第4話 黒百合2

「これ……」


 小箱に納められていたのは、シンプルな金のブレスレットだった。同じデザインで大きさの違うものが二つ、キャンドルの光を反射してキラキラと上品に輝いている。


「そう、『契りの腕輪』。一緒に選ぶことも考えたんだけど、サラを驚かせたくて。……もしかして気に入らなかった?」


 無言のままブレスレットを見つめるサラの顔を、オレールが不安そうにのぞきこむ。

 サラは勢いよく首を横に振った。


「いいえ……嬉しいです、とても。あまりに素敵で、夢のようで……」


 胸がいっぱいでそれ以上は言葉にならず、サラは潤んだ瞳でオレールを見つめた。

 婚約者は、良かった、と安堵の息をもらしてから、熱のこもった目でサラを見つめ返す。


 ああ、なんて幸せなんだろう。

 オレールと婚約して以来、何度となくサラを包んだ幸福感。

 それは二週間後の結婚式の日に最高潮を迎えるはずだった。

 サラのその予想は、思いもよらない形で裏切られた。もちろん良い意味で。


 オレールが金のブレスレット、その小さい方を手に取る。


 身体の内側から湧き上がる高揚感に小さく震えながら、サラは思う。

 人生でこれ以上の幸せがあるものかしら。

 いいえ、そんなことは想像できない。

 今この時以上の幸せなんてーー。


 オレールはサラの想いを肯定するように小さく頷き、サラに手を伸ばした。


「サラ、手を出して」


 はい、と頷き、サラが左手を出そうとした、その刹那だった。


『お嬢様、お手を……』


 耳許で、男の声が囁いた。

 サラは弾かれたように顔を上げる。

 レストランの個室には誰もいない。不思議そうな顔で動きを止めた婚約者以外には、誰も。


「サラ? どうかした?」

「あ……いえ、誰かの声が聞こえた気がして……」


 若い男の声だった。どこか懐かしい、胸を締め付けるような……。


「声?」


 オレールは後ろを振り返って個室のドアに目を向け、耳をすませるような素振りをした。

 ドアの向こうからは、上品なレストランらしい、静かなざわめきが伝わってくるだけだ。


「特におかしなことはなさそうだけど……」


 困ったような婚約者の微笑みに、サラは急に居たたまれない気持ちになった。


「あの、すみません、気のせいだったみたいです……」


 そう、気のせいに違いない。

 それよりも、せっかくの感動的な場面に自ら水を差してしまったことが、残念でならなかった。

 落ち込みそうになる気持ちを振り切るように、サラは勢い良く左手をオレールに差し出した。

 その勢いにオレールは小さく笑みを浮かべ、それからそっとサラの左手を握った。


「それじゃ、着けるね」


 サラの左手首に、オレールが丁寧な手付きでブレスレットを巻き付けていく。金具を留め終えると同時に、サラは知らず知らずの内に止めていた息を吐いた。 

 ほっそりとした手首で、金のブレスレットが美しく繊細な輝きを放つ。

 手首を目の高さに持ち上げ、サラはうっとりとブレスレットを見つめた。


 その時、不意に金の輝きがぼやけた。

 え、と思った次の瞬間、金の輝きの残像に重なるように、別のブレスレットの姿が浮かび上がる。

 麻紐を編み上げただけの、粗末なブレスレット。

 それを身に着けるのは、病的なまでにか細い、青白い手首。


「っ……!」


 思わず息を呑む。悲鳴が出そうになるのを、サラはかろうじてこらえた。


「サラ?」


 訝しげな声にハッと顔を上げると、心配そうな婚約者と目が合った。

 恐る恐る左手首に視線を戻す。

 そこには麻のブレスレットも青白い手首もない。紛れもないサラの手首で、金のブレスレットが静かに煌めいているだけだ。


「具合でも悪いの?」


 オレールの言葉に、サラは慌てて首を振った。

 心臓がドクドクと嫌な音を立てている。

 冷水に浸した布で全身を包まれたかのように、体温が急激に下がっていく。

 冷え切った胸の奥で、のっそりと何かが頭をもたげるのを、サラは感じた。


 その何かを締め出すように、サラは一度ギュッと目を瞑る。

 笑顔、と自分に言い聞かせて口角を上げたが、うまくできた自信はなかった。


「あ……の、大丈夫、です。ブレスレット、オレール様にも……」

「……うん、お願い」


 おそらくオレールは、サラの表情の不自然さに気付いているだろう。いつだって、サラのちょっとした変化を見逃さず、気遣ってくれる人なのだ。しかし彼はそれ以上何も問うことなく、サラに左手を差し出した。

 小箱から対のブレスレットを取り出し、オレールの手首に巻き付けようとして初めて、サラは自分の手が小刻みに震えていることに気付いた。金具がうまく留まらない。


「あっ……」


 金のブレスレットがサラの手から滑り落ち、テーブルの上でシャラリと微かな音を立てた。


「ご、ごめんなさい、あの、緊張してしまって……」

「サラ、大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね」


 覚束ない手付きでようやくブレスレットの金具を留めると、サラは泣き出したい気持ちになった。

 それはオレールへの申し訳なさからか、ある予感のためか、サラ自身にも分からなかった。


 オレールの両手が、そっとサラの両手を包み込む。

 その温もりに縋るように、サラはオレールの手を強く握り返した。


「契りを」


 オレールの瞳が真っ直ぐに向けられる。

 サラはそれを避けるように、オレールの唇に視線を固定した。


「来世もサラと一緒にいられますように」

『来世も……いえ、来世こそはお嬢様を幸せに……』


 オレールの声に被さるように響く若い男の声。

 自身の頭の中で響くその声に、ぞわりと全身が粟立った。

 視界がぼやけ、目の前にいるはずの婚約者の輪郭が曖昧になる。

 気のせいなんかではない。

 その声をサラは知っている。

 懐かしく切ないその声の主は……。


『ジャン……来世も、あなたと、一緒に……』


 身の内で囁いたのは、掠れた少女の声。

 あぁ、わたしの声だ。

 そう思うのと同時に視界がぐにゃりと歪み、サラの意識は途切れた。

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