取り替えられていないのか、布巾はエリーズの体温ですっかり温まっていた。


「ねぇねぇ、お嬢様と言えばさ、庭師のジャンに随分懐いてるじゃない。なにあれ? まさか恋しちゃってんの?」


 ドキリ、とエリーズの鼓動が跳ねた。

 次いで、熱で火照っていた筈の身体から、一気に血の気が引く。

 エリーズが胸の奥に大切に隠していたもの、隠したつもりになっていたものは、あっさりと暴かれた。唐突に、無遠慮に。

 

「あ、それあたしも気になってましたぁ。お嬢様、ジャンに対してだけ態度が違いますもんねぇ。身分違いの恋ってやつ? いやーん」

「ちょっとあんた、声が大きい」


 年嵩の侍女が窘める声に続いて、沈黙が落ちた。

 ドアの向こうから、侍女達がエリーズの様子を窺う気配が伝わってくる。

 エリーズはベッドの中でじっと息を潜める。

 ドクドクと心臓が煩くて、隣室にまで聞こえてしまうのではないかと不安になるほどだった。


「大丈夫、寝てるわ」

「お嬢様、いつも熱がある間は目を覚ましませんもん」


 それでも気にはなったのだろう、侍女達は少しばかり声を落とし、お喋りを再開した。


 エリーズは小さく吐息を漏らす。

 彼女達のお喋りを止めさせることなど簡単だ。何か一言発して、目が覚めたことを知らせるだけでいい。

 そう分かっているのに、エリーズは声を出せなかった。

 聞きたくないと思う一方で、気になって仕方がなかったのだ。自分とジャンが、他人からどう見えているのか。

 

「お嬢様がどう思ってるか知らないけど、あの二人がどうにかなるなんてありえないわよ」

「ま、伯爵令嬢と庭師じゃ、身分が違いすぎるものね」

「それもあるけど。ジャンって、もう二十二歳でしょ? 十五歳なんて子どもよ、子ども。相手にするわけないわ」

「そうですかぁ? なんかジャンも満更でもないのかなぁっていう気がしますけどぉ。毎日お嬢様にお花を届けたりなんかして」

「それがジャンの仕事だもの、当然よ」

「あら、随分とムキになるじゃない? もしかしてジャンのこと……」

「ち、ちょっと、違うわよ」

「あらぁ、あなたが照れるなんて珍しい。いいじゃない、ジャン。このお屋敷の独身の男の中じゃ、一番いい男だと思うわよ。真面目だし。母一人子一人で育ったから、母親を大事にしてるって噂よ。背も高いし、よく見れば顔も悪くないわよね」

「えー、ポールの方が格好いいと思いますけどぉ」

「ポールねぇ。確かに顔はいいけどさ、アイツ、自分のこと格好いいと思ってるじゃない? なんか、いちいち鼻につくのよね」

「いいじゃないですかぁ、実際、格好いいんだから」

「若いわねぇ。男は顔じゃないわよ? 結婚するならジャンみたいな男が一番なんだから。伯爵家の庭師なら、食いっぱぐれることもないでしょうしね」


 一喜一憂しながら侍女達のお喋りに聞き入っていたエリーズだったが、「結婚」の言葉にすっと心が凪ぐのを感じた。

 ジャンとの結婚は、エリーズにとってあまりにも現実離れした想像だったから。


 そもそも、結婚というもの自体が、エリーズには遠い世界のものだった。

 貴族の家に生まれた娘にとって、家のために結婚することは当然の義務だ。エリーズもそう教えられて育った。


「あなたもいつかは、お父様の決めた方のもとに嫁ぐのですよ、大丈夫、大人になるまでにはきっと元気になるわ」


 ベッドサイドでエリーズの額を撫でながら、母が幾度も繰り返した言葉。

 母がそれを口にしなくなったのはいつからだったろうか。

 エリーズは十五歳。来年には成人を迎えるという歳になっても、エリーズに婚約の話はなかった。


 それはそうだろう。嫁いで終わりではないのだ。結婚すれば、次は婚家の跡取りとなる子を産まなければならない。

 子どもの頃から身体が弱く、寝付いてばかりのエリーズ。医者は、エリーズの体力では子どもを産むのは危険だろうと、母親に小声で告げていた。

 そんなエリーズが結婚などできるはずがない。

 家の役に立たない両親がエリーズに失望するのも、仕方のないことなのだ。


 だけど、それならば……。

 ふと、凪いだエリーズの心に、小さな風が生まれた。


 家のための結婚ができない娘。

 役に立たない娘。

 要らない娘。


 どうせそんな娘ならば、父は、エリーズが平民と結婚することを許してくれるのではないか。

 例えば――ジャンと結婚することを。


 不意に湧き起こった小さな風は見る間に勢いを増し、上昇気流となってエリーズを舞い上がらせた。

 決してありえないことではない。

 むしろ、役立たずの娘を厄介払いできると喜ばれるのではないか。

 ジャンと結婚して、一緒に花を摘んで笑い合って。そうしたらきっと、何時だって温かい気持ちでいられて……。


「それはどうかしらね」


 冷めた声音がエリーズを現実に引き戻す。

 一瞬、自分に向けられた言葉かと、エリーズは思った。


「この家、随分と苦しいみたいじゃない。あんた達も気付いてるでしょう? 最近、明らかに食材の質が落ちてるの」

「そういえば、奥様も若奥様も、最近ちっともドレスや宝石を買われてないわ……」

「若奥様のご実家からの援助だけでは回らなくなってるらしいわ。お嬢様が嫁げる身体だったら、お金持ちの家と縁を結ぶこともできたでしょうけどね」


 グラニエ伯爵家が危機的な状況にある。エリーズはそれを他人事のように聞いた。

 使用人にまで役立たずと思われていることにも、不思議と悔しさは感じない。

 役立たずでいい。むしろその方が――。


「あっ」


 突然、侍女の一人が鋭い声を上げた。


「もしかして、お嬢様に結婚話、出てるかもぉ。この前、旦那様達がそれっぽい話をしてたような……?」

「はぁ? なんでそれを早く言わないのよ!? お相手は?」

「いや、そこまでは……。だって、まさかお嬢様の話だなんて思わなかったからぁ」

「こうしちゃいられないわ。情報を集めなきゃ。あたし達の生活だってかかってるんだからね」


 侍女達が去り、独りになっても、エリーズは身動きできずにいた。

 歩き出そうとした瞬間に何者かに足首を掴まれ、無様に倒れこんだかのように。


 結婚。グラニエ伯爵家のために。どこかの貴族と。

 いや、まだそうと決まったわけではない。

 だって、こんな病弱な娘を娶ろうなどという貴族がいるはずがないのだから……。


 そう何度も自分に言い聞かせる。

 けれど足首は掴まれたまま、不安な気持ちを消し去ることはできなかった。

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