第7話 白百合3

 コスモスが揺れる夕暮れ時の庭園を、エリーズは独りで駆ける。


「ジャン……!」


 エリーズに気付いたジャンは、目を丸くして帰り支度の手を止めた。


「お嬢様、お一人ですか?」

「侍女の、目を、盗んで、来たの」


 胸に手を当て、エリーズは喘ぐ。

 寝こんでばかりの身体は、ほんの少し走っただけで悲鳴を上げた。


 庭園の隅に設えられた、園芸道具を仕舞うための小さな木小屋。その奥からジャンが取り出してきた木箱に腰掛ける。ジャンは傍らに片膝をつき、そのままエリーズの呼吸が整うのを静かに待ってくれた。


「何か、あったのですか?」


 気遣わしげな声音と、真っ直ぐにエリーズを見つめる瞳。それだけで、エリーズは泣き出しそうになった。

 涙を堪えるように目を伏せる。長い睫毛が小さく震えた。


「わたくしの婚約が決まったの」


 ジャンが息をのむのが分かった。


「お相手はバザン侯爵様ですって。十六歳になって社交界デビューしたらすぐに嫁ぐことになると、お父様が……」


 めったに離れを訪れることのない父親の訪問を受けたのは、その日の昼食後のこと。 

 告げられた侯爵との婚約話は、エリーズの意向を問うものではなく、命じるものですらなく、すでに決定した事項を淡々と言い渡すものだった。


「……それは……おめでとうございます……」


 うつむくジャンの口から祝いの言葉が絞り出された途端、エリーズは弾かれたように顔を上げた。


「おめでとうなんて言わないで! ジャンにだけは、そんなこと言われたくなかった……!」


 色白の顔が紅潮し、唇がわなわなと震える。


「おめでたくなんかない……! 三十歳も年上の方の後妻に入るのよ、この家のために、多額の援助と引き替えに、お父様よりも年上で、私より大きな子どもが三人もいらっしゃる方に、お金で買われるのよ、どうして幸せになれるなんて思えるの……!?」


 エリーズの双眸からぽろぽろと涙が溢れ出す。

 目を見開いて言葉をなくすジャンに、エリーズは傷ついたように顔を歪めた。

 両手で顔を覆い、肩を震わせる。 


「け、結婚なんて、したく、ない、わたくし……わたくしは……」


 嗚咽を漏らし始めたエリーズを、尚も呆然と見つめてから、ジャンは躊躇いがちに手を延ばした。


 ジャンの無骨な指が細い肩に触れた瞬間、エリーズは崩れ落ちるようにジャンの胸に飛び込んだ。

 咄嗟に、ジャンはエリーズの華奢な身体を抱き止める。そのままの体勢でしばらく固まっていたが、やがて、意を決したようにエリーズの背中に手を回した。

 宥めるように背中を撫でるジャンの手は、ぎこちなく、そして温かかった。


 やがて涙が止まっても、エリーズはじっと動かなかった。

 ジャンも何も言わない。

 次第に濃さを増す夕闇の中、互いの息づかいと鼓動の音だけが静かに時を刻む。


「……ジャン、お願い。わたくしをこの家から連れ出して」


 地べたに座り込み、縋るようにジャンの胸に頬を寄せたまま、囁くようにエリーズは言った。

 ぎこちなくエリーズの背中を撫でていたジャンの手が止まる。


「……お嬢様、何を仰って……」

「わたくしは本気です。この家にいたくない。嫌なの、侯爵様に買われるなんて、絶対に嫌」


 抑えきれない激しい感情が、エリーズの声を震わせた。


「ですが……伯爵家のお嬢様を、俺がお連れするなど、そんなこと……」


 ジャンの声は掠れている。


「身分が問題だと言うの? ならばそんなもの捨てるわ」


 きっぱりと言い切り、エリーズはジャンを仰ぎ見た。


「わたくし、ジャンが好き」


 ジャンが大きく目を見開く。

 決して告げることはないと思っていた言葉は、いとも簡単にこぼれ出た。


「わたくしの側にいて欲しい。わたくしが結婚したいのはジャンなの」


 薄暗い中でもはっきりと分かるほどに動揺したジャンは、しばらく口を開け閉めしてから、ようやく言葉を絞り出した。


「……お、俺では、お嬢様を幸せにはできません」

「そんなことない。贅沢な暮らしなど望んでいないの。ジャンが側にいてくれれば、それだけで」

「ですが……」


 エリーズの指先がそっとジャンの唇を塞ぎ、言葉を遮った。

 薄闇の中、エリーズの瞳が奇妙な輝きを帯びる。


「侯爵様に買われて嫁ぐくらいなら、わたくし、死にます」


 ジャンが息をのむ。

 今度こそ言葉を失ったジャンは、泣き出す直前のように顔を歪め、ギュッと両目を閉じた。いつも穏やかなジャンの眉間に、深い皺が刻まれる。

 エリーズの背中に触れるジャンの手が、小刻みに震えた。 


 どのくらいそうしていただろうか。

 初秋の涼やかな風が二人の間を通り過ぎていく。


 沈黙を破ったのはエリーズだった。

 そっとジャンの胸を押し、ゆるゆると上体を起こす。

 失望に染まった心を奮い立たせ、なけなしの矜持で唇に小さな笑みを乗せた。


「……ごめんなさい、無茶なことを言っ……!?」


 諦めの言葉は、最後まで発することはできなかった。

 あっと思った時には、エリーズはジャンに抱き寄せられていた。

 エリーズの耳元に口を寄せ、ジャンが苦しげに囁いた。


「……二週間、時間を下さい。二週間後、もしお嬢様のお気持ちが変わっておられなければ、そのときは……俺がお嬢様をお連れします。ですからどうか、死ぬなどと仰らないで下さい。どうか……」


 こくりと頷けば、背中に回されたジャンの手に力がこもる。

 その温もりを感じながら、エリーズは生まれて初めて、歓びに身を震わせた。

 遠慮がちに寄り添う二人の姿を、宵闇がひっそりと包み込んだ。

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