第5話 白百合1

 たん、たん、たん。


 初夏の花々に彩られた庭園内の小道。

 レンガ敷のその道を、小柄な少女が軽やかに進む。

 身体を締め付けないゆったりとした絹のワンピースにショールを羽織り、手には青紫色の花を一輪、握りしめている。

 緩く編んで一つに纏められた白金の髪が、少女が歩くのに合わせて背中で揺れた。

 薔薇の茂みの向こうに目当ての人物を見つけ、少女――エリーズは顔を綻ばせた。


「ジャン!」


 小さな、しかし弾むような少女の声に、しゃがんで土を弄っていた若い男が顔を上げる。その場に立ち上がり、土のついたズボンを手ではたいてから、日に焼けた顔に穏やかな笑みを浮かべた。


「お嬢様、もうお加減は宜しいんですか?」


 エリーズを近くのベンチに座らせ、ジャンと呼ばれた男はその傍らに膝をついた。


「ええ、熱はもう三日も前に下がっていたのよ。今日ようやく、お医者様から庭に出るお許しを頂いたから、ジャンにお花のお礼を言いに来たの。毎日わたくしのお部屋に綺麗なお花を届けてくれてありがとう」

「勿体ないことです。俺みたいなただの庭師に、お嬢様がお礼だなんて」

「だって本当に嬉しかったんだもの。熱がある時は本も読ませて貰えないの。毎朝ジャンが届けてくれるお花を眺めることだけが楽しみだったのよ。薔薇、紫陽花、アガパンサス、クレマチス……。どう? ジャンに教えて貰ったお花の名前、ちゃんと全部覚えているのよ。それと、花言葉も」

「すごいですね、お嬢様。きっと花達も喜んでいますよ」


 眩しそうに目を細めて、ジャンが微笑む。


 ――あなたは? あなたも喜んでくれる?

 そんな言葉を飲み込み、代わりにエリーズは持っていた花を男の前に差し出した。

 花は先の方で枝分かれし、そのそれぞれに、多数の小さな青紫色の花が寄り集まっている。


「昨日貰ったこのお花は何という名前なの? 不思議な手触りね。花びらがカサカサしていて、まるでドライフラワーみたい」


 少女からの問いかけに、ジャンは嬉しそうに白い歯を見せた。


「これはスターチスという花です。珍しい花ではないんですが、ちょっと変わってるんですよ。この青紫色の部分、花びらに見えるでしょう? でも、本当は違うんです」

「そうなの?」

「ええ、この部分は実は萼なんです。薔薇にしてもヒマワリにしても、たいていの花は、萼は葉や茎と同じ緑色をしていますけどね。スターチスの花はここ……」


 土のこびり付いたジャンの指が、青紫色の中心を示す。

 エリーズは身を乗り出すようにして、男の指先を覗き込んだ。

 二人の額が、触れそうなほどに近づく。

 乾いた土の匂いがふっとエリーズの鼻をくすぐった。

 

「真ん中に白い小さな花があるでしょう? これがスターチスの花なんです」

「まぁ、この小さいのが」

「えぇ。それとスターチスは……」


 はらりと一筋、エリーズの白金の髪が二人の手元に落ちる。

 活き活きと語っていたジャンは、ふと目線を上げ、ハッとした表情で体を引いた。日に焼けた顔に僅かな赤みが差す。

 エリーズも、落ちた髪を耳にかけ、姿勢を正した。微かに残念な気持ちを抱きながら。


「えぇと、それで、さっきお嬢様がドライフラワーと仰いましたが、このスターチスは色が褪せにくいんです。だからドライフラワーに向いてるんですよ。良ければ今度、ドライフラワーにしてお届けしましょうか」

「ありがとう。あ、でもどうせならドライフラワーの作り方を教えて欲しいわ。作ってみたいの。わたくしにも出来るかしら?」

「ええ、大丈夫ですよ。ちゃんとお教えしますから。お嬢様は本当に花がお好きですね」


 ジャンの言葉に、エリーズは小さな笑みで応える。

 本当に好きなのは、花ではない。

 けれど、それを口にすることは許されないと分かっていた。

 代わりにエリーズは花を愛でる。


「ねぇ、スターチスの花言葉は、なに?」

「長く色褪せないからでしょうね、花言葉は『変わらぬ心』です」

「変わらぬ心……。素敵ね」 

 

 呟いたエリーズの微笑みが、寂しげに陰った。


「でも、花と違って人の心は変わってしまうものだわ。お父様も、お母様も、それにお兄様も……。ジャンだけよ、わたくしのことを変わらず気にかけてくれるのは……」


 ジャンは一瞬言葉を詰まらせ、痛ましげに眉を寄せる。


「そんなこと……旦那様も奥様も若様も、お嬢様を心配なさっておいでです。それに、俺達使用人だって……」

「仕方のないことだと、分かってはいるの。子どもの頃からすぐに熱を出して、ほとんど屋敷から出たこともなくて。来年はもう16歳だというのに、ちゃんと社交界デビューできるかどうかすら危うい身体なんですもの。お父様達がわたくしに期待なさらないのも、無理のないことだわ……」


 エリーズがそっと目を伏せる。長い睫毛が白い頬に影を作った。


「それに、わたくしも自信がないの。社交界だなんて華やかな世界……」


 二人の間に沈黙が落ちる。

 しばらくの間、ジャンは言葉を探すように、口を開けたり閉じたりを繰り返した。


「あの、俺は貴族の方々のことは分からないですが……きっと、大丈夫です。お嬢様はお小さい頃よりも元気になっておられるし、それに……」


 言いかけて、ジャンはハッと口を噤んだ。エリーズが伏せていた顔を上げ、目で続きを促す。エリーズにじっと見つめられ、男は居心地悪げに視線を泳がせた。


「その……お嬢様はとてもお綺麗でいらっしゃるから、だから、きっと大丈夫だと……」


 男の言葉に、エリーズは目を丸くした。白い頬がみるみる赤みを帯びる。

 つられて赤らんだ男の顔は、しかし次の瞬間には青ざめた。


「すみません、俺なんかがお嬢様に、失礼なことを……」


 ジャンは膝をついたまま後退り、縮こまって頭を垂れた。

 エリーズは悲しげに眉尻を下げ、ゆるゆると首を横に振る。


「お願い、謝らないで。……ねぇ、本当に? ジャン、本当にそう思ってる?」


 ジャンは視線を逸らせたまま口ごもっていたが、やがて観念したように顔を上げた。真剣な眼差しがエリーズに向けられる。


「本当です。お嬢様はお綺麗です。花に例えるなら、白百合のようだと、俺は思ってます」

「ジャン……」


 二人の視線が、束の間、交わる。

 エリーズが瞳を潤ませ、口を開こうとした、その時。


「お嬢様、そろそろお部屋にお戻りを。お身体に障ります」


 いつの間にか控えていた侍女の有無を言わせぬ声音に、少女は身を硬くした。

 無表情の侍女に促され、のろのろと歩き出す。

 名残惜しく振り返って見たが、ジャンは再び頭を垂れ、エリーズが庭園を出るまでその顔を上げることはなかった。

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